満天の星空
「彼女の家に、寄ってくれないか」
「お前……」
「頼む。確認だけ……、させてくれ」
ずっと窓の外を見たまま、ひと言もしゃべらなかった梶原が、戻る途中でそう言い出した。熊谷も、さすがにそれ以上反対はせず、ハンドルを切った。
階段を上がり、結衣の部屋の前に到着する。チャイムを鳴らしてみたが、返事はなかった。いや……、鳴らす前から、人の気配がしないのは分かった。
「は~」
梶原は、小さく息を吐いた。そのまま崩れる様に、その場に座り込んだ。背中を、冷たいスチール製のドアにもたれかけ、両の手の平で、目を強く押さえつけた。
「結衣……」
情けないが、込み上げてくる涙を、抑えることができない。
「梶……」
一緒に付いてきた熊谷は、初めて見るそんな梶原の姿に、掛ける言葉がなかった。
「きっと、部屋の中は、綺麗なんだろうな……」
独り言のように、梶原が小さく言葉にした。その言葉を拾いきれなかった熊谷が、問う。
「何?」
答えは、返ってこなかった。
――旅行に出る時は、いつも部屋を綺麗にしてから、出掛けるって
――もし旅先で死んだら、自分の部屋に、自分以外の誰かが必ず来るのよね
――実際、旅行中の飛行機事故で亡くなったの
結衣の言葉を思い出して、また息が詰まった。
――相手にとって、最後の私になるかもしれないから
結衣の最後の顔を思い出そうとしたら、次から次へと結衣の顔が思い出された。
タロットカードを手に、真剣な顔をした結衣。
お店のメニューを見て、ワクワクが隠し切れない結衣。
ドライブに疲れて、助手席で寝ていた無防備な結衣。
失礼な若者に、啖呵を切った勇ましい結衣。
そして、腕の中で、僕に全てを委ねてくれた結衣。
どれもこれも、忘れることなどできない……。
――私、梶原さんのことも、笑った顔で覚えておきたい
最後、僕は笑っていただろうか……。
君に、2度と会えないのか……。いや、そんなはずはない。
それは……、嫌だ! 絶対に、嫌だ! 絶対に!
もう、僕の一部は、君になってる。
神様、無理矢理、引き剥がさないでくれ!
「梶、そろそろ帰ろう」
周りが暗くなり始めても、動こうとしない梶原に、熊谷が声を掛けた。
「……ん」
抱えた膝に顔を埋めていた梶原は、熊谷の手を借りて立ち上がった。
バタンッ!
車のドアが閉まる音が、アパートの階段の下でした。
「もぅ! 博美の雨女っぷりには、参るわぁ。どんだけ~! よ」
「えぇっ、私? 結衣じゃないのぉ。私は美容院も遠足も、降られたことないよ」
「私だって、記憶ない~。台風なんて、呼んだことない~」
「それよりさ、どうする? お金返してもらう? それとも、次の旅行に申し込む?」
「どうしよっ……か……、あれ?」
階段を、梶原が転げ落ちる様に駆け下りて来た。
「結衣! 結衣! 結衣!」
「……」
結衣は、いきなり強く抱き締められ、何事かと目を瞬かせる。
「……梶原さん、どうしたの?」
「結衣……」
梶原は、結衣の頭を掻き抱く。男の人の力を見せつけられ、結衣は苦しくて、背中に回した手で、梶原の背中をポンポンと叩いた。
ほんの少し力を緩めてくれて、でもやっぱり、腕の中からは解放してもらえない。
「ほんと、やめて……。こういうの……」
梶原はそう言ったきり、しばらく結衣を手放してくれなかった。
結局、結衣達はあのバスに乗っていなかった。しかも、事故のことも全く知らず、梶原から聞いた時には驚いた。確かに、30分違えば、乗っていたかも知れないバスだったからだ。
では、なぜ電話が通じなかったかというと……。
「海外simに取り換えちゃってて」
とのことだ。しかも結衣のスマホはデュアルsimではなかったため、いつもの携帯番号は使えない仕様になっていて、繋がらなかったらしい。
「LINEだったら、普通に繋がったのに」
とは、後日の笑い話である。もう、電源が入っていないと思い込んでしまった梶原は、逆にLINEで連絡を取ることは、一切頭から除外されていた。
しかも結衣達は、グアムにも行けなかった。グアムにハリケーンが近づいていて、結衣達が乗る予定の飛行機が飛ばなかったのだ。その決断に時間が掛かり、結衣達はずっと空港に足止めされていたという。
そうでなければ、空港や機内から、きっと梶原にLINEで写真を送っていたと、結衣は笑った。
ちなみにこういう場合、旅行代金は全額戻ってくる。もしくは、そのまま次の旅行の資金に回してもいい。日程を組み直して、グアムに行き直すことも考えたが、今回はキャンセルして返金してもらった。
その代わり、結衣と梶原は、熊谷の住んでいる信州に、翌日から1泊旅行に出掛けた。これは、熊谷の粋な計らいによる。
まぁ、梶原の様子を見ていて、これは当分放してもらえないと、結衣を気の毒に思ったのも理由の1つらしい。
熊谷が修行しているワイン工房は、宿泊施設も経営していて、熊谷はそこの仕事も手伝っている。そこの1部屋が、熊谷が東京に里帰りする日にキャンセルが入り、空いているのを知っていたらしい。
お陰で結衣達は、満天の星空の下、夏休み気分を満喫した。特に梶原は、1度ドン底に落ちたテンションの反動が大きく、何かが外れたように解放されていた。
昼は葡萄畑やワイン工場を見て回り、併設するレストランでは、その工房のワインに合う料理を楽しみ、ワインの飲み比べなども満喫した。
宿泊施設は、全室コテージ風の建物になっており、それぞれ個別の露天風呂も付いていた。結衣はそこでゆったりしようと思っていたのだが、熊谷の予想通り、梶原が結衣を手放すことはなかった。
梶原は梶原で、自分は淡白な方だと思っていたのだが、どうやらそれなりに「しつこさ」を持っているのだと、この旅行で自覚するに至った。
結衣が相手だと焦らすのも楽しく、若い頃と違って自分を制御することができることも、新たな発見に繋がった理由の1つではある。
しかもありがたいことに今回は、1回で終わることなく何度か復活も叶い、結衣を存分に愛することができた。
どうやら人は、1度失ったと思ったものを再度手にした時、それに対する執着心は、とてつもないものになるらしい。
その上、外の空気の中での情事は、梶原も初めてのことで、その開放感は想像を超えた。
結果として、湯あたりするほど楽しんでしまい、ちょっと結衣に叱られた。が、体が反応するのだから、どうしようもない。
「結衣が、エロいから……、たまらないんだよ……」
途中、そう口走ってしまい、更に叱られた。なぜ褒めたのに叱られるのか、理不尽この上ない。
どちらにしろ、今回の様な思いは、人生でそう何度も体験する感情ではないので、その異様な興奮が、そのまま夜空の星に放たれていったのだと、理解願いたい。
そういえばもう1人、今回のことで人生の節目を迎えた人がいる。博美だ。
彼女は、不倫相手と別れた。
梶原の、結衣を心配する姿を目の当たりにし、わが身を振り返って考えることになったという。
「私も、私だけ愛してくれる人を、探すことにするわ」
そう言った博美は、なんだか清々しかったと、梶原は結衣から聞かされた。
結衣がその報告を受けたのは、信州の土産を博美に渡すべく、博美の部屋で家飲みをした際だ。
「彼にさ、聞いたのよ。『バスの事故を知った時、心配した?』って」
「心配したでしょ、そりゃ」
「それがさ、知らなかったって言うのよ。子供達を遊ばせるのが大変で、テレビ見てなかったって」
「……そうなんだ」
「なんかさ、つくづく分かっちゃって……。私、どこまで行っても、空いてる時間を埋める女なんだなって……」
「そんなこと、ないって」
「あるって。私、結衣を抱え込んだ梶原さん見て、少し感動すら覚えたもん」
「そうかな」
「そうだよ。女のために泣いてくれる男って、私、初めて見たかも~」
博美はそう笑った。
まぁ、最後の言葉は梶原には内緒だが、確かに結衣も今回のことで、梶原に対しての気持ちが、「好き」を越えた気がしている。「情」に置き換わっていく感じといえばいいだろうか。心の中の梶原の密度が、グッと濃くなった。




