サヨリ
ライムを絞って、焼酎を口にすれば、爽やかな香りが鼻に抜けた。夕食は家で済ませて来たのに、お通しだけでは物足りなさを感じて、何か追加しようとメニュー板を見る。
「おじさん、今日のおすすめは何だった?」
「白魚の踊り食い」
「イヤー! あれ、無理~」
「はは、じゃ、サヨリは?」
「サヨリかぁ……」
どうしようかと、逡巡する。揚げ物の気分ではないから、やはり焼き物か……。
「美味しいですよ」
突然ポツリと、隣の彼が言った。よく見れば、彼の手元にもサヨリが置かれている。顔を見れば、また少し微笑んでいる。
「……じゃ、私もそれにしようかな」
尻すぼみに小さくなる声が、素直になり切れない強がりの残照のようだ。32歳の独身女は、小さなことにもこじれやすい。別に、あなたに言われたからって訳じゃないけどね……。
「おじさん、私もサヨリ焼いて」
「あいよ」
注文を済ませて、もう一度隣にお礼を伝えた。
「ありがとうございます」
「いいえ……」
彼はまた、小さく微笑んだ。
焼き物は時間が掛かる。特にこの店は、小さな居酒屋のくせに炭火を使っているから、更に掛かる。出てくるまでの間、「卯の花」で凌ぐかぁ……。と、ちまちま小さく口に運ぶ。
肩が触れそうな程の距離にいるにもかかわらず、黙ったままの2人の空間は、不思議と居心地が悪くない。
あぁ、こういうところが、20代と違って力が抜けてて、良い所なのだと自覚する。
こうやって、1つずつ経験することで、「人の目」から自分を剥がしていけるのだ。それはとても楽なことであると同時に、「ドキドキする新鮮な体験」を1つ手放すことでもある。
1杯目の水割りがそろそろ終わるころ、やっとサヨリがやってきた。隣の彼のサヨリは、程なく食べ終わる様子だ。
「はい、お待ち」
店主に手渡され、いつもより期待を込めて1口頬張る……。ん~!
「おいしい」
思わず、意図せず、隣に同意の笑顔を向けてしまった。
「ですよね」
やっぱりすこし微笑みながら、「おいしい」を共有してくれる。たまには家族以外の人と、食事をするのも楽しいものだなと、最近1人の食事ばかりだった結衣はほっこりした。
「タロット……、ですか?」
彼が、静かに話し掛けてきた。
今日、町内会費を徴収した時も思ったのだが、この人、どう見ても理数系の、理屈で固めて生きている人に見える。そして、きっと声を荒げて怒る事など、ないんじゃないかと想像した。
「ええ、趣味で」
「当たりますか?」
「……どうかな。人によるんじゃないですかね。もともと占いとか信じていない人には、きっと受け入れられないんじゃないかな」
あなたも、興味なさそう……。
「確かにね。信じてる人は、自分から合わせにいきますからね。当たっているところを探して、当てはめる」
「ええ」
そうなのだ。人は、信じていることには、自分から寄り添っていく。お笑いを見る時に、笑う気満々で見ているのと同じだ。少しでも笑えるところを探して、自分から笑いに行く。
だから占い師には、無条件で相手を信じさせる「カリスマ性」が必要なのだ。当然、私には、そんなものはない。
「面白そうだな」
結衣は少し驚いた。サヨリの箸が止まり、彼の顔を思わず見てしまった。
その様子を感じ取ったのか、梶原はまた少し微笑みながら、結衣の目を見返した。
「似合いませんか?」
「えっ……、いえ」
反射的に否定してしまった。どうやら、自覚しているらしい。
「あっ、でも、……そうですね。あんまり占いとか、信じてなさそうだなって……」
彼はまた、小さく笑う。最後と思われるビールのグラスを、クイッと空けた。
なぜだか結衣は、悪いことを言ってしまったように感じ、取り繕ってしまう。
「あの……、カードやってみます?」
「いや、大丈夫。姫野さんの推測は、当たってます」
「えっ……」
名前、なんで……?
「領収書に、印がありました」
まるでこちらの不安を見透かすように、言葉が返ってくる。彼は、微笑んだままだ。
「あぁ、そっか」
昼間渡した、町内会費の領収書のことだ。びっくりした……。
結衣は気を取り直して、昼間聞けなかったことを聞いた。
「そういえば、ヴァイオリンがお好きなんですか?」
「……そうですね。姫野さんは、パールマンが好きなんですか?」
「えっと……」
どう答えたものか、少し間が開いた。
「生の演奏を聞いたことがあって。日本公演の時に」
「へぇ……。チケット、大変だったでしょ」
「一緒に行った人が取ってくれたので、大変だったかどうかは……。でも、会場は満席でしたね」
元カレと、デートで行ったなぁ。懐かしい。彼は今、どうしているんだろう……。
「どうでした?」
「良かったですよ。軽々と全ての曲を弾きこなして、人として尊敬する……かな」
「あぁ……」
イツァーク・パールマンは、ヴァイオリニストである。
1945年イスラエルのテルアビブに生まれ、4歳の時にポリオで下半身が不自由になった。貧しい家に育ったが、両親がその才能に気付き、13歳の時アメリカに渡る。
体が不自由な演奏家が、受け入れられる時代ではなかったにも関わらず、有名なヴァイオリニストに見出され、ジュリアード音楽院に進むことができた。更にそこで良き指導者に恵まれたことから、才能が開花した。
2009年のオバマ大統領就任式での演奏は、画面で見掛けた人も多いだろう。
実際の演奏会では、若い頃は杖で登場し、椅子に座って演奏をしていたが、近年は更に病状が進んだのか、電動車椅子での登場になっている。
世界屈指の人気音楽家で、キング・オブ・ヴァイオリンと呼ばれている。
「実は僕は、彼のヴァイオリンはあまり好きじゃなくてね」
「えっ……」
「すみません。ファンの方にこんな言い方」
「……」
会話が、途切れてしまった。その沈黙を破ったのは、結衣だ。
「よかったら、焼酎飲みませんか?」
突然の申し入れに、少し不思議そうな顔をした梶原を尻目に、結衣は大輔にグラスを頼んだ。
「大ちゃん、もう1つ、焼酎のグラス頂戴」
「何だ、どうした?」
グラスを持ってきた大輔が、カウンターにグラスを置く。
「お裾分け」
新しいグラスに焼酎を注ぎ始めた結衣の手元と、隣の梶原を確認しながら、大輔はしばし佇んでいたが、他のお客さんから声が掛かり、仕事に戻っていった。
「はい、どうぞ」
出来上がったライム焼酎を、隣に差し出す。作っている途中で、遠慮する言葉を掛けられるかな……と思っていたが、それはなかった。どうやら、私とは違った性格らしい。
「いいんですか?」
「ええ。丁度ボトルが終わるので」
「じゃ、遠慮なく」
梶原はグラスを小さく掲げた。それに、結衣もグラスを合わせた。
「乾杯」
「実は、私もパールマン、あんまり好きではないんです」
隣で、彼が焼酎を飲む手を止めた。彼の顔を見て、ニッと笑う。すぐに手元のグラスに視線を戻して、結衣は続けた。
「少し音が、軽すぎて……」
そこで改めて、確認するように彼の目を見た。それに、彼もゆっくりと笑顔を返した。
「そうでしたか……」
交わった視線を先に外したのは、梶原の方である。結衣は、もう少しその先を知りたい。
「どこが、好きじゃないんですか?」
「同じです。音が、軽すぎる」
同じ……。
結衣は、演奏会の時を思い出す。
「生の音も、あの通りでした。何もかもが軽くて、美しい。なににも囚われないかのように、空間を滑って行ってしまう……。まるで、天使が弾いているかの様で、私には合わない……、じゃないな」
違う言葉だと、結衣は探す。
「好きにはなれない、ですね……」
もう一度、整理し直して言葉にする。
「私はこの音を、好きにはなれない。その時、痛烈に感じました。偏見かも、しれませんね」
「偏見?」
「きっと、体が不自由なことで本当に苦労しただろう人の音が、あんなに見事に軽いだなんて、私には受け入れ難くて……。やっぱりそれは、偏見ですよね」
「いや」
意外としっかりした声で、否定の言葉が返ってきた。
「……すごくよく分かります。言葉にするなら、僕も同じですから」
言葉もなく横を見れば、結衣は梶原と目が合った。
「僕、梶原と言います」
「あっ、姫野です」
「……知ってます」
もう一度2人して、声を出して笑った。




