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プライド

「どういう事?」

「彼女、働き始めてから、よく母に呼び出されていたらしいんだ。そのたびに、母は彼女のプライドを傷付けていったらしい」

「梶原さんは、そのことを知らなかったの?」

「知らなかった。彼女は何も言わなかったし、もちろん母も、そんなことはおくびにも出さなかった」

「どうして奥様は、言わなかったんだろう……」

「プライドが、許さなかったんだと思う。彼女は、人生の中で、他人にバカにされることは、1度もなかったと言っていたから。だから、母の言葉に傷ついていることを知られたくなかったんだろうな……。負けず嫌いだったし」

「どんなことを言われたの?」


 梶原はここで、少し間を置いた。小さく息を吐いて、伏し目がちな視線を中空で止めた。

 咄嗟(とっさ)に結衣は、踏み込み過ぎたと焦る。

「あっ、今のは気にしないで。嫌なこと、思い出させちゃって、ごめんね」

 結衣の言葉に、梶原はもう一度息を吐いて、いつもの小さな笑顔になった。

「いや、大丈夫。何だか随分前の様な気がしてたのに、意外と覚えてるもんだなって、ちょっと考えてただけだから。結衣ちゃんのこと、ホント、責められないな……」

「そんなこと……」

 いつまでも、元カレのマンションを気にしていた結衣を、梶原が(とが)めた事を言っているのだろうと気付く。本当に梶原さんは、律儀な人だ。


 人の心にできた傷は、時が癒しきれないことも、数多くある。そのことを、一体誰が責められるのだろうか。


「それにできれば、結衣ちゃんには聞いておいてもらいたいし……」

「あっ、うん……」


 梶原は、話を再開させた。

「例えば、彼女、小さい頃からピアノを習っててね。僕等が住んでたのはマンションだったんだけど、ピアノを嫁入りに持ってきたんだ。アップライトのをね。そこに母は文句をつけた」

 嫁入り……。そんな言葉にも、結衣は小さく心が反応した。今更だが、本当に梶原さんは、結婚をしてたんだ……。

「何て?」

「仕事をするなら、ピアノなんて弾く暇ないでしょ。大体、あんな狭い部屋に、あんな余計なものを持ってくる方がおかしいと思っていたのよ、って」

「……。結構、辛辣(しんらつ)だね」

「あぁ、母は言い出すと止まらないんだ。人の悪口も、文句も……」

 梶原は、自分の恥だと思っているのだろう。とても辛そうに、眉根を寄せた。


「他にも、彼女は茶道を習ってたんだけど、その流派が武者小路(むしゃのこうじ)でね。それにも文句をつけた。母が習っていた裏千家の方が正当だとね。しかも運悪く、母方の伯父が、講師の免状を持ってるもんだから、それを持ち出して上段に構える」

「茶道が、何か関係あるの?」

「武者小路だから、何でも合理的になる。だから、女が仕事をしようなんて考える」

「ぅわっ……」

「あなたが仕事して、どれ位お給料がもらえるか知らないけれど、仕事すれば出費も増える。化粧品とか洋服とか……。差し引きを考えたら、きっと残るお金なんて少ないはずだ。だったら、その分節約しなさい、って」

「……すごいね」

「何で、茶道からそこまでになるのか……。しかも、どっちの方が合理的なんだって話で……」

「お母さん、弁が立つ……」

「関心するところじゃないよ」

「ははっ」


「プライドのぶつかり合い」という言葉が、結衣の頭に浮かぶ。自分の持ちカードを全て使用して、お母さんも、きっと奥様も、全力で戦ったのだろう。


「何かにつけ母に文句を付けられていたのも、彼女にとっては間違いなくストレスだった。しかも、僕はそれに対処ができない……」

「奥様を、(かば)ったりしなかったの?」

「目の前で言われれば、もちろん庇うよ。だけど、知らない所でやられては、どうしようもない。僕が後で何を言っても、母は全く聞く耳持たずだ。逆に、あんな人を嫁にするから、あなたがそんなことをお母さんに言う様になったと、火に油だ」

「……大変だ」

「理屈が通らないのは、参る。母には母の理屈があって……。そんな、何もできない僕に、彼女も嫌気がさしてたんだろうな。心に、隙間ができたのも、しょうがないかな……って」

 梶原が力なく、結衣を見た。その目は結衣の気持ちを探る様に、何かを求めている気がした。

 結衣は考える。それでもそれは、「裏切り」の免罪符にはならない。そう言えばいいのか、かえってその言葉が梶原を傷つけてしまうのか、結衣には判断が付かない。

「そっか……」

 取り敢えず、相づちだけは打っておいた。

 

「そんな矢先、彼女のお母さんがギックリをやってね」

「あら、大変」

「1ヶ月くらいだったかな。彼女、実家に帰ったんだ」

「奥様、お仕事はどうしたの?」

「あぁ、実家からも通える距離だったから」

「……東京の人なんだね、奥様」

「うん」

 何でもない様に梶原は言うが、隣の県の自分からしたら、やっぱり少し引け目を感じる。別にぃ、ライバルっていう訳でもないけどぉ。結衣は心の中で、口を尖らせた。


「でも、その1ヶ月が、決定打になった」

「何の決定打?」

「離婚の」

「えっ、何で……」

「お互いに分ったんだよ。離れて暮らすことが、どれほど『楽』かって。久し振りにね、家が安らげる場所になった。彼女も、そうだったらしい」

「……」


 結局、話し合いの結果、離婚に至ったとのことだ。梶原の長い自分語りは、終わりを告げた。


「はー」

 大きく溜息をついた梶原は、ポカリスエットを口にした。まだ頭は、すっきりしていないのだろう。結衣は、改めて確認をした。

「じゃ、別れた理由は、梶原さんの浮気……、とかじゃないんですね」

「へっ」

 どうやら、思ってもみないことだったらしく、梶原はポカンとした顔で固まった。

「いや……、違うよ。結衣ちゃん、そうだと思ったの?」

「うん。だって、離婚の1番多い理由でしょ、『夫の浮気』」

「違うんじゃないかな……。よく知らないけど……」

「じゃ、何?」

「『性格の不一致』とかじゃ、なかったかな」

「ふーん、そうなんだ。知らなかった」

「知らなくていいことだからね。未婚者は」

「そうだよね。うーん、そっか。そんな理由だったのか~」

 ちょっと緊張の糸が切れたかのような結衣に、梶原は目を瞠る。そんな理由……って。

「びっくりしないの? 母のこと」

「びっくりはしない。大変そうだな、とは思うけど。同じ女なので、少し気持ちは分かるし、ウチの祖母と母も、結構やり合ってたから」

「……そう、なんだ」

「うん。祖母が亡くなった時の、母の安堵した顔は、子供心にも複雑だったなぁ」

「……」

 梶原は、自分の重荷が小さくなったかのように感じた。まるでどこにでもある、ちっぽけな悩みの様に、結衣は扱う。この子の許容量は、一体どこまで大きいのだろう……。


「それよりも、奥様の事受け入れようだとか、お母さんとの板挟みにあってとか、色々大変でしたね、梶原さん」

「結衣ちゃん……」

「梶原さん優しいから、そういう女のドロドロって苦手そう。ははっ」

「……得意な奴って、いるのかな」

「あー、いないねぇ」

 そう笑う結衣に、梶原も自然といつもの小さい笑顔になった。


「ねぇ、梶原さん」

「ん?」

「私、こんなに辛いと思わなかった」

「えっ、何が?」

 一旦落ち着いた梶原に、もう一度緊張が走った。

「梶原さんが好きだった人の、話を聞くこと」

 あっ、という顔をした梶原は、それでも小さく謝った。

「……ごめん」

「ううん。昨日の梶原さんも、きっと辛かったんだよね」

 だから、あんなに飲んだ……。昨夜のことを思い出し、梶原の顔が小さく歪む。


 ――しかもちゃんと好きだった……んだよね

 ――……うん


「それは……」

 視線が合ったところで、結衣は小さく姿勢を正した。

「梶原さんはね、私の彼氏史上、1番の彼氏さんです。梶原さんしか勝たん、です」

「……結衣ちゃん」

 あぁ……、まただ……。

 梶原は、まるで体の一部が溶け出したかの様な感覚に襲われる。これを、今すぐ君に渡したい……。

 テーブルの向こうにいる結衣の右頬に、腕を伸ばした。

「来て」

 結衣は、梶原の胡坐(あぐら)の中にすっぽりと納まった。

「結衣も、僕の彼女史上、1番だよ」

 そのまま、ぐっと抱き締めれば、溶け出したものが、ゆっくりと結衣に流れ込んでいく気がした。これが、心が繋がるということなのか……。


 腕の中で、結衣のくぐもった声が響く。

「無理しなくて、いいですよ。私、若くないし……」

「無理してない。十分、若い」

「ふふっ」

 結衣も梶原の背中を、ぎゅうっと抱き締め返した。

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