梶原の結婚
「どうして、そのこと……」
梶原が動揺を隠さない。いや……、隠せない。
「梶原さんが、自分で言いました。昨日、お店で倒れる直前に……」
結衣が、不安な目をしている。それはまるで、昨日の自分の姿の様で、何故だか胸がきゅぅぅと小さくなった。不思議なもので、その瞬間は、頭痛が止んだ。
「ちゃんと話そうと、思ってたんだ」
「はい」
「本当は、付き合って欲しいって言う前に、しなきゃいけなかったね」
「……そんなことないですよ。ただ、やっぱり気になります」
「そうだよね。当然だな……」
梶原は、さっき結衣がくれた、新しく冷えたポカリスエットのキャップを開けた。
「僕、割と安定志向というか……。早く自分の人生の骨格を、固めたいと思ってたんだ」
「骨格……」
「うん。就職も、公務員か今の会社か迷ったくらい」
あぁ、ペンタクルの人だったなと、結衣はタロットカードを思い出す。
ペンタクル「金貨」のカードの意味するところは、仕事や経済的なことを表すことが基本だ。人で見れば、堅実で現実的なイメージを表すカードが多い。
「だから、結婚も早くしたいと思っててね。会社の同僚と、24の時に結婚したんだよ」
「24……。若いですね」
「そうだね、若かった……。だから、受け止められることも、少なかった」
「どんな方だったんですか、奥様は?」
自分で言った言葉に、結衣はチクリと胃が痛くなった。梶原の横に、「奥様」がいたのだと思うと、急に嫌悪感が襲ってきた。それは、梶原に対するものではなく、その相手に対するものだ。これは……、嫉妬だ……。
「総合職で入った女性でね。活動的で、同期の中でも中心的な存在だったな」
「じゃ、結婚してからも仕事を続けられたんですね?」
「いや、辞めたんだ。僕の母の意向でね」
「えっ、同居したの?」
「いや、それは彼女が嫌がった。でも、女は専業主婦になるべきだって、母が引かなくてね……」
「もったいないですね」
「……。そう、思わなかったんだよ、その当時の僕は。それがすれ違いの始まりだった」
梶原の話によれば、元奥様はすぐに、主婦生活に不満を抱くようになったそうだ。元々、結婚願望があまりなかった女性だった様で、それを梶原が説得したらしい。
「子育てが済めば、また仕事だってできるよ」
梶原は、彼女の不満を、軽く考えていた。
始めこそ友人たちにも羨ましがられ、主婦友達もできてエンジョイしていたのだが、彼女の後輩の女性がアメリカに転勤になった話を聞いてから、様子が変わっていったとのことだ。
「私だってあのまま仕事を続けてたら、今頃アメリカくらい行ってたわ。TOIECだって800点あったんだから」
その後輩を梶原も知っていたから、つい擁護してしまったらしい。
「彼女、頑張ってたからな。外回りから帰ってきてから書類整理して、帰るのはいつも僕等と同じくらいか、僕等より遅いことも多いんだ。ホント、感心してたんだ。君が寝る頃に仕事が終わる、なんてことはザラだったからね。ホント、よく頑張ってた」
「それ、私にケンカ売ってるの?」
「えっ……」
「私が頑張っていないとでも?」
結婚してから、彼女の「頑張っている姿」を、梶原は直接見ていなかったのも事実だった。
それから目に見えて、家の中が荒れる様になった。朝出た時のまま、いや、むしろそれ以上に部屋が散らかっている。
「2人暮らしで、どうしてここまで散らかるんだ。いったい、どこに座ればいいんだ!」
彼女の無言の反発だったと気付いた梶原は、素直に謝った。
「僕が悪かった。君もちゃんと仕事していることを、認めてない発言だったね」
「私を評価するのは、あなたしかいないんだよ。ちゃんと、分かってよ」
主婦の承認欲求を満たすのは家族だけだと、その時初めて気が付いたと、梶原は言った。
結衣は話を聞いていて、どちらの気持ちも分かる気がした。
結衣は、父が亡くなった後、母と2人で暮らしたことがある。その間、遠距離通勤をして、朝食はもちろん、昼食の用意もして出勤をした。夕食はスーパーの総菜にも手伝ってもらいながら、それでもなんとか作っていた。
母の面倒は自分が見なければ……と、何故だか気負っていたのだ。毎日すり減っていく体力と精神力が、まるでスマホの充電メモリの様に、目に見えて分かった
ギブアップするのに、3ヶ月掛からなかった。独り暮らしに戻った時の開放感は、罪の意識など微塵もなく、ただただ心地よかった。……人には言えないが。
兄とも相談し、とりあえず母の独り暮らしが始まり、現在に至っている。案外、母も気楽に暮らしているようで、何とかなっている。
その時に、働いて帰る者の気持ちも、家庭の全てを回さなければならない主婦の気持ちも、両方体験した。
どちらも辛いし、どちらかが一方的に楽をしているわけでもないのだ。比較できる種類のものではない。
「仕事に疲れて家に帰れば……」とよく男性は言うが、もちろん仕事は疲れることばかりでもない。承認欲求が満たされることもあるし、達成感や満足感も得られる。
何より、自分の存在が、何かの、誰かの役に立っていることが実感できる。
主婦には、それがない。特に子育てをしていない主婦には、それが乏しい。
「飯炊き女」として、キッチンに立っている時間がどれほど長いか。その割に、満足感が得られることは実に少なく、「当たり前」という言葉で、日々の努力が撲殺されていく。
その代わり、主婦には制限が少ない。規則と時間と空間、そして人間関係にがんじがらめにされることはない。嫌なコミュニティからは遠ざかることが可能だし、給料の対価としての成果を、常に問われ続けることもない。
もちろん、家族の世話をすることに休みはないが、休憩や手抜きはできる。その事で、理不尽な他人からの攻撃に、頭を下げ続けることはないのだ。
「仕事をしたいと、彼女が言い出してね」
「あぁ、そっか……」
梶原は時より顔を歪めながら、話を続ける。それは、まだ残っている二日酔いのせいなのか、思い出している記憶のせいなのか、結衣には分からない。
「仕事を始めた彼女は、それは生き生きとしていたよ」
「……そうなんだ」
「うん。当然なんだけど、僕等はすれ違いが多くなった。僕はその頃から忙しかったし、彼女が家事よりも仕事が好きなのは、もう分かっていたから、残業が多くなっても、何も言えなかった。仕事なのはお互い様だしね…」
「じゃ、夕飯はどうしてたの?」
ふと遠い目をして、梶原は答える。
「週末だけだったなぁ、手料理は」
「梶原さんが作ったり、とかは?」
「ははっ。その発想が、当時の僕には全くなかった。……ダメだよな」
「じゃ、コンビニ弁当とか外食?」
「……まあね。だから僕も、もう外で食べて帰る様になっていった。そのことで、よくケンカもしたな。食べて帰った日に限って、彼女が夕飯用意してたりして……」
「連絡しなかったの? 食べて帰るよって」
「うーん、彼女が用意するのも気紛れだったからね。用意してることを、連絡してくれたらよかったのにって、またケンカになる」
「そっか……」
「今思えば、たかだか食事の事なんだけどね」
「ううん。一緒に食べるのって、大切だから」
そこ、分かってくれるんだ……。結衣の顔を見て、少しだけ梶原の頬が緩んだ。
「うん……、そうだよね」
肩を落として話す梶原を、結衣は改めて見た。
初めて見た時の梶原は、あんなに冷静で静かな印象だったのに、実はこんなに感情が揺れ動いて、人生にもがいてきた人なのかと思うと、急に胸の辺りがモワモワとしてくる。抱きしめて、「大丈夫だよ」と言ってあげたくなる。
6つも年上なのに、梶原さんって、可愛い……。
梶原が、またポカリを一口飲むのを見て、ふと気づく。
「梶原さん、タバコ吸っていいですよ。昨日のお店でも吸ってなかったし……。ウチは、禁煙じゃないですからね、どうぞ」
笑う結衣に、梶原は小さく首を振る。
「いや、いいよ。タバコ止めようと思ってるから」
「えっ、すごいね。会社、全面禁煙にでもなっちゃうの?」
「いや……」
梶原は結衣の顔を見て、優しく笑った。
その笑顔の意味するところが分からず、結衣はキョトンとしてしまう。健康診断で、指導でも受けたのかな……。
「そんな日が続いてたんだけど……」
梶原が、また話を始めた。そうだった。離婚の理由、そんな事じゃないよね。あぁ、でも、小さなすれ違いが重なることも、大きいか……。
「ある日、彼女の帰りが遅い日があってね」
「えっ、……何時頃だったの?」
「3時」
「……」
「彼女が、生き生きしていたのと同時に、綺麗になっていったのも気づいてた」
「でもそれは……」
「うん、それは浮気の証拠ではない」
「……」
「問い詰めたよ。仕事で遅くなったって言うから、どんな仕事なんだ、ってね」
「奥様は、何て?」
「皆で飲みに行ったって。大きな仕事が終わったからって」
「……うん」
「僕は何度か電話を入れてたから、せめて返信するべきだったと責めた」
「そう……だね」
「ごめんなさい、って言われて」
グッと梶原の奥歯が噛みしめられたのを、結衣は見逃さなかった。きっと今、その時の感情が甦っている。
「張りつめてたものが、切れたよ……」
「ごめんなさい」が、何に対してのものだったのか。電話の事だけだったのか、それとも……。
「それからは、同じ空間にいても、ほとんど会話もなくてね」
「奥様は、遅くなる日が続いたの?」
「いや、それっきり、全くなかった。むしろ、以前より早く帰る様になったかな」
「じゃ、ほんとに何にもなかったんじゃ……」
「そうかもしれない。でも……」
梶原が、グッと言葉を呑む。結衣は思わず言いづらいだろう言葉を、引き継いだ。
「信用……、できなかった?」
梶原は結衣の目を見て、いつものような小さな笑顔になった。
「彼女の性格を、よく分かっていたから……こそ、かな」
「……」
「謝った時の彼女の顔がね、彼女の後悔を物語ってた」
「……」
「ただね、その後の、僕に対する態度から、2人の間を修復したいと思っていることは分かったんだ。だから、受け入れるつもりだった」
「梶原さん……」
「誰にでも、間違いはあるから……」
下を向いてしまった梶原に、掛ける言葉はなかった。
そう、男と女の間には、間違いのルートは信じられないほど用意されている。ましてや、そこにお酒という最強のアイテムが加われば、難なく次のダンジョンに進めるだろう。結衣の間違いも、そこから始まったのだ。
「会話をする様に戻ってから、僕は新たな事実を聞かされることになってね」
「新たな事実?」
「母だよ」
急に別なところからのジャブが来て、結衣は驚いた。
「母が、仕事を始めた彼女に相当な不満を持っていて、その不満を直接ぶつけていたんだ」
梶原の言葉が、結衣の体験したことがない物語を語り始めた。




