熱燗
「結衣ちゃん……」
「梶原さん……」
翌日、久し振りに会った2人は、しばし見つめ合った。といっても、ケンカしてから4日しか経っていない。
「結衣ちゃん、ほんとにゴメン」
「ううん。私の方こそ、ごめんなさい」
お互いに、1つ息を吐いた。第一関門、突破といった風情だ。
「行こうか」
「うん」
梶原は、結衣に手を差し出した。結衣はそっとその手を取る。安心した顔で梶原はグッとその手を握って歩き出した。
夕食は、個室のある和食料理店だった。結衣が送ったLINEに、既読が付いたのは今朝だ。今日の今日で、よく個室が取れたものだ。店は結構混んでいる。
「よく、予約が取れましたね」
「僕の父の伝手でね。必要なら、いつでも使えって言われてた」
「えっ……、お父さん?」
「うん」
両親にわだかまりを持っている梶原が、その伝手を使うことに抵抗はなかったのだろうか……。
「わざわざ、すみません……」
「いや、大切な話だから、邪魔はされたくない」
「……はい」
真正面から向き合われる緊張感で、結衣は怖気づく。
甘えると言っても、どうやったら……。今までやったことがなかったから、甘え方が分からない。
個室の座敷に落ち着いて、座卓を挟んで向かい合った。
「結衣ちゃん」
結衣が話し出せずにいると、梶原が先に口火を切ってくれた。
「話したくないなら、話さなくていい。この間は酔ってて、ホント、僕どうかしてたんだ。あんな風に追及されて、素直に言える人なんて、いないよね。だから、無理し」
「梶原さん」
結衣は、梶原の言葉に割り込んだ。梶原が、一瞬怯んだのが分かった。それを見て、結衣は勇気が出た。梶原も、本当は怖いのだ……。
「私、上手く言えないかもしれないけど……」
「うん」
「ちゃんと梶原さんの質問に、答えようと思ってきました」
「……うん」
「梶原さんは、何が知りたいですか? 私の男性の過去、全て知りたい?」
「……」
結衣の目を見たまま、梶原の表情が止まった。目が動き出すまでに、5秒は掛かっただろうか……。
「ふー」
梶原が、大きく1つ息を吐いて目をつむる。そして、もう一度結衣の目を見た時は、覚悟を決めた目になっていた。
「いや、そういうことじゃないよ、結衣ちゃん」
「……」
「もちろん、僕も男だから、そこは気になる。だけど、それも含めての今の結衣ちゃんだから、根掘り葉掘り聞きたいわけじゃない」
「はい」
「ただ、君は頑なだったから……。まだ何か、吹っ切れてないものがあるんじゃないかって……。それが知りたかった」
「……はい」
やはり……そうか、と結衣は目を伏せる。目を見て話したいが、どうやらとてもできそうにない。テーブルに並んだ先付を見ながら、ゆるゆると、結衣は話し出した。
「私が初めて就職した会社で、営業だった先輩とお付き合いしたんです。私は、お付き合いしているつもりだったんですが、相手はそうではなかった」
「……そうではなかった?」
「私の前にも、社内でいろんな女性に手を出してる人でした。私、知らなくて……」
「……」
「付き合って3ヶ月程経った時、社内の別の女性との噂が立って……。偶然、その彼女が『自分はセフレだ』と言っているのを聞いてしまって……」
「……」
「私、バカだから、自分がもっと素敵になれば、彼を自分のものだけにできると思ってしまって、別れなかったんです」
「バカじゃないよ、結衣ちゃんは……」
梶原の言葉に、少し驚いて顔を上げた。そこには真剣に聞いている梶原の顔があって、結衣は胸が詰まる。たまらなくて、やはり目は見続けられなかった。
「他にも別の女性の影がチラついてたのに、自分が彼女なんだからって、意地張ってしまって……」
「うん」
「半年後に、そのセフレって言ってた彼女が、妊娠したんです。相手はその彼で、めでたく結婚しました」
「……」
「彼女じゃなくて、私の方がセフレだったみたい」
「結衣ちゃん……、笑わなくていいよ」
「……」
結衣は自分が笑っていることに、言われて初めて気が付いた。梶原は、悲痛な表情をしていて、その顔を見た途端、何故だか分からないが涙が溢れてきた。
「やだ、私、今更……。バカみたい……」
「バカじゃないよ、結衣ちゃんは」
「……うん」
もう一度そう言ってくれた梶原の言葉に、もう涙を我慢することはできなくなった。次から次に溢れてくる涙を、必死に拭いながら、自然に止まるまで泣き続けた。梶原も黙って、待っていてくれた。
やっと気持ちが収まってきて、結衣は顔を上げた。長年のわだかまりが、スッキリした気がする。
そうか……、私はこの話を、誰にも話したことがなかった。これでやっと、手放すことができたのかもしれない……。あぁ、そうか……。
――何を手放せって言うの……
ついこの間まで出続けていた、自分を占った時のカード「死神」。全ての終わりと始まり。過去からの解放。今までの自分を捨て、新しい自分の再生。あぁ、そうだったんだ……。
佐野のことを忘れたつもりだったのに、いつまでも心の片隅で執着し続けていたのは、自分だったのだと気付く。もうこれで、本当にさよならだ。あなたのいる世界は、この先の私にはない。
「あのマンションは、その彼が住んでるんだね」
「はい。結婚してから、引っ越したみたいです。ホントに偶然、子供を抱いた彼がベランダにいるところを、電車の中から見てしまって、ビックリしました」
「そう……」
梶原は穏やかに、確認してきた。
「今でも彼のこと……」
「いいえ。もう、想いなんて欠片も残ってません」
「……そう。なら、よかった」
梶原が、少し寂しそうにいつもの小さな笑顔を見せたので、結衣は改めて否定する。
「ホントです。ホントに何とも思ってません。ただ、あそこを通ると、自然と目が追ってしまうだけで……。それが嫌で、あの時梶原さんに話せなかった。ホントに気持ちは残ってません!」
「うん、分かった。大丈夫、信じるから」
やはりその顔が寂しそうで、逆に結衣は心配になった。やっぱり、受け入れてもらうことは、できないのだろうか……。
「食事、しようか」
梶原が、個室の内線を使ってお酒を注文した。和服を着た仲居さんが、次々に料理を運んでくる。どうやら話が終わるまで、一旦止めていたようだ。
梶原の様子があまりに静かなので、結衣は気が気ではない。梶原は何かを考えながら、黙々と箸を進めていた。
結衣は、折角の高級料理なのに、何を食べているのかほとんど分からなかった。せめて熱燗のお酌だけはと、タイミングを逃さない様に気を付けていた。
揚げ物が終わり、あとはご飯と味噌汁と香の物だと仲居に告げられる。
「結衣ちゃん、食べられる?」
「ごめんなさい。もう、一杯で……」
「そうだね。僕も、もういいかな」
ご飯を断り、その後のデザートをお願いした。白桃の甘みが、まだ緊張から解放されない結衣に染み渡る。
「結衣ちゃんの言うセフレっていうのは、一体何なんだろう」
「えっ……」
それまでほとんど会話らしい会話をしてこなかった梶原の第一声がこれで、さすがに驚いた。まさか、ずっとそんな事考えていたのか……。
「セフレって言い方で、曖昧にしてるだけじゃないのかな」
「……何を?」
「セフレって、セックスだけが目的の相手って意味でしょ」
「そう……ですね」
「つまり、好きだという感情がない相手を抱くってことだよね」
「……かな」
「フレンドって言うくらいだから、そんな相手が何人いてもいいのかもしれないけど」
「……うん」
「結衣ちゃんは、そいつに操を立てて、しかもちゃんと好きだった……んだよね」
「……うん」
「じゃ、やっぱり、それは彼氏だったってことで、いいんじゃないかな」
「……」
「結衣ちゃんがセフレだったんじゃなくて、彼が君を裏切った、が正しくて、更にそいつの悪い所は、何人も同時だったってことで、セフレという言葉でごまかせない罪なんだと思う」
「梶原さん……」
私を慰めてくれているのだと、やっと分かった。
「でもよく考えれば、好きだという感情がないまま抱いたり抱かれたりっていうのは、恋人同士でもあり得ることだよね」
「えっ?」
「あっ、勘違いしないで。僕は、結衣ちゃんをちゃんと好きだから、抱いたんだからね」
「……」
「そうじゃなくて、例えば、お互いの気持ちに差がある時があるでしょ。こっちはすごく好きだけど、相手はそれ程でもないとか……。常に相手への熱が、一緒の大きさだとは限らない」
「それは、……そうかもしれないけど」
「まだよかったよ、別れられたんだから。夫婦なら、そんな気持ちの2人でも、離れることができない。契約を終えるまでね」
「ん……?」
急に、話の方向が変わった様な……。
「夜だって、一緒に寝なきゃいけない。望まなくてもね……」
「よく分かりませんけど。私、結婚したことないから……」
「僕、分かるんだ。結婚してたから……」
「えっ」
梶原が、そのままゆっくりと座卓に突っ伏した。
「梶原さん……? 梶原さん! 梶原さ……」
結衣の呼ぶ声は、梶原の耳には届かなかった。
喉が渇いて、目が覚めた。
「ここ、どこ……」
結衣ちゃんの、部屋……。
「イッつ……」
頭が、痛い。心臓が頭にあるかの様に、脈打つたびに痛みが走る。たまらず、身を起こした。
自分を観察すれば、下着姿で、スーツはちゃんと壁に掛けてあった。結衣は、どこだ……。
ベッドの横に布団が敷いてあり、人が寝た跡がある。でもそこに、結衣はいない。
「あぁ、目が覚めました?」
トイレから戻ったらしい結衣が、姿を現した。まだ、結衣もパジャマ姿だ。
「ごめん……。僕、どうした? ……つぅ!」
頭を抱え込んだ梶原に、結衣は心配そうな顔を見せる。
「やっぱり、頭痛い?」
「……うん」
「ちょっと待ってて」
結衣は、二日酔いに効く漢方の頭痛薬と、スポーツドリンクをくれた。薬を飲む行為は苦しかったが、なんとか飲み下す。二日酔いには、無理にでも大量の水分を摂った方がいい。
時計を見ると、6時前だった。
「会社、行けますか?」
「これじゃ……行っても、仕事になりそうにない……な」
「お休みできますか?」
「うん」
「よかった。じゃもう一度、ゆっくり寝て下さい」
「……ごめん、迷惑掛けて。結衣ちゃん、今日仕事は?」
「お休みです。大丈夫」
横になると、余計に頭に響く。今は上体を起こしていた方が楽だ。結衣がまだ心配そうに、ベッドに腰かけた梶原の前で座った。
「店で、僕、何本飲んだ?」
「1合徳利を4本と半分くらい」
「そんなに……」
確か、結衣がお酌をしてくれたから、とんどん飲んだんだっけ……。
「店から、どうやってここに?」
「お店の人が手伝ってくれて、あとは、タクシーの運転手さんに助けてもらいました」
「あっ、支払いは?」
「覚えてませんか? 財布渡してくれて、これでって……」
「……そうか。……よかった。僕が払ったんだね」
「はい。ごちそう様でした」
ガンガンと響き続ける頭に、昨夜のコマ切れの記憶がよみがえってくる。そんな梶原に、結衣が記憶を補充する。
「梶原さん、吐かないから……。余計に二日酔い、酷いんですよ」
「吐くの嫌い……」
「ははっ。苦しいですもんね」
結衣が小さい声で話してくれるので、助かる。息を吐いて、梶原は自身を顧みた。
「僕、お酒で失敗したことないんだよな……。なのにどうして結衣の前だと、こんな失態ばっかりなんだろう……」
結衣はクスッと笑った。原因は……、分かっている。
「緊張……、してくれてたんですよね。ありがとうございます」
その言葉に梶原は、結衣の顔を見た。……そうだな。
「結構自分が小さい奴だって、分かったよ」
「違いますよ。情が深いんですよ、梶原さんは」
「……」
情が深いなんて、自他共に思っていない。いつも横田にも言われている。感情を見せない理性的なタイプだと。自分でも、父親似なのだと思っていたが……。
結衣は少し戸惑っている梶原に、それ以上の説明は止めておいた。きっと、認めたくないだろうなと思ったから。
情が深いから、真剣に相手のことを考える。だから、苦しい……。
「それにしても、私も緊張してたから、せっかくのご馳走だったのに、味、覚えてません」
「……そういえば、僕も覚えてないや」
「えぇ! 梶原さん、ぜーんぶ食べてましたよ」
「……そうだっけ?」
「ははっ、そうですよ」
飲んだ水分が落ち着いてきて、体温が下がったのだろう。ゆっくりと眠気に誘われていく。本当に結衣と仲直りできたのだと確認出来て、安堵したのも大きい。……よかった。
「ゆっくり寝て下さい。起きたら、聞きたいことがあるので……」
結衣が布団を掛けてくれながら、そんなことを言った。
ピロン!
「主任、彼女さんとの仲直り、ダメだったんですか?」
「とにかく1日休んで、明日は復活してください」
横田から、LINEが入った。昨日結衣と会っことを、彼は知っている。
「横田君が心配してきた」
「横田君?」
「前話した、会社の部下。結衣ちゃんとケンカしたこと、知ってる奴。ちゃんと仲直りしたって送るよ」
「ふふっ、そうして下さい」
梶原は10時頃にベッドから起き出した。まだ頭痛はするが、横になっているのも疲れてきた。
結衣は洗濯物を干している。テーブルには、タロットカードが置かれていた。
「シャワー浴びたら、これ、着てみてください」
下着姿の梶原に、結衣が着替えを手渡した。Tシャツとスウェットに、下着まである。
「どうしたの、これ」
「昔買ったものなんです、防犯用に……。サイズ合うといいけど、ちょっと小さいかなぁ」
「防犯用って?」
「女性の1人暮らしの、防犯用です。有名な方法ですけど、今では全くしてなくて。タンスの肥やしになってること、忘れてました」
男物の洗濯物を干して、女性の独り暮らしを偽装するらしい。「有名」といわれたその方法を、梶原は全く知らなかった。やっぱり女性は、色々と大変なんだな……。
「ちょうどいい感じですね」
シャワーから出たら、そんなことを言われる。Lサイズの標準体型だから、ユニクロで十分だ。
「うん、ありがとう。さっぱりした」
「まだ、頭痛い? 食事、できます?」
「少しね。食事はまだいいや」
「じゃ、後でお昼一緒に食べましょう」
「うん」
テーブルに置かれたカードを確認して、梶原が結衣の目を見る。カードにではなく、やっと直接聞いてくれるようになった……。
「僕に聞きたいことって、何?」
「あっ……、はい」
結衣が、背筋を正した。
「梶原さん、結婚してたんですか?」




