セフレ
「ヒーメちゃん。なに難しい顔してるの? そんな顔してると、モテないよ」
結衣の最初の就職先で営業をしていた、佐野渉、31歳独身だった。
「真剣にお仕事してるんです。いつもヘラヘラしてる佐野さんとは違って、私は真面目なんですよ」
「可愛い顔して、相変わらず言う事がキツイね~」
佐野は、整った顔に整ったスタイルで、イケメンの代表のごとく女性にモテていた。社内でも常に女性に声を掛け、掃除のおばちゃんにまで受けが良かった。
「今日の送迎会、姫ちゃんも出るんでしょ」
「はい。光崎さんにはお世話になりましたし、苦労もお掛けしましたから」
「光崎もさぁ、辞めなくてもいいのにねぇ。今時、結婚で辞めるって、珍しいよね」
光崎は、営業事務の先輩だ。佐野と同期である。
「旦那様が高給取りなんじゃないんですか。主婦なんて、憧れです」
「あれ、姫ちゃんも、主婦希望?」
「そりゃ~。可愛い子供と素敵な旦那様に囲まれて、優雅にケーキを焼いたりして……。今じゃ、希少種なんじゃないんですかねぇ、主婦なんて」
「まぁ、そうでもないと思うけど」
「あら、じゃ、佐野さんの奥さんになれば、専業主婦になれるんですか? ウチって、そんなにお給料よかったでしたっけ?」
「いやいや~、収入は給料だけとは限らない」
「へぇ、他に何があります? 副業とか?」
「ふ、ふ、ふ。それは、ナイショ。姫ちゃん、なってみる? 僕の奥さん」
「イヤですよ~。常子さんに嫌われますから」
「う~ん、モテる男は辛いなぁ」
常子さんというのは、掃除のおばちゃんである。常々、佐野にちょっかいを出され、それを楽しんでいる人柄の良い女性だ。50代だが、それでも時として、女の顔が見える時があるから、佐野の女性を扱う手腕は、天性のものだろう。
実際、さっきの「なってみる? 僕の奥さん」という発言に、結衣も内心ドキリとした。
確かに、佐野に声を掛けられることは嫌ではない。むしろ、掛けてくれない日には、嫌われたのかと落ち込む自分がいる。佐野が他の女性と話していると、つい目がいってしまう。
「好きなわけじゃ、ないもんね」
自分に確認する様に、言い聞かせていた。
「カンパーイ!」
光崎の送迎会が始まった。13名程が集まっている。
「光崎さーん、さ、どんどん飲んでください」
ビールを片手に主賓の元に出向くと、その光崎が自分のコップを手で塞いだ。
「姫野さん、ごめん。私、今、禁酒中」
「えー! 何でですか~。可愛い後輩の酒が、飲めないと?」
「姫野さん、酔ってる? 大丈夫? あんまりお酒、強くなかったよね」
「酔ってませんよ、大丈夫です。それより、ビール」
無理にコップに注ごうとしている結衣を止めたのは、佐野だった。
「姫ちゃん、ダメだよ。光崎は、妊婦さんなんだから」
「えっ、ウソ! ホントに? ホントに、そうなんですか?」
結衣は慌ててビールを下げる。ということは、授かり婚ということか! 知らなかった。
「……佐野君。まだ、みんなには言ってないのに……」
何故だか光崎が、佐野のことをキッと睨んだ。佐野は、そんな目線をサラッと受け流す。
「あれ、そうなの? やだな、早く言っとけよ。めでたい事なんだからさ」
と笑い飛ばした。結衣も嬉しくて、お祝いの言葉を伝える。
「そうですよ、先輩! おめでとうございます! よかったですね! 幸せの2乗じゃないですか」
「うん、ありがとう」
結局、出席者一同が知るところとなり、もう一度皆で乾杯をした。
「光崎さんの幸せを祝して、カンパーイ!」
「姫ちゃん、これから飲み直さない」
主役の光崎が妊婦では無理をさせられないと、2次会はなしになった。皆でぞろぞろと駅に向かう。何人かはカラオケに行くと別れていった。
そんな中、結衣は佐野に声を掛けられた。
「……、2人でですか? 誰か他に、行きますか?」
「姫ちゃんとサシ飲み、したいなぁってね……」
そう見つめられた時、結衣の心臓が反応してしまった。佐野が、もう一押しの結衣の背中を、押す。
「今日の姫ちゃん、すごく可愛い」
「佐野さん……」
今日、結衣はノースリーブのシャツブラウスに、ワイドパンツを合わせ、細い番手のサマーカディガンを羽織っている。足元は、ハイヒールでアンクルストラップのサンダル。
実は、最近の1番のお気に入りコーデを着てきた。それはやっぱり、男性の目を気にしてのもので、まさかそれに佐野が喰い付くとは思わなかった。
「たまには、いいですね。2人飲み」
本当にそれだけの感情とも言い切れなかったが、結衣としては、この後どうこうなろうとは考えていなかったのだが……。
「あっ……」
「姫ちゃん、ここ、好きなんだ……」
そう確認しながら、佐野は結衣の首筋に唇を這わせた。指はもう、やさしい愛撫を始めている……。
首筋は、その後、結衣の一番の弱点であり、スイッチとなった。
皆と別れて、佐野が連れて行ってくれたバーは、静かなジャスが流れていた。大学時代の彼氏達は、皆せいぜい居酒屋で騒ぐくらいで、こんなオシャレな空間に連れて来てもらったことがない。出されたカクテルは綺麗なピンク色で、バーテンの男性すら背が高くてカッコいい。
「姫ちゃん、最近綺麗になった?」
「そうですか? 別に変わったことは……」
横に座った佐野が、結衣の髪をそっと手に取った。
「髪が伸びてきたせいかな」
そのまま耳を覆う様に、指を髪の中に差し込みながら、首の後ろに触れた。体の芯がゾクッとして、一瞬でイ体温が上がった。
そのまま動けない結衣を見ながら、佐野が微笑む。
「ほんと、可愛い」
それからは、何を話したのかほとんど覚えていない。何度も髪に触れられ、カクテルをもう1杯飲んで、店を出る時には手を繋がれていた。
「佐野さんの部屋、クーラー掛けっ放しなの?」
佐野の部屋に入ると、冷えた空気が体を撫でた。
「うん。僕、暑いのは苦手でね」
「営業マンのくせに……」
笑いながら佐野が、結衣のカーディガンを脱がせる。
「私、ちょっと寒い……」
「すぐ、熱くなるよ」
そう言いながら唇を合わせてきた。初めてのキスだったのに、もう、結衣の心も体も佐野を求めていて、すぐに応えていた。そのまま寝室に、手を引かれていく。
「姫ちゃん、ここも綺麗……」
首筋から移動して、胸を口に含みながら、佐野は結衣を褒める。全身を褒められ、もう結衣は我慢できない。
「佐野さん……」
「意外と欲しがりなんだな……、姫ちゃんは」
そう言いながら、やっと1つになってくれた。大人の余裕なのか、ガツガツせずに結衣の快感を優先し続ける。
「あ……、んっ……!」
結衣は、この佐野に、初めて本当の快感を教えてもらった。
佐野との恋愛は、結衣の毎日をキラキラしたものに変えていった。会社に行くだけなのに、ファッションも手を抜かないし、もちろん肌のお手入れやメイクも手を抜けなかった。
「佐野さん、金曜日、食事に行きませんか?」
「その後、ウチに来る?」
LINEとはいえ、少し恥ずかしい。でも、いつも佐野は聞いてくる。毎回求められることが愛されている証だと信じて、喜んで返事をしていた。
「うん」
「じゃ、行こう」
大抵、夕食は定食屋かチェーンの居酒屋で、あれ以来、あのオシャレなバーには連れて行ってもらえない。佐野が嫌がるので、休みの日に外でデートすることも、ほとんどなかった。
けれど、情事の時の佐野の熱量は確かに高く、愛されていると信じていたから、文句はなかった。
ただ1つ不満だったのは、2人が付き合っていることを、誰にも言えなかったことだ。特に会社の人間には言うなと、強く口止めされていた。
「仕事、しにくくなるからさ」
それが佐野の言い分だった。確かに、佐野は相変わらず、どの女性にも優しく声を掛けていたし、結衣だけを特別扱いは、決してしなかった。逆にそれが、結衣に優越感を与えていたのかもしれない。みんなの知らない佐野の顔を、私は知っている……と。
ところが、そんな毎日が徐々に変化していった。付き合い始めてから、3ヶ月程経っていた。
「姫ちゃん、今日部屋に来て」
「ごめんなさい。今日から女の子になっちゃって」
「そっか。じゃ、またね」
佐野は、行為がなければ、食事にも連れて行ってくれなくなっていた。
「忙しいもんね……」
結衣は自分に言い訳をする。佐野の仕事は営業だから、夜の付き合いも多いはずだ。食事だって、いつも結衣とばかりはしていられないだろう。
「内緒だってば……」
「でも……うらやま……。あぁ~、……憧れだ……になぁ。で、どんな感じ?」
更衣室で、別の部署の女性がコソコソと話をしている。きっと、恋バナだ。聞く気はないのに、何となく耳に入ってきてしまう。早く着替えて、さっさと帰ろうと結衣は急いだ。
「……がさ、上手い……。やっぱり、……慣れしてる……ねぇ。……マズ……タイプ」
「そうなんだぁ。でもそれなら、最高じゃない? セフレとしてなら」
結衣はビックリした。「セフレ」なんて、ホントにいる人いるんだ……。
「シッ、声が大きいよ」
「だって、付き合うつもりないんでしょ、彼とは」
「まあね」
「相手もそうなら、割り切ってていいよね」
「そういうこと」
「じゃ、今夜も?」
「うん、さっき急に呼び出されて」
「マメよねぇ、彼」
「きっと、他にもいるよ、私みたいなの」
「そうなの?」
「多分ね……」
笑いながら更衣室を出ていく2人を見送りながら、結衣は感心していた。
「セフレなんて、私には無理だな……」
佐野を思い出し、自分はそうならなくって良かったと改めて思った。
「えっ、今、なんて……?」
「だから、今度はあの人だねって言ったの」
翌日、営業が全て出払った午後、1年先輩の青井と3時の休憩をしていた時だ。青井は社内の情報通で、よく人の噂を仕入れてくる。どこから調達してくるのか、結衣は不思議でならなかったのだが、今日も新しい話を聞かせてくれていた。
「佐野……さんが、ですか?」
「そう。今度は、下の階の袋井さん。知らない?」
「今度は、って……」
「あれぇ、姫野さん知らないの? 佐野さんのゲスっぷり~」
「……知らない」
「あっ、ごめん。憧れてた派? 夢、壊しちゃった?」
「……そうでも、ないですよ。何ですか? ゲスっぷりって……」
「佐野さんってさぁ、あの顔で、アレでしょ~、女性に優しい」
「……はい」
「でね、実際手も早いのよ。これまでも、何人も犠牲者が……。ヨヨッ」
青井は大げさに、ハンカチを目に当て泣いて見せる。
「犠牲者って……。モテるなら、お付き合いする人が多くなるのは、当たり前なんじゃ……」
「お付き合いならいいけどさぁ、大抵、1度ヤったら終わり、っていう奴で……。ひどい時には、社内で3人とか~」
当社の社員数は、200人程度だ。その内、女性は40人もいない。それで、同時に3人って……。
「それで、今度は袋井さんってこと……?」
「そう。昨日も、一緒に歩いてるところを見たって。営業の柳井君がさ、羨ましそうに言ってたわ~」
――うん、さっき急に呼び出されて
そう。昨日更衣室で話していたのは、袋井だった。私が断ったから……。
――きっと、他にもいるよ、私みたいなの
私、セフレなの……?
結衣はその夜、佐野にLINEをした。手が、震えていた。
「佐野さん、昨日はどうしました?」
「姫ちゃん来ないから、さっさと寝たよ」
「ごめんね」
「いいよ。お腹、痛くない?」
「大丈夫」
「じゃ、また来週ね」
きっと、昨日までの結衣なら、体を気遣ってくれただけで、十分満足して終わらせていた。けれど、今日はそれはできない。
「あの、昨日、佐野さんが袋井さんと歩いてたって、見た人がいるんだけど」
「人違いなんじゃない?」
「ほんとに?」
「何? 疑ってる?」
「……ううん」
「姫ちゃんが疑うなら、別れてもいいけど」
――1度ヤったら終わり、っていう奴で……
「疑ってはいないよ。ちょっと、確認したかっただけ」
「そう。じゃ、またね」
「うん、またね」
袋井の言った言葉が、繋がる。所々しか聞き取れなかった言葉が、今なら分かる。
――真面目に好きになったら、マズイタイプ
それでも結衣は、自分が「彼女」で、袋井はあくまで「セフレ」だと言い聞かせた。私は1回で捨てられてはいない。
私がもっといい女になれば、きっと佐野さんは私だけのものになってくれる。
それからの2人の関係は、見る間に佐野が主導権を握る様になった。
「今から、そっちに行く」
突然、金曜の深夜に尋ねてきて、ほろ酔い気分で抱いていく。
「今日はゆっくり寝たいから」
事が済んだ後、終電間近なのに佐野の部屋から追い出されたこともある。
「ミカ……じゃなかった。結衣~、ビール取って」
「誰? ミカって……」
「……実家の犬」
それでも結衣は別れようとはしなかった。付き合ってから半年程経った頃、光崎先輩から連絡があった。
「やっと安定期に入ったから、結婚式挙げられそうなの。出席してくれる?」
「もちろん! お元気でしたか?」
「ええ。姫野さんも、元気だった? 仕事は順調?」
「はい。他に、誰か呼ばれますか、会社の人」
「うん。課長と、同期の女の子を」
「そうなんだ。楽しみにしてますね」
「ありがとう。……あのね、これ他の人には内緒にしてね」
「……はい?」
何だろう……。おめでたい事なのに……。
「ほら、呼ばない人に悪いから」
「あぁ、そっか。もちろん、言いません」
「特に、佐野さんには言わないでね」
「えっ……。佐野さん……、ですか?」
「ほら、彼、社内の多くの女性と親しいから、すぐ噂になっちゃうの」
「あぁ……」
「私の妊娠のことも、内緒だったのに……」
――光崎は、妊婦さんなんだから
「そうでしたね。分かりました。内緒にしときます。それより、お体はどうですか?」
「もうすっかりツワリもなくなって、食べまくってるわよ」
「良かったです。生まれたら、会いに行きますね」
「ぜひ来て。じゃ、招待状送っておくね」
「ありがとうございます」
電話を切ってから、送別会の時のことが蘇ってきた。そういえばあの時、少し佐野の言葉に引っ掛かったのだ。
――やだな、早く言っとけよ。めでたい事なんだからさ
やけに馴れ馴れしい言い方で、違和感があった。同期とはいえ、女性には紳士的な佐野が、随分突き放したように言ったことが不思議だった。
もしかして……。
次の日、会社で結衣は青井を探し出した。
「青井さん、変なこと聞きますけど、光崎さんも佐野さんと付き合ってました?」
「あぁ、そんな噂もあったわねぇ……。ただ、光崎さんみたいな賢い女性が、あんな男に落ちるかねぇ、とも言われてたっけ。ま、その噂は、すぐに消えたかな」
やっぱり……。えっ、まさか、子供は……!?
佐野は、避妊をしてくれない時がある。外で処理するから大丈夫だと言って、無理を通す。実際、1度生理が遅れて、結衣は青ざめた。その時は、ただ遅れただけだったので安堵したが、それからは怖くて、佐野に内緒でピルを飲むようになった。
それをいつの間にか気付かれて、佐野は喜んで、ほとんど避妊をしてくれなくなった。
そんな佐野と関係があったのだとしたら、相手が妊娠することは、いつでもあり得る。
光崎もそうだったのなら、皆が知らなかった妊娠のことを、佐野が知っていたのもつじつまが合うし、今の佐野に近況を知らせたくない気持ちも分かる。
いや、本当にそうだろうか。青井が言う様に、あの賢い光崎さんが、2人同時に付き合っていたとも考えにくいし、もし佐野の子なら、佐野と結婚すればすむ話だ。まだ佐野は、独身なのだから。
だが、もしどちらの子か分からない……のだとしたら、どうする? 佐野よりも、旦那さんを選んだのだろうか……。不実な佐野よりも、誠実な旦那様……。
そんな事は、佐野にも、もちろん光崎にも、確認はできなかった。
ただ結衣は、どんどん周りの人間を疑う様になり、辛い毎日となっていったのは間違いない。
そして、その年の冬、袋井が結婚した。授かり婚で、相手は佐野だった。
結衣は、会社を辞めた。
私が「彼女」だと頑張ってきたが、結局「セフレ」だったのは、私の方だった。
「今、家に着きました。しばらく、時間を下さい」
梶原にLINEをした。
「良かった、無事で。連絡、待ってる」
梶原が悪いわけではない。気持ちが整理できないのは、結衣の方だったのだから。
佐野と別れて、3年が経った頃、あのマンションに気が付いた。
本当に何気なく見ていた車窓の景色だった。
ベランダで小さな男の子が、電車に向かって手を振っていた。その様子が微笑ましくて、つい見で追っていたら、その子を抱いていたパパの姿も確認できた。それが、佐野だったのだ。
どこまで神様は、意地悪なのだろうかと思った。
いつまでも、佐野を引きずっていた自分が引き寄せた偶然なのか、運命なのか……。
あれからもう何年も経っているのに、あそこを通る時は未だに確認してしまう。それを、まさか梶原に見咎められるとは、思っても見なかった。
もちろん、もう佐野に思いなど残っていない。
ただ、忘れられない自分が、嫌だったのだ。




