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マンション

 結局、予定通り1ヶ月で梶原の出張は終了した。部下の横田も、きちんと新人の坂井を面倒見ていて、人間関係にほつれも生じていない。

「梶原主任、今度の稼働テストの立ち会い、坂井も参加させていいですか?」

「他の日程は順調なのか?」

「はい。今の所、予定通りです。で、半日だけ時間作れそうなんで」

「じゃ、一緒に行くか? 坂井君」

「はい。是非、見てみたいです」

 本社に戻ってから、特に新たなペナルティもなく、元の仕事場に落ち着くことができた。


 戻った後の態度は、毅然としていなければならない。態度のどこかに、「飛ばされていた」という悲壮感が漂ってもいけないし、ペナルティに対する不満を、さらけ出すような失態もあってはならない。

 そして、1番避けなければならないのは、全て自分が悪かったのだと反省しているかの様な態度だ。あくまでも、僕は会社で利用できる権利を、行使したに過ぎない。それを体現していくしかない。


 この対応を間違えると、この先の梶原の会社での立場が決まってしまう。過去、何回も他人の失敗を見てきた。せめて自分は、被害を最小に抑える術を、身に付けていると思いたい。

 そんな思惑を悟られないよう、最大の注意を払いつつ、名古屋に行く前の感覚を取り戻していった。


「今夜は、駅で待ち合わせようか」

「どこいくの?」

 結衣とのデートが、そんな梶原の緊張した時間を和らげてくれていた。

「この前、雑誌で見たお店、どうかな?」

 お店の情報を共有するために、LINEでURLを送った。

「ふぉぉ。行く行く」

 ハートマークが付いている。

「じゃ、7時に」

「了解」


 結衣は、相変わらず土日が仕事で、ゆっくり1日デートというのができない。土日だけの仕事は出勤日が少ないため、有給の日数も少ないらしい。「華厳の滝」に行ったのが、今年の最後の有給だったとのことだ。

 であるならば、結衣のお盆休みと重なる梶原の夏休みに、どこかに行こうと算段している。できれば、1泊ぐらいしたい。


「えっ、結衣、グアムに行くの!?」

「うん! 水中スクーター、乗りに行くの!」

 それはもう、嬉しそうに言われ、梶原の落胆は激しい。

「僕も旅行、行きたいと思ってたんだけど……」

「えっ……、そうなの……?」

「そう……」

「ぅわぁ、ごめん~」


 それから、初めて博美という友達のことを聞き、僕に相談もなく……という、身勝手な考えを反省した。付き合いは、博美さんの方が長い訳だ。

「帰ってきてからでもいいから、1日くらいは会えない?」

「梶原さん、休みはいつまで?」

「日曜まで」

「じゃ、金曜日に会えるよ~。ほんと、ごめんね~」

 結衣が、随分軽やかに謝ってくるため、それ以上文句を言えなくなってしまった。反省はすれども、やはりモヤモヤと不満が残っている。


 何となく2人の間に、変な沈黙が落ちる。電車の中だから、無言でいてもどうにかなっているが、どう会話を復活させたらよいのか……。こういう時、男は変なプライドがあって動きづらい……。などと、梶原の頭の中で更にモヤモヤが広がっていく。


「温泉がいいな」

 突然、結衣が言った。

「温泉?」

「梶原さんとの旅行……」

「あ……、えっ?」

 結衣の言葉に驚けば、驚いた梶原に、結衣がまた驚いた。

「えっ、泊まらないんですか?」

「いや、泊る!」

 焦る梶原に、余裕の笑みを見せながら、結衣は考える。

「いつにしますか? 次の連休は、いつだっ……」

「シルバーウィーク」

 すかさず梶原は提案した。

「あぁ、そうなんだ。いいですね! でも……、あんまり高い所はダメですよ。土日バイトしてる身ですので、そんなに余裕はありませんからね。グアムは、1年前から積み立ててるんですから」

「大丈夫。宿泊代は任せて」

 躊躇(ちゅうちょ)なく返ってきた言葉に、結衣は驚く。随分、男前だ。

「……そんなの、申し訳ないです」

「いいよ。言ったでしょ。僕、釣った魚に餌をあげるタイプ」

「……でしたね」

 結衣の相づちに、真剣な顔でうなずく梶原を見て、結衣はクスッと笑う。

「じゃ……」

 結衣が不意に、スマホを取り出してタップし始めた。すぐに、梶原のスマホにLINEが届く。


「素敵な下着を、用意しなくちゃ」

 そのメッセージに、梶原は動揺する。慌てて、結衣の目を見た。

 もう、我慢できないという感じで、結衣が笑っている。……からかわれた?

「もう、梶原さん……、面白い」

 すっかり手の平で転がされたことに気づいた梶原は、指を伸ばして結衣のおでこを小さく押した。

「おじさんを、からかわない!」

 更に笑った結衣と一緒に、梶原もいつもの小さな笑顔で笑った。

 本当に結衣は、空気を変えるのが上手いと思う。


 2人がいるのは、電車の出口の扉の前だ。帰宅時間でもあるので、混んではいるが身動きができないという程ではない。自然と近くにいられるので、結衣の表情がよく見えた。

 降りる2つ前の駅で、結衣の視線が車窓の景色にクギ付けになっているのに気が付く。その顔が真剣で、なんだろうと気になって梶原も外を見た。


 別段、変わった景色はなかった。敢えて言うなら、マンションが線路の近くに立っていて、生活してる人が見えるくらいだろうか……。ベランダにでもいたら、十分顔が認識できる距離感である。東京ではよくある景色だ。

「視線が、気にならないかな……」

 結衣に話し掛ける。特に、深い意味はなかった。

「えっ!」

 思った以上に結衣が驚いて、梶原の顔を見た。その顔に、少し恐れ? が混じっている……?

「いや、こんなに線路に近いと、乗客からの視線とか、騒音とか、気にならないのかなって……」

「あっ、うん、そうだね……」

 結衣の目が泳ぐ。何を慌てているのかと思うほど、いつもの結衣とは違った表情になった。思わず、確認をしたくなる。

「あれ? 今、マンションを見てたんじゃないの?」

「……ううん。……ちょっと他の事考えてて」

「どした? 何か心配事?」

 少し言いにくそうに、結衣は梶原の方に体を向けた。

「どんな料理があるお店なのかなぁって……」

「ははっ、お腹空いた?」

「うん」

「僕も初めてのお店だから、ハズレだったらゴメンね。まぁ、食べログの点も当てにならないことも多いから」

「そうだね。でも、きっと美味しいよ。紙の媒体になるくらいだもん」

 いつもの笑顔に戻った結衣だったが、梶原は少し引っ掛かりを感じた。

 今、結衣は、……明らかにごまかした。


 梶原の人を観察する目は、本人が思っている以上に鋭い……らしい。それは生まれ持った性質なのか、あの母に育てられた故の習慣なのか、よく分からない。ただ他人から、「よく人の事見てるね」と言われることで自覚しただけだ。


「やっばり、美味しかったですねぇ」

「うん、当たりだったね」

 結衣の満足そうな顔を見て、梶原も満足する。創作料理だったのだが、元はフランス料理のシェフだった店主によるものらしく、ワインとソースと素材のマリアージュも、普段口にする旨味とは、また違った美味しさがあった。

 お陰で、グラスワインの4杯目に手を出しそうになったが、これから結衣の部屋に行こうと目論んでいる梶原は、自分を(いさ)めた程だ。


 帰りも電車で移動する。来た道をそのまま戻ることになった。まだまだ席に座れるほど電車は空いておらず、やっぱりドアの前を陣取ることとなった。

 梶原は、目の前の結衣にLINEを送る。

「今日、泊ってもいい?」

 結衣は嬉しそうな顔になって、でもすぐに心配な顔になりながら、スマホをタップする。

「いいですけど、着替え、どうします?」

「会社に置いてあるの、持ってきた」

 持っている黒いビジネスバッグを、小さく持ち上げる。それを確認して、結衣はまた嬉しそうに笑った。LINEはそこで終わりとし、あとは会話になる。

「会社に着替えなんて、置いてるんですね」

「何度か終電に間に合わなくてね、懲りた。会社で徹夜は始末書もんだから、近くのビジネスに泊るんだけど、着替えはロッカーに置いてある」

「大変なんだなぁ」

 結衣に半ば呆れられた。社畜のつもりはないが、男はどうしても逃げられない時がある。いや、ここで男を持ち出すのは、時代に合わないか……。


「……結衣?」

 気が付くと、また結衣が車窓の景色に目を奪われていた。あの、行きでごまかした場所と同じ……。結衣もワインを飲んでいる……。

 通過した後も、ずっと目はマンションに向けられたままだった。今度は、ごまかし様が無い程に、確実に意識を向けているのが分かった。


「誰か、知ってる人が住んでるの?」

 確信があって言った訳ではない。でも、建物に意識が集中するのは、それぐらいしか思い付かなかった。

「えっ」

「あのマンションに、知ってる人が住んでるのかって聞いた」

 ワインを飲んだことを、後悔する。制御する気持ちが、簡単に緩んでしまう。自分でも驚くほど、冷たい声になっている。

「あっ、ううん、知らない……」

 今度はあからさまに、顔が歪んだ。結衣はごまかすことよりも、思い出す事を拒否した。そんな顔だった。

「誰?」

 後で思えば、どうしてそんなことを聞いたのだろうと思う。だが、何かが……、僕の男としての直感が、そうさせたと言えばいいだろうか……。

「……知らない」

 そう言った結衣の顔は、完全に梶原を蚊帳の外に出してしまったかの様で、それが逆に、梶原を傷つけた。


「結衣ちゃん、男?」

「違う!」

 小さい声だったが、強い拒否反応だった。これでは、そうだと答えた様なものだ。梶原の気持ちが、止まらなくなった。

「じゃ、誰?」

「あのマンションに住んでる人なんて、知らない」

「じゃ、何で見てたの?」

「見てない」

 ここまで言い争えば、さすがに周りが気になってくる。次の駅で、梶原は結衣の手首を掴んで、無理矢理電車を下りた。


「何!? 梶原さん」

「電車の中じゃ、話できないから」

「何の話?」

「だから、さっきのマンションのこと」

「……だから、ただ見てただけで」

「違うよね。行きも、あのマンション見てたよね」

「……っ」

 また、結衣が恐怖を張り付けた顔をする。それじゃあ、まるで、僕が君を追い詰めているみたいじゃないか。

「誰なの? 住んでるの」

 結衣が下を向いたまま、黙り込んでしまった。拳を握り締めている。

「言いたくないの?」

 この言葉には、結衣もさすがに反応した。顔を上げ、真っすぐ梶原の顔を見る。だが、答えは返してくれない。(かたく)なに、返事をしようとしないでいる。一体、結衣をそんなに(かたく)なにしているのは、誰なんだ!


「それとも、言えないの?」

「ひどい……」

 見る間に、結衣の瞳に涙が溜まってくる。溢れるまでに、時間は掛からなかった。

「私、梶原さんに何にも悪い事なんて、してない!」

 梶原が掴んでいた手首を無理やり引き剥がして、結衣はそのまま走り出す。改札に向かって行く背中を、梶原はただ呆然と見送るだけだった。


「結衣ちゃん、ごめん! どうかしてた」

 結衣のスマホが何度か鳴ったが、出なかった。諦めたらしい梶原から、メッセージが怒涛(どとう)の様に入ってくる。

「今、どこ?」

「僕も改札出た」

「どっちに向かった? 右? 左?」

「危ないから、送るから」

「頼むから、返事をして」

「僕の顔見たくないなら、それでいいから」

「電車に、乗って」

「お願いだから、返事して」

 結衣は、梶原に返事をする代わりに、既読だけは付けた。


「結衣ちゃん、ほんとに、ごめん」

 30分程して、梶原からのLINEは止まった。最後に送られてきたのは詫びの言葉で、結衣はタクシーの中で、小さく溜息をついた。


 ――結衣ちゃん、男?


 梶原の言ったことは、当たっていた。あのマンションには、結衣の元彼が……、いや、元セフレが住んでいる。

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