演奏会
「演奏会に行かない?」
「どんな?」
「クラシック」
「いいですね。いつですか?」
「来週の木曜日だけど、休みだったよね」
「そんなチケット、急に取れるんですか?」
「ウチの会社が協賛してる演奏会でね」
「うわっ、さすがですねぇ」
「来週、何とか仕事が落ち着きそうだから」
「行きます!」
「よかった。じゃ、7時開演だから。また、連絡するよ」
「待ってます。楽しみー!」
結衣とのLINEを終えた梶原は、すぐに総務に出向く。チケットが余っていなければ、諦めるしかないと焦っていたが、やはり今回も捌き切れなかったようだ。無事手に入り、ホッとした。
我が社は年に数回、クラシックコンサートに協賛をしているが、主催者から提供されるチケットが、大抵余る。それは、皆に人気がないという訳ではなく、忙し過ぎて行く暇がないのだ。特に今回の様に、平日の夜となると難しい。
実は梶原も無理だと思っていたのだが、1つ仕事が先送りになり、偶然1週間の余裕ができた。ラッキーだった。
受取サインをしている梶原に、声が掛かった。
「梶原さん。ついでに、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょう」
人事課の先輩女史だった。50代の、生え抜き社員である。
「この間、在宅勤務をされましたよね」
「はい」
「お母様の介護のためだと伺ったのですが」
「……僕が小さい頃に、離婚した母です」
「もし必要でしたら、扶養家族にできますよ」
「えっ……」
「その方の生活を支えていらっしゃるようでしたら」
「……いえ、まだそれは、大丈夫です」
「そうですか。では、もしそのようなことがあれば、教えて下さいね。控除できますからね」
「はい。ありがとうございます」
梶原は、驚いた。まさか「扶養」などと、思いもよらない。そして、自分の言葉に、更にエネルギーを取られた。
――まだそれは、大丈夫です
「まだ」ということは、「いずれ」そうしなければならない、という事なのか……!? いや、待て。僕が、佐々木さんを面倒見なくてはいけない訳ではないだろう?
確かにこの間、カードの支払いは僕がした。でもそれは、ある意味「手切れ金」の様な気持ちもあった。これ以上父からお金が流れるのが、どこか許せない気がしたからだ。
でも、父が死んだらどうなる……。佐々木さんの生活費の援助は止まる。生きていけるのか? そうなったら、支援は僕が続けなければならないのか? 何だよ、それ!
――土地を与えてある
そうだ、駐車場があると言っていた……。それに、佐々木さんは今年64歳だ。この間、確認したじゃないか。来年から年金も入るはずだ。大丈夫だ……。
ハッと気が付いて、梶原はデスクに戻る足を止めた。
僕は、何を不安に思ってるんだ! こんなこと、父と佐々木の関係を知る前は、考えもしなかった。
「何なんだよ、これ!」
思わず、小さく吐き捨てていた。訳の分からない怒りが、梶原を支配する。そのまま喫煙室に飛び込んだ。
何回か煙を吸い込むことで、少し気持ちが収まってくる。冷静になれ……。一旦収まるかに思えたものが、また胸にせり上がってくる。急いで煙を吸い込んだ。
その時、ピロン! とスマホが鳴った。結衣からのLINEである。
「仕事中、ごめんなさい」
「会場が分かるようなら、教えてください」
「返事、いつでもかまいません」
梶原は、手に持っていたチケットの写真を撮り、返信した。
「即レス、ビックリした! ありがとうございます!」
小さなヒヨコが、画面の中でぴょんぴょんと跳ねた。ふっ、可愛いな……。
「ここなら、近くに美味しいお店があるんですが、お食事行きませんか?」
「うん、行こう」
「わぁ、サンキューです。お仕事、頑張ってくださいね」
「君も」
あぁ、なんだろうな……。たった今、1つ、空気が抜けた。
窓のない喫煙室の壁に向かって、ゆっくりと煙を吐いた。
演奏会場の外で待ち合わせをしたのだが、ギリギリの到着になると梶原から連絡が来た。
「大丈夫かな……。また、無理しないといいけど」
独り言ちながら、結衣は返信をする。
「焦らないでね。遅れていいからね」
送ったが、既読にならない。きっと今、必死にこちらに向かっているのだろう。気を付けて!
梶原は、走っていた。
まさか今日、母から電話が掛かって来るとは思わなかった。しかも泣いてだ。
「今日、早く帰ってきて。お母さん、大変なの」
「どうしたの!? 何かあった?」
「いいから、早く帰ってきて」
「……今日は、遅くなるんだ。すぐには、帰れないよ」
「お母さん、こんなに大変なのに……」
泣き出した母に、気が動転する。
「ちょっと待って。仕事終わったら、すぐ掛け直すから」
終業10分前の出来事で、最初のコールはスルーした。よくあるのだ。どうでも良いことで、電話をしてくる。少しは、こちらのことも考えて欲しい。
ところが、またすぐに掛かって来た。2度も掛けてくるのは珍しい。さすがに気になって、廊下で電話に出た。その結果が、泣きながら……、である。
とにかく今日の作業記録をパソコンに入力しながら、終業を待った。スマホの時報を合図に席を立つ。そのまま階段を駆け下りながら、母に電話をした。
「何、どうしたの?」
「お母さん、倒れたの! もう、ダメだわ」
「どこで」
「勝手口よ。ゴミを外に出そうと思って」
「ケガしたの?」
「仰向けに倒れたのよ。ドーンって。頭、打ったかもしれない」
「……」
「早く、帰ってきて」
「分かったから……。電話、切るよ」
どうするか……。倒れたのは、本当だろう。しかし、声は元気なのだ。きっと大丈夫に違いない。けれど、もし……。
駅の改札まで来て、躊躇した。帰宅するのと、演奏会場に行くのでは、反対の電車に乗らなければならない。今決めなければ、間に合わない。
梶原は、スマホを手に取り、電話を掛けた。
「もしもし、父さん? まだ仕事中?」
開演10分前に、梶原は到着した。少し息が切れている。
「良かった、間に合って」
結衣の言葉に頷きながら、その腰に手を当て、入場を促す。
「入ろう」
急いで会場に入った。チケットは指定席である。席を案内係のお嬢さんに確認して、小走りで扉の中に入った。まだ客席はざわついていて、間に合った安堵に、結衣は小さく息を吐いた。
「スマホの電源を、お切りください」
会場アナウンスが入る。結衣も電源を切った。マナーモードではなく、切らなければならない。会場の設備に、ハウリングを起こす可能性があるからだ。クラシックコンサートの基本のエチケットといっていい。
ところが、梶原がスマホを見つめたまま、切るのをためらっていた。よく見れば、顔からいつもの優しい笑みが消えている。どうしたのだろう……。
「梶原さん、どうかしましたか?」
「えっ、あっ、いや……」
何かを振り切る様に電源を切った。そのまま正面を見た梶原の目が、1点を見つめている。グッと奥歯を噛みしめているのが分かる。おかしい……。体が、緊張で張りつめている。
結衣は咄嗟に梶原の腕を掴んで、引っ張った。
「梶原さん、出ましょう!」
「えっ、何!?」
驚いた顔の梶原を、引きずる様にホールから連れ出した。
ホワイエのソファに座らせたところで、そこに設置してある大きなモニターから、拍手が聞こえてきた。指揮者の登場である。演奏会が始まった。
「どうした? 始まっちゃったよ……」
「梶原さん、スマホ、電源入れて下さい」
「えっ……」
「早く!」
言われるがまま、電源を入れた。
「梶原さん、誰かの連絡待ってるんでしょ」
梶原の目が、泳いだ。
「ちゃんと、教えてください。それとも、電話をしなきゃならない人が、いるんですか?」
「……」
「私の勘違いなら、謝ります。この1曲目が終わったところで、中に戻りましょう」
クラシックの演奏会の場合、途中入場は基本的にできない。次の休憩時間まで、ホールの外で待つことになる。ただし、1曲目に短い曲を演奏し、その後、遅れて来た客を入場する時間を取ってくれる演奏会もある。始まった曲を聞けば、今日も、どうやらその様だ。
結衣の真剣な顔を見て、梶原は、観念したように口を開いた。
「父からの電話を待ってる。ごめん」
「何か、あったんですか?」
「母が、倒れたって……」
「えっ、じゃ急いで帰らなきゃ。もう、出ましょう」
「いや、いいんだ。大したことないことは分かってるから」
「何言ってるんですか。大したことなくても、心配ですよね。早く帰りましょう」
結衣は、また梶原の腕を取って、スックと立った。しかし梶原は、その腕を逆にグッと引っ張って、もう一度結衣をソファに座らせた。
「本当に、このまま帰りたくないんだ。もし帰って大したことが無かったら、きっと僕はまた、母につらく当たってしまう」
「梶原さん……」
「父が早く帰宅してくれると言ったから、それでいいんだ……」
そう言ってまた、奥歯を噛んだ。そのまま、目の前の敷き詰められた絨毯に、視線を落とす。
一瞬の静寂の後、結衣は梶原の背中に手を置いた。
「分かりました。じゃ、電話が掛かってくるまで、ここで聴きましょう」
そう言うと、その手をそっと動かして、背中を擦った。
梶原は、結衣の手が背中をゆっくり上下する度に、肩の力が抜けていくのが自分でも分かった。そして、抜けたからこそ、どんなに自分の体が緊張していたのか、よく分かった。
「結衣ちゃん……」
力が抜けたことを確認して、自分の膝に戻した結衣の手を、梶原は横からそっと握り、2人の間に置いた。そのまま結衣の手を確認する様に、恋人繋ぎで指を絡ませた。
顔を上げ、結衣の顔を見る。真っ赤になっている結衣に、梶原は微笑んで囁いた。
「ありがとう」
そのまま、モニターからの音を聞きながら15分程経ったところで、梶原のスマホが鳴った。握っていた手を離して、慌てて出た。
「もしもしっ」
相手の言葉を聴いたところで、梶原の顔が安堵に変わった。
「分かった。……うん、そうする。じゃ」
電話を終えた梶原に、結衣は報告を急かす。
「どうでした?」
「やっばり、大丈夫だったって。ケガもしてないし、父さんの顔を見たら納得したらしい。もう、寝るって」
「はぁ、良かった……」
「うん」
結衣は大きく息を吐いた。それを見て、梶原も小さく笑った。
「でもやっぱり、今日は帰ったほうがいいと思うんですけど……」
「父がね、ゆっくりしてこいって。2人居ても、しょうがないって」
「でも……」
「せっかく会えたんだから、僕はもっと一緒にいたいよ」
「梶原さん……」
「食事だって、楽しみにしてたんだから」
見つめられ、結衣は「ふふっ」と笑い、うんうんと2回うなずいた。
そこで大きな拍手が、モニターから流れてきた。前半のプログラムが終わったようだ。後半が本日のメインの、シンフォニーである。
「よし。今度こそ、席に座って聞こう」
そう言って立った梶原は、右手を結衣に差し出した。その手を取って、結衣も席を立つ。そのまま手を離すことなく、梶原は結衣を引っ張って、ホールの入り口に向かった。
「美味しかったね、ここ」
「ごちそう様でした。よかったです。気に入ってもらえて」
食事を済ませた結衣達は、街灯の輝く街に出た。駅に向かいながら、梶原は大きく伸びをする。
「はぁ~、今日はよく寝られそうだ。走ったし、心配したし、ワインが美味しかったし」
「ははっ。心配したのが良かったかどうか分からないけど、よく寝られるといいですね。ゆっくり、寝て下さい」
「実はもう1つ揃うと、もっと寝られるって分かってるんだけど」
「へぇ、何ですか? お風呂?」
「助けてくれる?」
梶原が結衣の顔を見て、いつもの笑みを見せた。
「何ですか? 私でできることですか?」
「うん……」
そう言ったかと思うと、結衣の体をグッと引き寄せて、街灯の光の下から抜け出した。
「あっ……」
少しの暗闇の中で、梶原は結衣の唇にキスをした。温かくて、柔らかい……。
「結衣ちゃん、僕と付き合ってください。もっと、君を知りたい」
タバコの臭いが混じったその唇を見つめながら、結衣は小さく答えた。
「はい。よろしくお願いします」
梶原はゆっくりと笑顔になる。もう一度、唇を重ねた。今度は、少し長めに……。
「当たってたね」
2人で手を繋いで歩き出しながら、梶原が結衣を見る。
「何が?」
「占い」
「ん?」
「相思相愛」
「あっ、うそ……。私?」
梶原は小さく笑って、また手を握り直した。




