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梶原の母

 朝、目が覚め、1階のキッチンに降りていくと、母がまだそこにいた。梶原は「しまった」と思う。

 いつもならまだ母は自分の部屋にいて、顔を合わせる時間ではない。父は、一足先に出勤している。


「おはよう」

 一応挨拶をした梶原に、母はいきなり顔を歪ませた。

「お母さん、昨日大変だったのよ」

「……」

「スーパーで日高さんに会ったんだけど、ゴホゴホすごい咳で! あれ、悪い病気なんじゃないかしら。うつったら、どうしよう」

「……」

「ほんと、あんな咳なら、外に出なきゃいいのに」

 梶原は黙って、コーヒーを淹れる。今日は、トーストは諦めることにした。

「お父さんみたいにインフルエンザだったら、大変だわ。お母さん、ひどい熱なんて出したことないのよ」

 父がインフルに(かか)ったのは、10年以上前だ。母の意識は、どんどん「日高さん」に集中していく。全ての「日高さん」情報が引き出されてくる。


「ほんとに日高さんは、嫌な人! あそこのおじいさん、可哀そうだったわ。顔が地面に付きそうなくらい腰が曲がってるのに、病院に車で送ってあげないのよ。おじいさん、いっつも電車で通ってて、見ていられなかったわ。ほんとにあのお嫁さん、気が強くて、お母さん大っ嫌い」

 日高さんのおじいさんは、僕が大学の時にはもう亡くなっていたから、20年近く前の話である。

「ンンッ。なんか喉が痛いかも。うつったのかしら。お母さん、体弱いから」

 さっき、ひどい熱なんて出したことがないと、言っていなかったか……。

 梶原はコーヒーの入ったマグカップを持って、洗面所に移動した。

「今日、ゴミの日だったわね……。誰か知らないけど、ゴミにネットを掛けない人がいるのよ。カラスが来て、荒らされたら大変なのに。あれはきっと、村上さんに違いないわ。あの家の人は、だらしがないから」

 梶原がキッチンからいなくなっても、母の愚痴は続いている。


 母があんな風になった理由は分かっている。


 だが、僕が学生だった頃は、まだこれ程酷くはなかった。僕が会社員になり、昼間、話す相手がいなくなると、毎日帰宅後に聞かされるようになった。

 さすがに(たま)らず、酒の席で、親と同居している上司に助言を乞うと、20分我慢しろと言われた。20分黙って話を聞いてやれば、1日に起こったことの愚痴など、大抵終わるはずだと言うので、実践してみた。


 当初はそれも上手くいっていたのだが、どんどんそれすらも効果が無くなっていき、今では放っておくと、1時間でも2時間でも、相手がいる限り、愚痴か悪口を言い続ける様になった。


 洗面台の鏡を見ながら、コーヒーを啜る。この前の結衣の言葉が甦った。


 ――何か向き合っている課題がありませんか?


 あの時すぐに思い付いた。「母」だと……。僕はこの母を、ずっと面倒見ていかなくてはならない。世話になった恩を、返さなくてはならない。

 この母は、梶原が5歳の時に父が再婚した、育ての親である。佐々木は、生みの親だ。


 僕には弟が1人いた。ひどい早産で生まれ、梶原の記憶といえば、透明なケースに入った小さい赤ん坊の姿である。母親はすぐに病院から戻ってきたのだが、弟はいつまで経っても退院して来なかった。

 それでもなんとか、2ヶ月後には家にやって来た。かすかに、母に抱かれた姿が、映像として記憶に残っている。


 低出生体重児の発育は遅く、障害のリスクもあるため心配は尽きない。それから母は、全てにおいて弟中心の生活になったのだろう。直接の記憶としては、僕の中には残っていない。

 しかしその事を、僕よりも父の方が受け入れられなかったらしい。弟が1歳を迎えた時、両親は離婚した。

 当然の様に、母が弟を連れて家を出た。僕も母と一緒に行きたかったが、連れて行ってはもらえなかった。母の後ろ姿を覚えているが、あまりはっきり、その時の感情は覚えていない。5歳だった。


 父は離婚してすぐに、今の母と見合い結婚をした。計算すれば、その時父は35歳。母は36歳の姉さん女房で、「バツイチの子連れ」という条件ならば、妥当と判断したのだろう。小さい僕の面倒を見る人も必要だったはずだ。父は合理主義の、理数系男子である。


 特に今の母にイジメられたとか、邪険にされた記憶はない。むしろ僕が懐かなくて、苦労したのだと思う。いつまでも父に引っ付いていて、父に怒られていた記憶がある。

 しかしそれも、幼稚園の頃までだった様に思う。小学生の記憶では、母は血が繋がっていないということを、もう気にしなくなっていた。周りも知らなかったし、まぁ、先生は知っていただろうが、わざわざ確認されることもなかった。今の時代、珍しくもない家庭環境だ。

 中学になれば、普通に母が鬱陶(うっとう)しくて反抗したし、高校になれば友達との時間が最優先で、あまり両親とは口を利かなかった。他の奴に確認したことはないが、どんな家でもそんなものではないだろうか。


 ただ残念なことに、弟や妹ができることはなかった。きっと母は寂しかっただろうと、今になって想像できるようになった。


 ところが2ヶ月前、父がわざわざ会社帰りに、2人で夕食をしようと誘ってきた。社会人になって初めてのことで、なんだろうと待ち合わせ場所に急いだ。

「母さんが昨日入院した。お前を身元保証人としたから、世話をしてやれ」

「お母さん? 昨日? 今朝、家にいたでしょ」

「そのお母さんじゃない」

「は……!?」

 父は淡々と説明を始めた。


  離婚後、父は弟の養育費を払っていたという。まぁ、当然だろう。そういう義務は、しっかりと果たすタイプだ。

 しかし、弟は3歳で亡くなった。「肺炎」だったと聞いていた。小学4年生の時、友達の弟が病気になり、友達が酷く落ち込んでいたのを見て、自分の弟はどうしているのだろうと父に聞いた時に知った。

 「可哀想に」とだけ思ったのを、覚えている。どんな顔をしているのかさえ、知らなかった弟である。


 ところが、その後も父は、その母と会っていたというのだ。

「生活費を、渡している」

「なんで……」

 離婚した元妻に、そんなことをする必要があるだろうか。もちろん、話し合いで慰謝料を分割にした、などという事であれば納得がいく。

 しかし慰謝料などは、父に不倫などの重大な過失があった場合にのみ発生するものだ。そうではなかっただろうと、梶原は思っていた。この父が、不倫などという不合理でハイリスクな行為を行うとは思えない。


 じゃ、何だ……。男が女に金を渡す理由……。えっ、まさか……!

「前の母さんと会ってたって、まさか、ずっと続いてたってことじゃないだろうな」

「……」

「マジ……か」

 急に梶原は腹が立ってきた。

 何だそれ! 子供には一切母親と会わせることが無かったのに、自分は続いてたっていうのかっ! 何だよ、それ! そんな事って、あるかよ!

「お母さんは、知ってるのか!?」

 もちろん、今の母のことである。

「知らない」

 一瞬ホッとしたが、本当に、そうだろうか。別れた妻に、生活費を幾ら渡してきたのか知らないが、家計を預かっている母なら、分からないはずはないのではないか。


 それより何より、これはれっきとした裏切りだ。男だから、不倫を理解しない訳じゃない。しかし、元妻を、自分から追い出した女を、「愛人」にするなど、あり得ない!

「じゃ、自分で面倒見ろよ! 何で僕が世話しなきゃならないんだよ! 僕にまでお母さんを、裏切らせるな!」

 怒りに任せて、梶原は席を立った。しかし父は、平然と言い切った。

「あれも、お前の母親だ」

 父を置いて、そのまま店を出た。


 もうそれからは、何が何だか分からなかった。グルグルと色々な疑問と怒りが巡ってきて、とても帰宅する気になれなかった。何件か飲み屋を回って、夜中の2時頃帰宅した際、ちょうどトイレに起きた母と遭遇した。

「遅かったねぇ。早く寝なさいよ」

 その時、何故だか全て腑に落ちた気がした。この母が、なぜこんなに愚痴にまみれた人生を送ることになったのか。何がこの人を、こんな風にしたのか。


 母に確認したいことは山ほどあった。

 69歳になった今でこそ母は専業主婦だが、65歳になるまでずっとパートで働いていた。始めたのは、僕が小学校4年になった頃からである。小学生の頃は、学校に行っている時間だけだったが、中学になったらフルパートに変わった。

 それはやはり、父が渡す生活費が十分ではなかったからではないのか。僕を大学に行かせるために、働いていたのではないのか。

 社会人になってからは、僕も家賃代わりに、家にお金を入れるようになった。なのに母のパートは続いた。だからこそ、きっと仕事が好きなんだろうと思っていたので、特に疑問にも思わず、止めることもしなかった。

 しかしそれは、本当に本意だったのだろうか。


 お金のことばかりではない。


 子供のことは、どうなのか。できなかったのか、それとも、作らなかったのか……。

 もし父が子作りしないと決めたのなら、いくらでもその方法はある。本当にそうだとしたら、それで本当に良かったのか。母は納得したのか。

 それとも、母はそうとは知らずに、子ができないことで、自分を責めたりしたことはなかったのか。


 何より、あなたは、幸せだったのか。父は、充分にあなたを愛したのか……。


 どれも母を傷つける言葉になることが推測され、口にすることはできなかった。


 佐々木への感情は、辛辣(しんらつ)なものだった。

 子供の頃でこそ、いつか迎えに来てくれるかもしれないと、わずかな期待が顔を出すこともあった。

 成長と共に、連れて行ってくれなかった、……いや、「捨てられた」という理解が増していくにつれ、自然に小さな憎しみに変わっていった。

 大人になってからは、顔すら思い出せない他人になっていたし、弟だけを愛した人だと、しっかり割り切っていた。


 ところが、どうだ! 自分を捨てた男に、どう丸め込まれたか知らないが、体を許すどころか、生活までも依存し、1つの家庭を崩壊させかねない存在で居続ける。エゴの塊ではないか。

 佐々木の年齢をしっかり知らないが、弟が亡くなった時、まだまだ働ける年齢だったはずだ。自分の両親だって健在だっただろう。1人で生きていくことが不安なら、新しい伴侶も十分探せたはずだ。どうしてそうしなかった!? 何故、1番簡単で楽な方法を選んだ。最低だ!


 父のことは、もちろん嫌悪感しか残らなかった。同じ男として、許せない。なにが、合理主義者だ! 見掛けばっかりじゃないか!


 しかし最後は、それらの憎悪が全て自分に返ってきた。その父の、その母の血を、自分は受け継いでいる。……絶望感しかなかった。


 結局、父に従うことになった。今の母に隠し通すには、父が面倒を見ることは不可能だと考えた。

 父は家庭のことは一切しない。掃除や洗濯はもちろん、料理などは、小さい時から一度もしているところを見たことがなかった。いつの時代の男なのかと常々思ってきたが、とても人の世話ができる人ではないのだ。

 入院したという病院に、その2日後に行くことになった。今の母には、出張と称して。


「浩君、大きくなって……」

 佐々木の、第一声である。そのまま、しばらく彼女は泣いていた。梶原は、言葉を掛けなかった。

「とにかく、座って」

 涙が収まった佐々木は、ベッドの横に立っていた梶原の手を引いて、椅子に座らせようとした。その手を、梶原はあからさまに拒否した。触れるな! と。

「……」

 ショックを受けた佐々木の顔を、じっと見つめた。ひどい事をしているのだと自覚していた。だが、どうすることもできない。色んな感情が渦巻いて、今にもここから逃げ出したい気持ちを、それでもなんとか押さえつけていたのだ。

「父と相談して、佐々木さんのお宅にしばらく泊まることにしました」

「……」

「佐々木さん」と呼ぶことは、もう決めていた。努めて冷静に、感情を押さえて、必要な話だけをしようと考えていた。その通りにできて、少し心が落ち着いた。

「仕事は、いいのですか?」

「在宅勤務の申請をしてあります」

「お世話を掛けます。家にあるものは、自由に使ってください。これは、家の鍵」

 佐々木は、梶原の感情を読み取ったかのように、急に丁寧に距離を置いた。それで梶原も、満足した。これで、いい。


 家に行き、ひと通り部屋を確かめた。小さな平屋の木造である。

 父によれば、土地も家も、佐々木の両親のものであるとのことだ。家はその両親が、一人娘を嫁に出したのを機に、老後2人でのんびり暮らそうと、バリアフリーに建て替えたそうだ。

 だがその直後、娘が子供を連れて出戻り、その子供が亡くなった後、パタパタと両親が相次いで亡くなったらしい。

 つまりこの住居は、父が用意したものではない。それを確認した時は少し安堵したが、近くに車が10台ほど停められる駐車場の土地を、父が購入して与えたと聞いた時は、胸が悪くなった。心底、今の母には知られたくないと思った。


 客間らしき部屋に、仏壇があった。そこには、佐々木の両親と思われる写真と、小さな子供の写真が飾られていた。その写真を手に取り、梶原はしばらくその場に佇んだ。

 この人達は皆、梶原と血の繋がっている人達である。本来であれば、「おじいちゃん、おばあちゃん」と甘え、「お兄ちゃん」と呼ばれた人達だ……。


 いや、そういう感傷は、持つ必要はない。僕には、今の母の両親から、祖父母としてしっかり可愛がってもらった記憶があるのだから。


 佐々木の寝室に入った。4畳半程の、小さな部屋である。下着やパジャマなど、必要なものはほぼこの部屋にあると、病院で確認した。新しいものを買うからいいと佐々木は言ったが、出費はできるだけ抑えたい。医療保険に入っているとのことで、入院費は心配いらないと言っていたが、無駄に物を増やしても仕方がない。1ヶ月は掛かると医者に説明されていた。


 ふと見ると、テレビの横に小さな写真立てがあった。それを見て、梶原はすぐに写真を伏せ、部屋を出た。それを元に戻すことは、梶原がこの家にいる間、1度もなかった。

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