手すり
「結衣、ウチにも手すり付けてー」
母から電話があったのは、前回実家に行ってから2週間後のことである。
どうやら、佐々木邸にリフォーム工事が入ったらしい。図々しくも家を見学させてもらった母の、競争心に火が付いた。
結衣は梶原に相談することにした。LINEで連絡すれば、会って教えてくれるという。こちらからお願いするのだから、梶原の休みの土曜日の夜はどうかと提案したら、結衣の次の休日を聞かれた。
火曜日だと返信すれば、夜7時ならOKだとのこと。母の勢いを考えれば、早いに越したことはないので、会社の近くまでこちらから出向くと伝える。指定されたのは、小さなカフェ・レストランだった。
19時を少し過ぎたところで、梶原はやって来た。
「待たせちゃって」
「いいえ、こちらこそわざわざすみません」
「お母さん、どう?」
「足はすっかり良くなってるんですけど、佐々木さんが羨ましいみたいで……」
「ははっ、そんなに大したことでもないのに」
「大事件ですよ、田舎では。……あの、食事はどうします? 素敵なお店ですね。メニューも魅力的」
メニューを覗き込みながら、結衣がソワソワと聞く。梶原は自然に頬が緩んだ。
「嫌いじゃないなら、ローストビーフがお勧め。僕、今日はちょっと飲めないんだけど、姫野さんよかったら飲む? ワインも美味しいよ」
「どうしたんですか? 調子悪い?」
「いや、今日だけ」
はっきり言わない梶原に、結衣は心配な顔をする。その顔を見て、梶原はやっぱり小さく笑った。
「来週、健康診断でね。只今、調整中」
「そっか、よかった。じゃ、私もいりません。ご飯、食べましょ」
梶原が依頼した業者は、有名なハウスメーカーだったらしく、名刺を見せてくれた。スマホで撮って、説明を聞く。
「君の事、話しておいたから」
「ありがとうございます」
「その営業マンがいいからね。ちゃんと動いてくれる」
「助かります」
梶原は3社の相見積もりを取ったらしく、口コミもちゃんとチェックし、最後は直接会って決めたらしい。結果、満足しているとのことで、値段も結衣が覚悟していたものより安くて安心した。
「佐々木さん、退院早かったですね」
「本当はもう少し入院している予定だったんだけど、家に帰りたいって言い出してね。リハビリは通うからって」
「入院していた方が、しっかりリハビリできるのに」
佐々木は最初の総合病院から、リハビリ専門病院に転院した。
専門病院なので、入院していれば、毎日1日に2回、しっかりと練られた計画の下、リハビリに専念できる。しかし、通いとなると毎日通う事もできないし、回数も1回しかできない。
日常の自発的な細かな訓練も、モチベーションが保てず、おざなりになってしまう。早く治したいなら、入院するに越したことはない。
「佐々木さんは、あんまり社交的な人じゃないから」
佐々木さん……か。
梶原の言葉に、結衣は改めて不思議に思う。息子なのに、やはり他人行儀を貫いている。どんな事情があるんだろう……。
「そうですね。佐々木さん静かな人だから、羨ましい」
「羨ましい?」
「うん。ウチの母なら、ずっと入院していたいって言うから」
「そうなの?」
「もうね、あの人、口から生まれた人なの。家で1人でいるより、病院なら誰かがいるでしょ。通院していた時も、待ち時間に知らない人にすぐ話し掛けて、ずっとお話してる。病院なのに、楽しいって言うのよ」
「ははっ、姫野さんも? お母さん似?」
「似てないって思いたいけど、自分じゃ分からないから、すごい恐怖です。実際に私、ぼやきも多いし」
「ぼやきが多いこと、自覚してるなら違うよ」
「そうかなぁ」
「そう」
梶原は、ローストビーフをナイフとフォークで捌いていた手を止めて、わざわざ結衣の顔を見てそう断言する。やっぱり、小さく微笑んでいる。
「……ありがとう」
結衣は、また耳が赤くなるのを自覚する。それをごまかす様に、次の言葉を探した。
「最近、無口だった父親の気持ちが分かる様になってきて」
「どんな?」
「母に口ごたえは、厳禁!」
「どうして?」
「10倍になって帰って来る!」
笑ってもらえるかと思ったが、何故だか梶原は笑うことなく結衣の顔をじっと見ていた。その顔は、不思議そうな、珍しいものを見るような目で、結衣は少したじろぐ。
「ん?」
頭を少し傾けて、何? とジェスチャーで梶原に問いかけてみたが、「いや……」と言ったきり、またローストビーフに戻ってしまう。
「ねぇ、何、何? 教えて下さい」
「明るい家庭なんだな……って思って」
少し間があってから、梶原が答えた。普通だと思うけどなぁ、と考えつつ、問い返す。
「梶原さんのお宅は?」
「……普通だよ」
ほんの小さな違和感が、結衣を不安にさせた。今までの柔らかい笑顔が、今は明らかに消えてしまった。何か、触れてはいけないものに触れたかの様で……。あの、墓地での背中が脳裏をよぎった。
突然、梶原のスマホが鳴った。梶原は、少し慌て気味に電話に出た。
「はい。……分かってる。はい。すぐ……。じゃ」
電話を切ると、食べかけていた肉を口に頬張り、ノンアルコールで流し込んだ。
「ごめん。行かなきゃ」
「えっ! もう、帰るの……?」
「うん。呼び出された」
えっ、誰に?
まだフォークとナイフを手に持ったまま、席を立つ梶原をボー然と見ているだけの結衣は、改めて自分も出なくちゃっ、と慌てだした。
「いいよ。君は最後まで食べてって。駅まで送れなくて、ごめん」
そう言うと、結衣を置き去りに出口に向かって行ってしまう。会計の所で支払いをしているのを見て、また結衣は慌てた。
ダメだよ、今日は私が来てもらったんだから、私が払おうと思ってたのに!
とにかく支払いだけはしなくてはと、バッグから財布を取り出し席を立とうとしたところで、アイコスがテーブルに忘れてあるのに気が付いた。
「梶原さん! タバコ!」
小走りで会計に辿り着けば、梶原が支払いを終えてしまったところだった。
「梶原さん、今日は私が来てもらったのに、支払います!」
「いいよ、僕がここを決めたんだから。それに、もう終わったし」
「あぁ、もうっ!」
怒る結衣に、梶原は小さく笑って結衣の手からアイコスを受け取る。
「タバコ、ありがと。ごめんね、バタバタして」
また、梶原のスマホが鳴る。店のドアを開けながら、スマホに応えた。
「今から戻るところだから。すぐ行くから、もう少し待って」
走り出そうとしたところで、不意に、グッと腕を後ろから掴まれた。驚いて振り向けば、自分よりももっと驚いた顔で、結衣が必死に腕を引っ張っていた。
「梶原さん、もしかして残業、抜け出してきました!?」
「あっ、いや……」
梶原の動揺に、結衣は確信する。だから、飲めなかったんだ……。
「やだっ、もう! ほんと、ごめんなさい。無理させちゃって!」
全力での申し訳なさが、顔に出ている。
いや、そんな顔……。
「急にトラブって、残業が伸びちゃっただけだから……」
「ドタキャンで良かったのに。ホントに、ごめんなさい。LINEで済む用件だったんだから……」
そこで急に何かに気づいたかの様に、掴んでいた手をパッと放して、結衣が一歩後ろに下がった。
「あっ、引き留めてごめんなさい。どうぞ、戻って下さい」
だから、そんな顔……。
梶原は、急いだ気持ちを切り替えて、改めて結衣の正面に立った。
「LINEじゃなくて、会いたかったから、僕が」
結衣は、小さく口を開けて固まった。
まだ、そんな顔……。
梶原は少し腰を折って、結衣の顔の真正面に高さを合わせた。
「今日のお別れだよ。笑ってないよ」
「あっ……」
耳どころか、顔まで赤くなるのが、結衣は自分でも分かった。
「お仕事……、頑張ってください」
やっと出た言葉と共に、結衣は精一杯の笑顔を付けた。
「はい。頑張ります」
そう笑った梶原は、結衣に見送られて、走って仕事に戻って行った。
「主任、どこ行ってたんですかー」
会社に戻った梶原は、横田に、割と真剣に怒られる。他に3人残っているのだが、梶原に遠慮なく文句を言うのは、この横田だけである。
「悪い。どうしても外せない用があって」
「えぇ!? 中抜けするならするって、言ってってくださいよ。『ちょっと、出てくる』って行ったきり、さっぱり戻って来ないんですから」
「はい、すみませんでした。これ、差し入れ」
残っているメンバー4人分の、サンドウィッチとコーヒーをデスクに置く。
「……、贈賄ですね」
「そうそう。しっかり、収賄してください」
「まぁ、そういう事でしたら……」
4人がサンドウィッチに噛り付いたのを確認して、梶原もキーボードに手を掛けた。確かにヤバい状況ではある。
その時、梶原のスマホがLINEの着信を知らせた。
「ごちそうさまでした。もったいないので、ちゃんと全部平らげて帰りました」
ふっと、思わず笑った息が、小さく洩れる。
「あと、手すり工事も、早速手配します。ありがとうございました」
「それと」
「私も会えて嬉しかったです」
梶原の眉が、片方だけ上がるのを見て、横田は口をモグモグさせながら半眼で見る。
「主任~、顔ニヤけてますよ。今は、彼女さんは後にして下さーい」
「悪い、悪い。マッハで終わらせるから」
もう一度、スマホがピロンと鳴る。
「今日はゆっくり寝られるといいんですけど。お休みなさい」
「だから……」
思わずスマホに向かって小さく呟いた。当たってないって言ったこと、やっぱり信じていない。
「主任~、手が止まってまーす!」
「分かった、分かった」
梶原は、「お休み」のスタンプだけを、辛うじて返した。




