92 やさしさの答え
それから程なくして、何者かの足音が庭の辺りから聞こえてきた。ゆずりが見下ろすと、走ってきたのか、膝に手をついて大きく呼吸をしている春臣が見えた。
「時雨川さん、こんな場所にいたんですか?」
彼が顔を上げる。その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
自分が見つからないので、探し回っていたのだろう、とゆずりは思った。しかし、彼が走り回るほどに必死になる理由が分からなかった。
ゆずりは不思議に思いながらも、木の枝の上に座って足をぶらつかせる。
「昔から高い場所が好きなんだよ。木の上や屋根の上、塀の上や、高い山の上とか。ごめんよ、もしかしてずいぶん探した?」
「いえ、大丈夫です」
彼はそんなことはどうでもいいという様子だった。目の色がどこかぼんやりとしていて、こころなしか視線が泳いでいるようにも見える。
「せっかくだし、少年もこっちにどう?」
そこでゆずりは、木の上から手を伸ばしながら言った。木の上に二人並んで話がしたかったのである。
「え?」
春臣は驚いたようだったが、
「いえ、遠慮します」
とすぐに首を振った。枝の上が不安定な場所だと察知したのかもしれない、と思った。
しかし、ゆずりは手を伸ばしたままで、もう一度彼を誘う。
「ほら、手を伸ばして。掴まってくれたら、上に引き上げるから」
すると、彼はゆずりを見ながら、こう言った。
「あの、言っておきますけど。僕は男だし、重いですよ」
それを聞いて、なるほどな、とゆずりは合点がいく。彼はどうやらゆずりの華奢な白い腕を見て遠慮したらしい。確かに、自分で見ても、どこか机の角にぶつけてしまえば、ぽきんと簡単に折れてしまいそうにほっそりとした腕だった。男性を支えて持ち上げるのにはさすがに心もとない。
ゆずりは、大きな口を開けて笑った。
「ハハハ、大丈夫だよ。こう見えても時雨川は力持ちなんだ。少年なんて、ひょいっと持ち上げてあげるからさ」
「本当、ですか?」
「本当だよ。嘘なんて言わないったら」
そうゆずりに言われ、春臣は「はあ」と少し迷った後、とりあえず、という感じで、手を握ってきた。間違いなく半信半疑だ。
見てろよ、とそこでゆずりは力をふっと抜く。
春臣はきっと自分が顔を真っ赤にして、自分を持ち上げるところを想像しているに違いないとゆずりは思った。
しかし、ゆずりは自分の腕力に頼って彼を持ち上げようなどとは毛頭思っていなかった。ゆずりにとっては、彼を持ち上げることなど、ほんの少し、人ならざる能力を発揮させればいいだけのことなのである。少しニュアンスが違うが、それは非力な人間でも重いものを持ち上げることが出来る、あのてこの原理に近い。
ゆずりは、頭の中で羽が風に舞い上がるイメージを膨らませる。大事なことは、イメージすること。逆説的に聞こえるかもしれないが、それは自分で自分に春臣の体がとんでもなく軽いものだと、『無意識に意識させる』作業なのだ。
刹那――地べたに散らばった花びらを舞い上がらせるような風が、さっと吹く。
すると、もう春臣はゆずりの向かいの枝に座っていた。それはまるで、最初からそこにいたかのように、何の違和感もなく、そこに、いた。
「ほらね」
ゆずりが得意げに繋いだ手を離すと、彼は周囲を見渡し、夢を見ているようにぽかんとした。
そして、不思議そうにゆずりの手と自身の手とをしばらく交互に見続けたが、どうやら深く考えても無駄と悟ったらしく、素直に礼を言った。
「あの、あ、ありがとうございます」
ゆずりは彼のこういう潔いところが好きだった。すぐに首を振る。
「いいよ。それより、ここからの眺めを見なよ」
「眺め?」
「ちょっと地上から離れるだけで、ずいぶん眺めが違うだろう?」
春臣が目を凝らして、じっと遠くに見える川を見る。それから、足元に視線を落とし、
「そうですね。何だか、家の二階から見るのとはまたわけが違います。足がこんな風にぶらぶらしてませんから」
「ハハハ、確かにな」
笑いながら、ゆずりは盛大に足をばたつかせた。
「そうだ、夜叉媛ちゃんは?」
ふいに気になり、ゆずりは訊ねた。
「ああ、媛子なら、久しぶりに大きな体に戻ったのが嬉しかったのか、家の中を走り回るのに疲れて、二階で眠ってます」
「ふうん」
「かなり疲れたのか、ぐっすり眠ってるみたいで、多分当分起きないと思います」
「……そうか」
すると、春臣が黙ってしまったので、少し変な空気になった。彼を見ると、ちらちらと景色を眺めているが、どこか上の空である。どうやら、ゆずりに話したいことがあるようで、心の中でそのとっかかりになる言葉を探しているのが見て取れた。
ゆずりは助け舟を出す。
「何か時雨川に聞きたいことがあったんじゃないのかい?」
「あ……」
春臣の表情を見ると、やはり図星だったようだ。
すると、彼は一瞬のためらいを挟み、
「その……もう、出て行ってしまうんですか?」
と訊いた。その問いに微妙な違和感を感じつつ、ゆずりは空を見上げながら答える。
「そうだよ。少年も元気になったし、もうここに滞在する意味はなくなった。これ以上少年たちに迷惑をかけるのは忍びないし、また新しい旅に出るさ」
「旅に?」
「うん。元々そういう商売をしているし、なにより旅はいい。自由に大空を飛ぶ鳥になった気持ちになる。どこへだって行けるんだからさ。まあ、それでお金もあれば最高なんだけれど。くくく」
自嘲気味に笑うと、春臣も一拍置いて苦笑いをした。その様子が妙にぎこちないので、やはりまだ、隠していることがあるな、とゆずりは思った。
「少年は、他に本当に聞きたいことがあるだろう?」
ゆずりはさっさと問い詰める。
すると、彼は瞠目したが、「どうして?」とは聞かなかった。おそらく自分の挙動がおかしいと薄々自分自身で気づいていたのだろう。
ゆずりは何の婉曲もなく、ずばり訊いた。
「少年は今朝のことを聞きに来たんだろう?」
一瞬の空白の後、
「……はい」
彼は答える。
「時雨川は、君が作ったお守りに君の真心が宿っていると言った。それが気になっていたのだろう?」
「そう、ですね」
「そして、その想いに呼応し、君の内なる力がお守りに宿ったということも、だろう?」
「仰る、通りです」
見抜かれていたことに春臣は恥ずかしそうに目を伏せて、それから、もう一度考えを整理しているようだった。しばらくして、思い出すように、確認するように彼は話す。
「時雨川さん、こうも言ってましたよね。僕の中にある力って、自分の意思ではどうすることも出来ないものだって。じゃあ、今回のことはどういうことなんですか?」
「とても稀なことが起こった、と時雨川は思っているよ」
ゆずりは間髪入れず、正直に話した。
「稀な、こと?」
彼の問いに自信を持って頷く。
「そうだね、君が夜叉媛ちゃんを思う気持ちが、それだけのものだったってことだよ。動かせるはずのないものを君の意思が動かしたんだ」
「……」
「こう言ったほうがいいかい? 君が彼女に『優しくしたい』って気持ちが、君の内なる力を呼び起こしたのさ」
そう告げると、春臣がはっと息を吸ったのが分かった。ゆずりはさらにそのままふらついて、木の枝から彼が地面に落ちてしまうかとも思った。
しかし、なんとかそうはならずに持ちこたえたようで、ゆずりは伸ばそうとした手をひっこめる。
同時に、やはり、彼が本当に訊きたかったのは、こういうことだったのだな、とゆずりは思った。
言葉を続ける。
「少年、君は今朝自分が言ったことが心の奥底ではずっと気になっていたんだろう。自分が本当に他人に対して優しいのか? 優しさを本当に理解しているのか? 自分はただの偽善者ではないのか?」
ゆずりは指を折って数えるように言う。頭の中で底の見えない暗い階段を降りながら、段数を数えている春臣の姿が浮かんだ。
「今まで当たり前だと思っていたことが、突然、不安定で、見えない足場の上に立っているような心地になった。とても、我慢してはいられない。確かめずには、いられない。そうだろう?」
「はい」
「でも、安心しな」
と、ゆずりは明るい声でそれら暗い幻想を打ち払うように言った。
「これは少なくとも、少年が夜叉媛ちゃんを思う優しい気持ちは真実だっていう、一つの証拠になると思うんだよ。それくらい奇跡に近いことを君は行ったんだ。君は、そのことに自信を持っていい。もしかすると、近いうちにまた同じような気持ちに苛まれるかもしれない。けれど、負けちゃだめだよ。君は強いんだ。そこらへんの同い年の奴らより、ずっとね」
そして、ゆずりは、そこでとびきりの笑顔で彼に笑いかけた。
春臣はというと、言葉を返さなかった。いや、返せなかったのかもしれない。それくらいに胸の中で様々な感情が重なりあっているような気がしたのだ。
しかし、いずれにせよ、ゆずりには彼の表情から、安堵した様子を感じ取ることが出来た。おそらく、これで彼は大丈夫なのではないか、とも思った。
よっと勢いをつけて、木の枝から飛び降りる。
「あ、時雨川さん」
「はい、難しい話はこれで終わり! あんまり頭を使うとお腹すくしさ」
振り向くと、彼は木の上からゆずりを見下ろしていた。
「ハハ、そうですね」
どこか呆れたように半眼で見つめていたので、自分が実は空腹であることを悟られたのかもしれない、と思った。全く、最後の最後で決まらないな。ゆずりは鼻の頭を掻く。