91 フクロウとゆずり
温かな午後の光が、木々の葉の間から、切れ切れに差し込んできている。
時雨川ゆずりは、春臣の家の前に立つ、一本の老木の枝の上に悠々と寝そべっていた。長年の間、風雨に耐え、隆々とした筋肉のように太くなった枝は、ゆずり一人分の体重などもろともしていないようで、少し動いた程度では、みしりとも揺れない。
ゆずりはその枝が二股に分かれている場所に頭を乗せ、鼻歌を歌いながら、のんきに紙飛行機を折っていた。作り慣れている様子で、紙の上を滑るように指が動いており、綺麗に折り目をつけている。
と、そこへ、どこからともなく一羽の鳥が舞い降りてきた。静かな羽音で、どこかどっしりとした貫禄のある斑色の羽をしたその鳥は、大きな目をしたフクロウだった。そのフクロウは、ゆずりのすぐ傍の枝に止まると、何をするかと思いきや、じ、と彼女の手を観察しはじめた。しばらくして一度、ホオ、と鳴く。
するとゆずりは、そのフクロウの存在に気づいたようで、のっそりと頭を向けた。そして、そのフクロウに対し、旧知の仲であるかのように軽く礼をし、こう言った。
「どうも、蒼日鷲命さま。今日はフクロウの格好なんですね」
突然に話しかけられたフクロウはと言うと、驚いて逃げようとする様子もなく、
「ふん」
と鼻息を飛ばした。
そして、おもむろに口を開き、
「普段はこの格好の方が動きやすいからな。本来の鷲の姿でこんな場所に来れば、周りの鳥どもが何かとざわついて耳障りだ」
なんと、言葉を話した。しかし、それに対し、ゆずりも全く驚く様子はない。それどころか、寝転がったままくすくすと笑った。
「嗚呼、おいたわしや、命さま。ずいぶん嫌われていらっしゃるのですね」
「いらん戯言を吐くな、ゆずり。俺はお前のその悪意の込もった挨拶に付き合ってやるほど暇じゃないんだ」
そう言って、フクロウはその両翼をまるで脅かすように一度広げて見せた。その様子はどこか普通のフクロウとは違う、荒々しい威圧がある。
「まあまあいいじゃないですか。普段は会えないことが多いんだし。たまにこうして、冗談を言い合って時間を潰すのも」
「あのな、俺はいろいろと忙しいんだよ。それに、あんまり長居すると、ここの土地神にどやされるかもしれないしな」
位の高い神っていうのは、縄張り意識が強いことが多いんだよ、と面倒くさそうに言う。
「そうですか、それは残念ですね」
しかしゆずりは全く残念そうになく、そう言った。本心の見えないその表情は、フクロウに対する柔らかく打ち解けた様子の言葉とは裏腹に、どこか硬質的なものを感じさせる。
「それでは早速本題へ? 何の用ですか? あの少年の呪符なら無事に除去、破壊しましたが」
すると、フクロウの首が機敏にくるりと動いてゆずりを見、そして、木々の合間から見える家の方へ向いた。
「……そうか。それはなによりだ。一先ずは安心だな」
そこでゆずりは起き上がると体勢を変え、枝の上で正座したまま、恭しく頭を下げる。
「なによりも、ここ数日、命さまがお力を貸してくれたおかげです。土砂崩れの際に子供をお救いただいたことに始まり、時雨川の失敗のせいでお守りを作る際にもいろいろとご迷惑を。後者に関しては、時雨川一人ではまだ作製に時間がかかっていたでしょう」
「ふん」
フクロウはぶっきらぼうな様子でそっぽを向く。照れているのか、顔の周りの羽が妙な感じに逆立った。
「それくらいは当然のことだ。部下の失敗の責任を背負うのが上司としての役目というものだろう。そう大したことじゃない」
すると、ゆずりが指に紙飛行機を摘んだままで、何かを閃いたようにぽんと掌を打った。
「あ、そうですか。そう言ってもらうと時雨川も気が楽です。じゃあ、この件は貸し借りなしのチャラということでいいですね」
フクロウの後姿が、げんなりしたように沈む。
「……お前は相変わらずだな。どうしたらそういう図々しい思考回路になるんだ」
しかし、彼女は不気味なほどにこにこと笑ったままだった。
「ったく、この失敗が、少しはいい薬になったと思っていたが……まあ、そのことはいい。それより、聞きたいことがある」
ゆずりは、手首をしならせながら、今度は紙飛行機を投げる練習をしていた。
「何ですか?」
と訊く。
「この家に住む、その少年と、お前が話していたやつのことだ。そいつらの関係はどうだ?」
ゆずりの手が一度だけぴたりと止まり、
「……神の世の者と、人の世の者がどう暮らしてるのか気になるんですね?」
と、すぐにまた動き出す。
「そうだ。お前はどう思った?」
「そうですね、率直にとても面白い、と思いますよ。時雨川は久々に驚きました」
「ほう。それは?」
「ああやって、本来別世界に住んでいるはずの者たちが、お互いを思いやり、助け合い、同じ場所で共同の生活を営んでいる。少なくとも、時雨川の常識では考えられないことです。数日間ではありましたが、彼らと生活したことは、中々貴重な体験でした。久々に神と人の関わり方について、真剣に考えましたよ」
そう言って、ゆずりの手が紙飛行機を放った。それは彼らの前でゆっくりと風に乗り、木々の枝を抜けて飛んでいく。ふらふらと危うげに蛇行しているように見えて、その紙飛行機は上手くバランスがとれており、まるでそれは紙と風が仲良く語らっているようにも見える。
フクロウは、なるほどな、と胸中で一人ごちた。
「そうか……そうだな。確かにこれは普通ではありえない、異常な事態だ。俺もいろいろと興味深いよ。何かを考えるいいきっかけになりそうだ……」
すると、それっきり言葉が止む。まるで、たった今飛ばした飛行機が、両者の間の音を乗せて飛び去っていったかのようだった。
ややあって、フクロウはふと、隣でゆずりがこちらを見ているのに気がついた。
「どうした?」
その顔は深刻そうで、どこか今までのようでなくおどおどしているように見受けられる。
「あの、一応申し上げておきますが、例のことを少年に告げるのは――」
彼女がそこまで言いかけて、なるほど、それを心配していたわけか、とフクロウは、ははん、と軽く笑った。『それ』に対する彼の心積もりは最初から決まっている。
「言われずとも、分かっている。忘れたか? さっきも言ったように、俺はお前の上司だ。連帯責任者だ。今回は部下であるお前がへまをやらかし、偶然あいつらに関わり、それについて知る羽目になった。でも、そのことであいつらに干渉はしないとお前が先に約束したのならば、上の立場であるが故、偶然にもその事実を知った俺が勝手に動き、その少年に真実を告げるというのは、いささか道理に反するというものだ」
「おお、さすが命様。義理高いお方です」
「ふん、感心したような声を出すな。お前からだと馬鹿にされたような気がするんだ」
フクロウは何かを振り払うように、ばさりと羽を一度はためかせた。
「今回は特別に見逃すということだ。本人も自分から話すと言っているようだし、問題はないだろ。それに、むやみに介入せず、こいつらがこれからどうなるのか、俺が観察するのも面白いかもしれんからな」
「……そうですね」
そういった彼女の笑顔には安堵の色が窺えた。フクロウは、それを見て、小さくホオと鳴き、そばだてた耳で、何かを察知した。
目を家の方へ向け、羽ばたいて、少し上に張った枝に飛び移る。ゆずりに向けて言った。
「ゆずり、俺はそろそろ行くぞ」
「おや、もしかして獲物のねずみでも見つけましたか」
「そうじゃねえよ! お前、この口ばしで肉をえぐられたいのか?」
「おお、怖い怖い」
と、ゆずりは頭を隠した。その仕草はまるでふざけた子供のようだ。それを見ると、さらに続けようと思った言葉が、どうでもよくなる。
ったく、とフクロウはつぶやいて、
「それじゃあな」
とどこかへと飛び去っていった。
それから程なくして、何者かの足音が庭の辺りから聞こえてきた。ゆずりが見下ろすと、走ってきたのか、膝に手をついて大きく呼吸をしている春臣が見えた。