89 優しさの理由
どうも、ヒロユキです。
話が半端なところから始まって、また妙なところで止まります。すいません。上手く区切れなかったんです。
そういえば、時雨川ゆずり編もそろそろ終盤です。途中で方向を見失いかけましたが、なんとかここまで漕ぎつけました。今回も一段と長かったです。
「夜叉媛ちゃんも言っていたが、少年は本当に優しいんだな」
何気なく、彼女が言った。
「え……」
しかしなぜか、その言葉を聞いた途端に、春臣は胸の奥がぐぐっと押さえつけられるような気がした。
「どした?」
「……俺は、優しい、ですか」
「うん、そう思うけど……それが何か引っかかるのかな?」
怪訝そうにゆずりが顔を覗き込んでくる。
「いや、何だか突然よく分からなくなってしまって。人に優しくするって理由が」
「……人に優しくする理由、ねえ」
腰に手を当て、吟味するようにゆずりは言った。春臣は、俯きながら額に手を当てる。
「どうして俺は、こんな風に思うんだろう。今の話だって、確かに言葉で説明することは出来ましたが、どうしてそう思うのか、もっと根っこの部分が見えてない気がするんです」
「そうかい?」
「なぜ、自分は他人に優しくするのか……もしかして、俺は『他人に優しくする方法』を知っているだけで、単にそこに後から理屈を当てはめているだけじゃないんでしょうか?」
それは、底知れぬ疑念だった。
春臣の心の奥に、見たことのないぞわぞわとした黒い塊が地を這うようにして広がっていくような気がした。
「君は、自身の優しさを偽物だと思っているのかい?」
ゆずりが問いかけてきた。
「……分かりません」
力なく首を振る。
「ただ自分が他人に優しくする理由の底の部分に、すっぽり穴が抜けている感じがしたんです。時々机の引き出しを開けて確認していた大事な宝箱が、いざ開けてみると空っぽだったような……」
言い知れぬ不安が春臣の胸中を席巻していた。ぐるぐるととぐろを巻く暗雲のように、春臣の心に黒く巨大な影を落としている。心なしか、指先がひんやりしてきたようだった。
すると、そんな春臣に対し、ゆずりは何かを思い出したのか、「あっ」と小さく声を上げた。
「何か?」
「い、いや、難しい話だ、って思ってさ」
なぜか焦ったように目をきょろきょろさせている。
「優しさの理由、か。でも、別にそれは君じゃなくても、他の誰だってきちんと理解している人はいないんじゃないかな?」
「時雨川さん、も?」
聞くと、彼女は頷く。
「そ、そうだよ。特に時雨川は一人者の流れ者だからねえ。優しくする以前に、他人にどうしてあげたらいいか迷うことなんて、しょっちゅうさ」
「そういう、もんですかね……」
呟きながら、春臣は気持ちを緩めるようにすとんと肩を落とした。正直腑に落ちないが、確かに、彼女の言う通りなのかもしれない。そう考えたのである。
優しさなんて実体のない不確かなもので、手で触れて確かめるわけにもいかないし、本当のところは誰にも分からなくて当然なのだ。
「目に見えないものの話は、いつだって面倒なんだよ」
彼女が目を細めながら、詩人のように言った。
「……そう、ですね」
と、
「そうそう、時雨川なんていつも困ってることがあるんだがな」
ゆずりが急に明るい声で人差し指を立てる。
「え、何です?」
「匂いだよ匂い」
さも厄介そうに顔をしかめて、彼女は立てた指を鼻の頭に乗せた。
「山を歩いているとそうでもないが、町を歩いてるとおいしそうな食べ物の匂いがいたるところからするだろう?」
「……」
「あれは時雨川的には非常にまずいんだよ。時雨川はおいしいものの誘惑には弱いからさあ、いろんな食べ物の匂いを嗅ぐともうパニックになるのさ。どっちに行こうかなって。お金を持っていればまだいいけど、持ってないとさらに悲惨で、誘惑されないように町を逃げ回るんだよ」
「……」
「な、大変だろ?」
と、同意を求めてきた彼女の顔はあまりにも真剣で、それを見た春臣は返答するより先に、お腹の底が震えだすのを感じた。
「……くくく、ははははは」
「な、何で笑う、少年」
春臣が急に腹を抱えて笑い始めたのに驚いたのか、彼女は目を丸くした。
「いや、すいません。とっても時雨川さんらしいなって思って、おかしくって……くくく」
笑いが止まらない。
すると、ゆずりは怒ったのか、むんと唇を突き出した。
「少年の癖に、生意気だぞ」
大人をからかうな、ということなのだろうか。
しかし、春臣には反論する手立てがあった。
「ははは、よく言いますよ。その生意気な少年の家の冷蔵庫から、食べ物を勝手に物色しているのはどこの誰です?」
彼女が分かり易くのけぞった。
「ぐう、返す言葉がない」
「ふふふ……」
いたずらっぽく笑って、そこでようやく、春臣は目じりに溜まった涙を拭いた。さすがに笑いすぎるのも彼女に失礼だろう。
続けて、大きく深呼吸する。
すると、いつの間にか先ほどの鬱屈とした気分も消え去っていたことに気がついた。あの黒々とした、得体の知れない暗雲のような気持ちである。
笑ったおかげでどこかに飛んでいってしまったのかもしれないな。
彼女の少し変な話は春臣の沈んだ気持ちを和ませる作用があったようだ。
「……あのさ、少年」
と、ゆずりが、ぽつりと呼んだ。
気がつくと、春臣のすぐ目の前に彼女がいる。またしても、彼女には似合わない真面目な顔で、こちらをじっと見つめていた。
春臣は緊張して、顔の筋肉がくっと収縮したのが分かった。
今度は何を聞かれるのだろうか。
そう身構えていると、何の前触れも無く彼女が両腕を広げ、
「え……!」
春臣をぎゅっと抱き寄せた。
「あ、の……時雨川、さん……?」
春臣は驚いて身じろぎする。
しかし、そうするとさらに彼女は春臣に身を寄せ、逃げないようにか、回した腕に力を込めた。体がもっと密着する。
「じっとして……」
囁かれた。
さらに、
「春臣君」
なぜか名前で呼ばれ、ドキリとした。
「言おうか言うまいか迷ったのだが……」
「は、はい……?」
「君は、あまりこういうことで悩み過ぎないほうがいい」
「……」
「君は一見、芯が通っているようで、実は、案外脆く、危なっかしいところがあるみたいだ。だから、こうして時々難しいことを考えたがる。でもね……」
ゆずりの声が耳元で聞こえ、目の前には、彼女の蒼い髪が、まるで宝石のように輝いていた。初めて間近で見たその神秘的な色に、春臣は無邪気に触れたくなった。
「君は君のままでいいのだよ。この世に、完璧な存在など、いやしないのだ」
春臣はどう言ったらいいものか、迷って、
「なぜ……どうして、急にそんなことを?」
と訊いた。
「……」
彼女はすぐには答えなかった。
ややあって、
「……さっきの夢は覚えているかい?」
「夢、ですか?」
彼女に言われて、春臣は思い返す。
夢。そういえば、確かにさっき目覚めるまで何か奇妙な場所の夢を見ていた気もするが……。残念ながら、今となってはほとんど記憶は残っていなかった。
「いいえ」
「そうか……覚えてなければその方がいい」
彼女は安堵したようだった。すると、それと同時に、少しずつ、春臣の背中に回っている手が緩んでいった。
「いいかい? 暗い誘惑に惑わされてはいけないよ」
と、それだけ言って、彼女はついに春臣から体を離した。そして、また椅子に戻る。難しい顔をして、天井を見上げた。
春臣は呆然とする。
ゆずりが不思議なことは今に始まったことではないが、今日はいつのも増して、その不思議さに拍車がかかっているようだった。
ゆずりに抱きしめられた感触がまだ残っている。
急に、こんなことをしてくるなんて。全くの予想外だった。
春臣は眉間をつまんだ。
それに、暗い誘惑って……。