87 閉じられた場所
暗い廊下だ。
いつの間にか、そこに立っていた。
呼吸の音さえ吸い込まれてしまいそうな漆黒が、目の前にある。廊下の両脇の壁には、四角い窓があるが、どれもこれもなぜか厚い黒いカーテンで覆われていて、陽の光が届いていない。完全なる、閉じられた闇だった。
いったいどうやってここに来たのか、ここはいったいどこなのか、皆目検討がつかない。
濃い闇は、自分をここへ縛り付けるように、じっとりと濃密に体にまとわりついているような感じがした。振り払おうとすると、さらにきつく深く、締め付けてくる気がする。まるで蛇に絡まれているようで、気持ちが悪い。
だが、なぜだか、ここから逃げたいとは思わなかった。不思議に落ち着く場所だ。
長い、長い、廊下である。
先は見通せず、まるで奈落へと続く深い縦穴のようで、四方八方から押さえつけられているような圧迫感があった。その先には見えない魔物が、真っ赤な長い舌をちらつかせながら、大きな口を開け、自分を待ちかまえている、そんなおぞましい予感さえする。
しかし、自分は前に向かって歩き出していた。
なぜか、
ずっと昔から、
それを望んでいたような覚えがあるのである。
どこか自己破壊的なその、暗い願望。
しかし、自分はその暗い感情にどこかこれ以上ない居心地の良さを感じていた。
ここがどこであろうと関係はない。
ただ、歩み行く。しっかりと、前を見据えて。
しかし、そこへ響く声。
「行っちゃだめだ」
それは、人のようで人ではない、何者かの声だった。思わず立ち止まる。
「その向こうにあるものは危険だ」
振り向くが、そこには誰もいない。
しかし、自分はそのことには疑問を抱かず、
『危険? そんなはずはない』
と思う。
自分はこの先に待つものを『望んでいる』のだ。問題はない。しかし、再び歩き出そうとすると、また、声が響いてきた。
「よく考えるんだ。何が大切なことかを。今の君に、何が重要なのかを」
それは耳ではなく、脳内に直接聞こえてくるように、不思議な心地がした。
「自分の、大切なこと?」
挙げようとした足が、止まる。
すると、なぜかぐうんと肩に重力がかかり、膝をついて、自分は倒れこんでしまった。廊下が闇の向こうへと傾いたのだろうか。
「分かっているはずだろう? 君はここでこんなことをしていてはだめなはずだ」
また謎の声。
どういうことだ?
転がりそうになる体を床にしがみつくことで押さえた。不思議な言葉に自分が揺さぶられ始めているのが分かった。
「すぐに引き返すんだ。難しいことじゃない。妙な幻想を断ち切る勇気があればいい」
「勇気?」
「そうだ。簡単なことさ。君には戻らなくてはならない場所があるはずだ」
すると、急に我に帰ったような気がした。催眠術が解けた感じで、体に何かが巻きついてような、重量感が姿を消す。そうだ、自分には戻らなくてはならない場所がある。
そう認識すると途端に、冷や汗が噴き出した。
じゃあ、ここはいったいどこだ?
「こわい、こわい……」
ひんやりとした空気が背筋を舐め、全身の毛が逆立つ。
間違いない。自分は今、恐怖していた。
目の前の向こうで待っているものに、戦慄している。歯が鳴り、鳥肌が立ち、膝が震えた。
早く、戻らなくては。
でも、どこに?
周囲に見えるものは目をふさぐ闇ばかりだ。
分からない、だが……とにかく立ち上がれ。
そう思った途端に、視界が淡く滲み始めた。
目を開けると、そこには時雨川ゆずりがいた。春臣は畳みの上に寝そべっている。彼女は肩ひざをついて座っていて、春臣を覗き込んでいた。
「あ、あれっ?」
明るい……。
ここは、いつもの部屋か。
「少年、おっは」
すると、寝ぼけた春臣の頭上で能天気にゆずりが笑った。
「お、おはよう」
おどおどしながらも春臣も返事をする。そして、起き上がって体のあちこちを点検し、これが現実であることを確認した。
ここは勉強部屋で、傍にはドア、横には机、気になるような不審点はない。
しかし、先ほどまでの暗い廊下を、春臣は思い出す。
井戸の底のような、あの……。
あれは……ただの夢か。
「おい、少年」
と、ぼうっとしている春臣にゆずりが声をかけた。
「はい、何です?」
振り向く。
彼女は胡坐を組んでなぜか物珍しそうに春臣を見ていた。
「体の調子はどうだ?」
「体の調子、ですか?」
そう言われて考える。
特に不調はないように思えた。体がだるいわけでもないし、熱もなさそうだ。眩暈がするわけでもないし、怪我があるわけでもない。いたって、健康そのものである。
「別に、問題な……」
言いかけて、
「あ! そう言えば」
と、あることに気がつく。
そうだ、自分は呪符の力を抑えるために体力が消耗しやすくなっているはずなのだ。なのに、どうしてこんな風に自然に動ける。いつもからだがだるくて仕方が無かったのに。
「実はな、少年」
すると、ゆずりが懐から短冊のような紙切れを取り出してちらつかせた。
「それって」
「少年に張り付いてた呪符。もう取れちった」
手で後頭部を触れると、なるほど、確かに何もない。
「でも、取れたっていつの間に?」
「つい今しがた、君が眠っている間だよ。いやあ、ようやく仕事が済んだなあ。一週間もかかったかあ」
そして彼女は大きく背伸びをする。ごきりごきりと肩を鳴らし、さらにもう一度背伸び。おまけにあくびまでかました。
春臣はそんな彼女の気の抜けた様子を見ながら、ただただ唖然としていた。自分が眠っている間に何が起こっていたのか、説明が欲しかったのである。
「そんな簡単に、呪符って剥がせるんですか?」
「そだよ。説明したっけ? そもそも呪符自体は本来人を守るための道具で、人に害を与えるものじゃないんだ。今回の場合はその使用用途を逸脱していたわけだから、君との結合のシステムさえちょちょいと破壊できれば、案外容易に呪符の方から剥がれてくれるんだ」
彼女はそこで一度区切り、
「これがもし、呪符を土台としものではなく、本当に人を狙うことを目的で作られたものを土台にしてあれば、対処にかなり時間がかかっただろうけどね。でも、今回厄介だったのは、前にも言ったように、呪符を拘束している君自身の力だったわけさ。まあ、こちらの方はそれを抑制できるお守りの力があれば十分。対処方法がシンプルだから、特別困ることは無かった」
そして彼女は指で挟んで呪符をひらひらさせて、手で包み、ぐしゃぐしゃにしたかと思うと、また掌を開いて、なにやら呪文を唱えた。
なんといっているのか、聞き取ろうと思った瞬間、呪符にぱっと火がつく。
「うわっ」
春臣は驚いて尻餅をついた。
しかし、彼女はとんでもない高温だというのに、涼しい顔のまま、手の中で踊る赤い火を見ている。
「こういう危ないものはさっさと処分するに限る」
そして、ぱっと握りなおし、もう一度開くと、掌には灰一つ残らず、呪符は消えていた。春臣はそれを口を開けたまま眺めていた。
「はいっと。これで全部終わり。本当に迷惑をかけたね」
「ああ、はあ」
春臣はひざをついて座り込む。何だか質問したいことがいっぱい浮かんできた気がしたが、たくさんありすぎて脳内に渋滞しているのか、言葉が上手く出てこなかった。
そして、代わりに、あることを思い出す。
「あ、そうだ。媛子は?」
いつもなら自分のことを心配して傍にいてくれそうなものだが、部屋の中に彼女の姿は見えなかった。
「外にいるよ」
ゆずりが顎でドアを差す。
しかし、
「でも、今は出れない」
と首を振った。
「え、どうして?」
「結界を張ってるからね」
そして、ゆずりは部屋の天井近く、柱がある四隅を順に指差した。春臣も目を向ける。するとそこには彼女のお守りらしきものが四枚貼り付けてあった。どうやらそれが、結界というものらしい。
「外部から余計な影響を受けないための措置だよ。出来るだけ安全に、呪符を取り外すためのね。ここは特殊な異空間で、神の世界とも繋がっている。結界にエネルギーを供給し、より強固にするためには申し分ない環境だったし、ちょうどよかったよ」
「結界を、強固に……」
「この結界が張ってあれば、外部からは馬で体当たりしようとも、ミサイルを打とうとも、簡単に部屋に侵入することは出来ないんだ。そして、その逆も然り。頑丈だろ? つまり、今ここは、外部から切り離された完璧な封鎖空間にあるということさ」
「はあ、よく分かりました。だったら、すぐにその結界を解いてくれませんか?」
「……」
しかし、彼女は返事もしないまま、無表情になって正面の壁を向いた。
「あの、時雨川さん? 聞いてますか?」
「結界はまだ解かない」
ぽつり、と言う。
「な、どうして?」
春臣が驚いて聞くと、彼女は壁にもたれて座った状態で、首だけをこちらに向けた。
「少し、話をしないか?」
そう言って、彼女は不気味に微笑んだ。