9 約束をひとつ
「ともかく、整理すると、春臣の中の穢れがこの空間の負荷という火に、油を注いでしまった可能性が高いというわけじゃ」
「ふうむ」
理論では理解できるが、全てが目に映らない状態で起こっているため、曖昧模糊とした気持ちのまま春臣は頷くしかなかった。
「それでおぬし、こんな状態で礼拝したのじゃろう」
そして、止めを刺すように姫子が言う。
「ああ……」
「おそらくそれが、空間崩壊の引き金となったらしいの」
そういえば、と春臣は思い出す。確かにここで合掌して目を閉じた後に、奇妙な感覚を感じて、気を失ったのだった。
「それで、ここは異空間に?」
「まあ、神の世界と人間の世界が交じり合った場所とでも言えばいいか。その中間地点となっておる。わしが依り代なしに存在できておる、それが証拠じゃ」
「……う、嘘だろ?」
「嘘ではない。まことじゃ」
「で、でも、俺は別になんともないぞ。体が捻じ曲がっているわけでもない」
異空間と聞くと、体がねじ切られるのではないかという、安易な春臣の妄想に、
「ふふ、そうじゃな」
彼女は春臣を小ばかにするように笑う。
しかし、それには気づかず春臣は続けた。
「そ、それにこの部屋の外は人間の世界なわけだろ。この異空間と普通に行き来できたぞ?」
もっともな疑問だった。
しかし、彼女は何でもないことのように返答する。
「そうじゃな、だがそれに関しては問題ないじゃろう。元々、この空間は人間の世界の一部なのじゃから、行き来出来て当然なのじゃ」
「ああそうか……うん?」
「どうした?」
「ちょっと待てよ。そうなるとおかしいじゃないか」
彼女を説明に、明らかな矛盾があることに春臣は気がついた。
「媛子が言うように、この異空間が人間の世界とも繋がり、神の世界とも繋がっているなら、この部屋を出たとき、媛子はここから消えて、その身の在るべき神の世界に戻ってないとおかしいんじゃないか?」
「おお、またしてもよいところに気がついたの」
春臣にはその褒め言葉が次第に馬鹿にされているように聞こえて気に食わなかったが、話を止めるのも嫌だったので口をはさむことはしなかった。
「確かに先ほどはこの部屋を出ても、わしは人間の世界に残ったままじゃった。だからこそ、神というわしの存在自体に違和感が生じ、わしの存在は消えかかった」
「そうか! さっきの状態はそういうことだったわけか」
彼女が外に出た途端、急に寒がりだし、体が消滅しそうになったことを思い出す。
「そう、後もう少し、ここに戻ってくるのが遅ければ、完全に消えうせておったの。危ないところじゃ」
「そ、それで、どうして元の世界に戻らなかったんだ?」
「もちろん、そこにも理由がある。わしの姿を見てみよ」
媛子はそう言って、春臣に良く見えるよう近寄ると、両腕を伸ばして着ている服を揺すってみせる。
「あん? 綺麗な色だな」
率直な感想だ。
「お、春臣もそう思うか? わしも気に入っておって……って、そうではなくて、この体の小ささのことを言っておるのじゃ」
紛れもなく、人生初の神によるノリツッコミを見ながら、春臣は、
「はあ? どういうことだ?」
と訊ねる。
「これは本来のわしの大きさではない。実際の背丈は人間とほぼ同じと言ってよい」
「それはこの異空間に来て、背が縮んだってことか?」
原因があるとすれば、それくらいしか思い浮かばなかった。
どうやら、正解だったようで、彼女が手を叩く。
「そうじゃ。どうやらこの異空間、双方の世界の力の均衡がとれておるようで、実は半々ではない。主軸となるものが人間世界となっておる。そのため、わしは本来の力を持てず、このような姿となったわけじゃ」
「なるほど。そうだな、ずいぶんと可愛らしいぜ。でもよ、それでどうして元の世界に戻れないんだ?」
「そうじゃの、その原因の一つは今もいったように、均衡が崩れ、わしの力が微弱になっておること、それに、神の世界から流れ込んでくる存在の力の流れが原因なのじゃが……」
すると、彼女は神棚の社にある階段を上まで登ってみせる。
「分かり易く説明すると、その力の流れを川のようなものだと思って欲しい」
「川の、流れ」
「今、わしが立っておる場所が神の国だとする」
そして、彼女を階段を降りると、
「そして、ここがこの異空間じゃ」
と説明し、再び階段を上り、
「川、つまり水というものは高い場所から低い場所へ落ちてくる。このように、神の世界から、異空間に、流れに乗っての」
説明しながら階段を降りる。
「じゃが、反対に異空間から神の世界に行こうとすると……」
「なるほど! 流れに逆らう形になるわけか!」
春臣は飲み込めたと指を鳴らした。
「そうじゃ、無理に行こうとしても、その力の流れ自体に押し流されてしまうわけじゃ」
媛子は階段の手前で足踏みをしてみせる。
「一方、人間の世界の場合はこの異空間の主軸となっておるから、平地で繋がっておるようなものじゃ、自由に行き来できる」
「そうか、それでようやく全てが理解できたぜ」
「どうやら、ようやくこの状況を分かってもらえたようじゃの」
満足そうに彼女は言うと、神棚の端まで歩き、再び春臣の手に乗せてくれと頼んだ。
春臣はそれに応じ、元のちゃぶ台まで彼女を戻して、一呼吸。
目を瞑って情報の整理に取り掛かった。
彼女の話した内容の、その真偽についてである。
嘘か、真か。
だが、熟考して春臣が出した結果はどうやら、彼女の話したことは本当のようだというものだった。
どう見ても嘘をついているようにも思えないし、これほど手の込んだ嘘、そうそうつけるとも思えない。
それに話と状況が限りなく符合していることを考慮すると、彼女の話は疑いようが無かった。
しばらくして、結論を春臣は口にする。
「ってことは、媛子は、人間の世界にも行けず、神の世界にも戻れない、どっちつかずの狭間の空間に閉じ込められたってことか」
とても言い辛いが、これが導き出された真実だった。
媛子は、ここから出られない。
逃げられないし、逃げ道など端から、ない。
この、せいぜい七畳ほどの部屋にその身を縛られているのだ。
「う、うむ。そう、なるの。神の世界に戻る方法はない。わしはここを動けぬ」
そう認めた彼女の表情にもどうにか事実を否定したい感情を抑えているように見えた。
それが春臣には申し訳ない。
「俺、俺のせいか。俺がよく知りもせず、こんな神棚に祈ったりなんかしたから」
そもそも自分の行動がなければ、彼女はこんな場所に閉じ込められることもなかったのだ。
そこには間違いなく、春臣にもこの状況に陥った一端があることを示している。
そう、紛れも無く。
春臣は先ほどの杉下老人とのやり取りを思い出す。
神を信じるか?
イエス、とは思わなかった自分。
こんな事態が予測できるはずもないが、浮ついた気持ちで、誰に迷惑をかけるとも思わず、興味本位で礼拝したのも事実だ。
もしかすると、やはりその態度自体が自分の心の穢れだったのかもしれない。
自分のしたことに責任を負える、一人暮らしをして、そんな一人前の人間を目指すつもりが、出だしから他人に迷惑をかけている。
それも存在すら疑っていた、神、にだ。
「どう、謝ったらいいか……」
しかし、媛子の言葉がそれを遮った。
「いや、これはおぬしだけではない。わしにも、原因があるのじゃ」
「媛子にも?」
それがどういうことなのか媛子は語らなかったが、続けてこう言った。
「ああ、じゃから、そんなに責任を感じてくれるな。これは、不運が重なっただけのことなのじゃ。誰か一人に全ての責任があるわけではない。こうなってしまったことはな」
詮無いことじゃ、と彼女は悲しげにしゅんと俯くと、何も言わずに口を結んだ。
そのことにいたたまれなくなった春臣だったが、何が出来るわけでもなく、ただ、立ち尽くしている。
確かに、彼女の言うとおりこれは仕方の無いことだったのかもしれない。
春臣はその考えを肯定した。
その事実は変わらない。
だけど。
だとすれば、過ぎたことにくよくよするのは建設的な行動とは言えない。
彼女がこのままでは元の世界に戻れないと分かったなら、それはある意味、前進ではないか。
そうなれば、他の方法で元の世界に戻してやればいい。
そうだ、その通り。
それこそが自分の責任だ。
「よし!」
春臣は、そこまで考えて力強く膝を叩いた。
「なんじゃ?」
「そうだと分かったら、ともかく、これから媛子が元の世界に戻れる他の方法を見つけようぜ」
「他の方法?」
媛子は虚ろになった瞳で、春臣を仰ぎ見る。
「ああ、それがどのくらいかかるかは分からないけど、見つけるために精一杯の努力をする」
「……」
「それまでは窮屈かもしれないけど、ここにいればいいさ。それでも、いいか?」
すると、その提案に彼女は信じられないものを見たかのように、なぜか目を見開いた。
「ここにおってよいのか?」
その声はまるで許しを請うような、か細い声である。
「ああ、他に行くところなんてないんだろ。まさかと思うが、俺が追い出すとでも思ったのか? 外に出たら消えるんだろ?」
「……いや、なんというべきか。春臣にとって、わ、わしは厄介ではないか?」
身を縮ませて、所在無げに瞳を伏せた彼女は、自分がここにいることで春臣に迷惑をかけるのではないか、そのことを本気で不安に思っているらしかった。
先ほどまであんなに阿漕な態度だったくせに、打って変わってこの様子とはどういうことだろう。
しかし、こうして雨に濡れた儚げな花を思わせる仕草をされると、春臣もさすがに動揺した。
いくら彼女が自分より遥かに小さい少女であっても、知らず、鼓動が高鳴る。
そんな自分が恥ずかしくなり、春臣は俯いて彼女から視線を逸らすとぶっきらぼうに言った。
「そういう問題じゃねえだろ。こういうときは助けあわねえと。神様の世界じゃ知らないけどよ。人間ってのはそうするもんなんだよ」
「人間は、助け合う?」
すると、媛子は窮地を打開する大きなヒントを発見したかのように、不思議そうに呟いた。
「そう、そういうもんだよ」
「そうか、そういうものか」
その瞬間、彼女が立ち上がったのか、しゃりんと鈴が鳴る。
「ふふ、じゃあ春臣よ。その言葉に甘えて、少しの間、ぬしのところに厄介になろうかの」
「……ああ、了解だ」
今度はためらいなくそう頼んできた媛子に、春臣は二つ返事で引き受けた。
「よろしく頼むぞ。春臣」
「こちらこそ、な」
そして、互いに伸ばしあった手で彼らは握手をする。
媛子は片手で、春臣は指の先。
それは、あまりにも大小の不釣合いな握手だった。
もし、傍から垣間見ている人がいればどれほどこの二人が奇妙に映っただろう。
しかし、それは紛れもなく、春臣と媛子、二人が交わした一つの約束。
そして同時に、奇想天外な、神と人との共同生活の始まりでもあった。
作者のヒロユキです。
ようやく導入部(かな?)が終わりました。
ここから先は小話を書き連ねていく形式にしたいと思っています。
読んでもらっている方に説明をしなくてはいけないと思っていたのですが、今回の小説は以前に書いていたものと違い、特にここから先の話の内容を決めていません。
いくつか書こうと思っているエピソードはありますが、基本的にネタを思いついたら書くというスタイルで、気長にやっていこうと思っています。
まだまだ未熟者ですが、もしよろしければ読者の方にもそんな感じでお付き合いいただけたらと考えております。