85 家主のいぬ間に 3
先ほどまでこの神様の存在に圧倒され、自分の疑問などすっかりどこかに置き忘れていたのだが、今ならいろいろなことを聞いてみたいと思った。
木犀はお茶を一度飲んでから、彼女に話しかける。
「ええと、神様」
「なんじゃ?」
すると彼女は口の周りに羊かんをくっつけたままで振り向いた。木犀は思わずふきだしそうになる。その姿は神とは思えないほどに、何とも愛らしいものだった。
しかし、それを見てにやけてしまうのも、彼女にいけないと思い、笑みを堪えつつ訊ねた。
「その、神様はどうして、この家に?」
「うむ?」
彼女の小さな瞳が木犀をはたと凝視する。その後で、彼女の頭の中でたくさんのことが浮かんだのか、一瞬迷ってから、
「……いろいろと事情がある」
と感慨深そうに答えた。
「確か、先ほども簡単に話したはずじゃが……どうせ、お主はちっとも聞いておらんかったのじゃろう」
「め、面目ありません」
木犀は頭を掻いいた。
なにしろ、さっきはいきなり目の前に神様が現れたもんだから、それに驚いて話に集中などできるわけがなかったのだが。
「まあ、よい」
彼女は面倒くさそうにまた一口羊かんを食べると、口をもごもごと動かしながら話す。
「わしは、元々ここにおるべき存在ではなく、この世とは別世界から来た存在。それについては、なんとなくお主も理解しておるのではないか?」
「はあ、確かに、それが普通なんですよね」
木犀は頷いた。やはり、自分の認識は間違っていなかったようだ、と思う。本来神様とは人間を遠い場所から見守っているべきで、その辺にひょいひょい顔を出してくるわけがないのだ。
彼女は続けた。
「ここへ来てしまったのは、本当に不運な事故じゃ。最初は簡単に元の世界に戻れるかと思っておったが、事態は思うより深刻での。この小さな姿でこの家から外に出ることも出来ずに生活せねばならんかった」
「……へえ」
「きっとわし一人では、今までこの世に存在していることさえ危うかったじゃろうの」
そう話している神の表情に影が差す。そこからは彼女の様々な苦労の色が窺えた。木犀からすれば、彼女が話すような苦労など、想像することもできない。しかし、自身が馴染みのない別世界で本来の姿を失ったまま暮らすなど、並大抵の苦痛ではないはずだ。その場から逃げ出したくなってもおかしくはないだろう。
「しかしの、木犀よ」
と、神様は深刻そうな口調から、急に明るくなった。
「はい?」
「春臣じゃ。あやつには、ずいぶんと助けられた」
「はあ……」
「ここに来て、一人で何も出来ぬわしを見捨てることなく世話をしてくれたのじゃ。食べ物をあったし、眠る場所もくれた。わがままを言っても許してくれたし、なにより、わしのことを守ってくれた」
まるで、太陽の光に照らされた花のように、語っている彼女は生き生きとし、喜びを周りにふりまいているように見えた。それは彼女に宿る神本来の力強さを見ているようで、木犀ははっとする。
「あやつはの、自らの身を犠牲にしようとすらしてくれたこともあったのじゃ。それほど危険な場面に直面しながらも、あやつは、わしとの約束を守ろうとしていた。分かるか? こんな小さなわしのためにじゃぞ!」
そして今度はゆっくりと腰を落とし、座り込むと、そこで彼女はぼんやりとした目つきになる。
「春臣への感謝は、一言では尽きぬ。じゃから、わしは、春臣に出来る限り精一杯のことをしてやりたい。そう、精一杯の、恩返しじゃ。それがたとえ、多少危険が伴うことであれ、の。あやつは、優し過ぎるから、そんなことはいいと言うかもしれんが、わしは出来る限り春臣の傍にいて、力になれればと思う。心の底から、そう思う。わしは……じゃから……」
言葉にならないものが溢れてくるのか、そこで彼女は喉の奥に思いを押し込めるようにして俯いた。
「お主をここへ呼んだのも、全部わしの考えじゃぞ。巫女の娘に協力してもらって、お前をここへ呼んだ。家事をこなして、春臣を驚かせてやろうと思ったのじゃ。あやつはまさかわしがすべての事をやり遂げておるとは夢にも思うまい。家の様子を見て驚いた姿が今から目に浮かぶのう、くっくっく」
「……」
「じゃからお主よ。春臣が元気になっても、わしに頼まれて家事をしたなどとは言わんでくれ。わしが一人でやり遂げたのじゃと、どうしても見せ付けてやりたい。これは、わしからのお願いじゃ。よいか、くれぐれも頼むぞ」
「はいはい、分かりましたよ」
なるほどね。
木犀はそう答えながら、納得しつつ、とても不思議な気持ちを感じていた。
そして、その気持ちの正体は、きっとこの神様が話してくれた、榊春臣と彼女との奇妙な関係からきているだろう、となんとなく自覚していた。
この神様は、神でありながら、人間である榊春臣のことを同等の存在として扱っている。いや、それ以上に、自らの存在に欠かすことの出来ない重要なパートナーとすら、思っているのではないだろうか。まるで、恋人同士みたいだ。
と、彼女はそんなことを思っている木犀の視線に気づいたのか、はっと我に帰ったようで、恥ずかしそうに目線を逸らすと、
「そ、そうじゃ、お主からもらった菓子もあったの、食べるか?」
と聞いてきた。
「あ、はい……」
木犀は答える。
すっかり忘れていたことだったが、確かに何度かここへ菓子を持ってきていたのだ。
彼女が台所の戸棚を指差したので、木犀は立ち上がり、そこから大きな缶を持ってくる。中身はほとんど見覚えのあるお菓子である。
それをいくつか取り出して並べると、彼女は嬉しそうにはしゃいだ。
手当たり次第好きなものを口に入れ始める。こんなに食べて、この神様の胃袋はどうなっているのだろうか。全く何から何まで不思議な神様である。
しかし、それにしても……。
木犀は天井を見上げる。
「榊、ずっと眠ってるんですか?」
木犀は心配になり、訊ねる。
「う、うむ。安静しているのが一番じゃからの」
「そうですか……」
しかし、木犀はそこであることに気がついた。
「でも、神様なら……」
「うん? どうしたのじゃ?」
「いえ、すごい力を持った神様だったら、それくらい病気、小指の先で治せるんじゃ」
彼女が危ない目にあいつつ、ちょこちょこと家事などをするより、よっぽどその方が彼も喜ぶだろう。
が、言った途端に、彼女の表情に暗雲が立ち込めた。それはまるで、綺麗な水面に突然ぽっかりと穴が開き、全てを飲み込む闇が口を開いたかのような急激な変化だった。
木犀は、ぎょっとする。
もしかして、
もしかして、自分はとてつもなくまずいことを言ってしまったのではないだろうか。
「……わ、わしには……」
彼女は沈痛な面持ちで視線を落とし、震えた声で言う。
「わしには、出来ぬのじゃ」
その一言はとても重たく、心の奥にずしりと碇を落としたようだった。
「え?」
「わしには、それが出来ぬ……」
「どうして、です?」
「わしは……」
そう言いかけて、神様はそれっきり口を閉ざしてしまった。木犀の持ってきたクッキーに手を伸ばし、ぼりり、と頬張る。
ふわりと香るクッキーのおいしそうな甘い匂い。
しかし、彼女の表情は相変わらず悲しげで、無言でクッキーを食べている。
先ほどまでの元気が嘘のように思えた。
木犀は何かを言おうと口をあけたが、言うべきことが見当たらず、ただ、沈黙を埋めるようにクッキーを食べた。
ぼりり、ぼり……。
なぜ彼女が元気をなくしたのか、考えようとして、やめる。どうせ、彼女とのつながりが薄い自分には分からないことなのだろう。そう思ったのである。
神様にだって、一つや二つ、悩みがあるのだ。
そして、その悩みを解決できるのは、彼女のことをより知っている春臣に違いない。
だから、早く元気になるんだぞ。
木犀はどこかほろ苦いクッキーを噛み砕きながら、そう思った。