81 少年、影を宿す 2
「穢れの呪符、ですか?」
ゆずりが注いでくれた牛乳を飲み干しながら、春臣は聞き返した。いつもならば、朝に飲むそれは、気持ちを落ち着けてくれるものだが、数日前に自分の身に起こったトラブルを聞いている今は、その効果も半減しているようだった。喉の奥がまだどこか乾いている気がする。
「そう。穢れだよ穢れ。低濃度のものであれば、さほど人体に影響はないがね。その呪符のように高濃度なものだと、さすがにいつも通りの生活が送れるものじゃない」
彼女は言いながら、クロワッサンにハムとレタスをはさんだものをおいしそうに頬張っている。その様は見るからに緊張感が皆無だったが、春臣にしてみれば彼女の話は大問題だった。
「そんなものが、俺の体に……」
まるで体内を得体の知れない生き物が這い回っているようで、とても恐ろしい。首筋に嫌な汗が流れた。
「それは……具体的にどんなことが起こるんです?」
返答が怖かったが、とにかく聞いてみる。
「ああ、それは単純だよ」
すると、彼女はあっけらかんと答えた。
「穢れってのは目に見えないケモノみたいなものでね。いつも腹を空かせてて、他者の体に取り憑くと宿主の魂を根こそぎ喰うんだ。それで、喰われた魂の主は、心がなくなるわけだからね、生きながらにしての死を迎えることになる。周囲に対して何の反応もなく、自ら生きようという意志もなくなる。穢れに自分の内側を八つ裂きにされ続け、ただそこにいて、同時に、そこにいないような存在になる。誰かの後に引っ付いているだけの影みたいな感じかな、まあ、それだけだね」
それだけって……。
正直、春臣にしてみれば、失神ものだ。それは、要するに人間という入れ物だけが残ったただの物になるということではないだろうか?
「それって……とんでもない話じゃ」
「だね。そこまでいくと、もはや生きていない、死んでいると言ってもいいね」
と、レタスを歯で千切る。
「けれど、安心しな。それは呪符の仕掛けが正常に作動しているときの話しさ。心配しなくてもその機能は今、停止しているよ」
「停止?」
「そ、だから問題なし」
にやりと笑う彼女に春臣はぐたりと肩を下ろす。ということは、事は急を要する状況ではないらしい。
まあ、それもそうか。
媛子もゆずりも慌てていないところみれば、最初からそんなことは明白だったのだ。
すると、気持ちに余裕が出来たのか、春臣は次第に頭の中がすっきりし、明晰になった気がした。それから彼女がこれまでの経緯をさらに詳しく話してくれていたのだが、それでようやく事態の全貌が飲み込めた。
なるほど、とゆで卵にかぶりついていると、ゆずりが物珍しそうに春臣を見ていることに気がついた。どうしたのかと思っていると、彼女が口を開く。
「意外だなあ」
「何がですか?」
「きちんと話を信じてくれるんだなあって思ってさ。呪符だの穢れだのって、胡散臭い話だってのに」
それに対し春臣は、ちらりと媛子を見てから頷いた。
「まあ、不思議な話で驚くなんてのには慣れてますし、それを否定するとなると、これまでのことを全部否定しなくちゃいけませんから」
「へえ……ずいぶんと波乱万丈な人生を歩んでたんだねえ」
若いのに感心感心、と彼女は調子よく手を叩く。
「ふうん。でもごめんねえ、こんなことになるなんて、まさかまさかの想定外でさ」
春臣は違和感のある首もとの呪符を触りながら、ゆずりを見ている。そんな厄介な事態に巻き込まれるとは確かに想定外ではあるが、いまさらそれに文句を言ったところで、事態が好転するわけでもないだろう。
過ぎたことに不毛な口げんかをしたところで、一向に状況打開の策は見出せないのだ。さすがに春臣にもそれくらいは分かる。だからこそ、怒っていないことを示すために彼女に向かって軽く笑った。
「もういいですよ。どういった事情なのかは知らないですけど、向こうから仕掛けてきたことなんでしょう?」
「そうなんだよ。聞いてくれる? おっそろしい客でさ」
と、彼女が身を乗り出してくる。
「で、まあそれはさておき。この呪符のことですけど」
話がそれそうなことを察知して、春臣は話を戻した。
「現在は問題がないとして、具体的に呪符を剥がす方法はあるんですか?」
ああ、そのこと、とゆずり。
「もちろんさ。このお守りの専門家、時雨川ゆずりがいるんだから、大船に乗った積もりでいてよ」
自信満々に胸を叩く。
大船は大船でも泥舟じゃないだろうな。とは、春臣が胸中で思ったことだ。
丁寧に状況を説明し、自分たちにも協力的なところから見て、やはり悪い人間ではないようだが、いかんせん、やる気があるのかないのか判断に困るちゃらんぽらんな態度が、不安を煽るのだ。
「疑ってるかい?」
すると、彼女は春臣の胸中を看破したのかそう訊いてきた。
「ええ、少し」
「大丈夫大丈夫、安心しな。君の安全は保証するから。ただし、少しばかり時間がかかると思うけれどね」
と、そこで彼女は含みのあるような言い方をしたので、春臣は妙に思って彼女を向いた。見ると、媛子とゆずりが意味ありげに目配せをしている。春臣はそれを見逃さなかった。
「時間が?」
「事情があるんだよ」
少しの沈黙の後、春臣はためらいながら口を開く。
「……その事情とやらを話してもらえませんか? もしかして、俺に何か問題があるんじゃないんですか」
ゆずりがヒュー、と口笛を鳴らした。
「少年は勘が鋭いなあ。まあ、どちらにしても話すつもりだったし、説明するよ」
ゆずりが正座に座りなおす。春臣はただならぬ雰囲気を感じて、体を強張らせた。まるでガンを告知される直前の患者の気持ちだった。
「僕が、何なんです?」
すると、意外にも口を開いたのは、媛子だった。
「覚えておるか、春臣」
「何を?」
彼女の方に目を向ける。
「わしがこの世に来た夜のことじゃ」
春臣はすぐに脳内で記憶を呼び覚ます。数ヶ月前のことだ。自分が神棚に祈り、奇妙な感覚に陥り、意識を失ったあの夜のことである。
すべての始まりとなったあの印象的な出来事は、忘れようにも忘れられない。
「あ、ああ。もちろん。いろんな偶然が重なって、媛子がこっちに来たんだよな」
「うむ。じゃが実はその偶然に、もう一つ、お主に関することが含まれていたのじゃ」
彼女が眉間に皺を寄せ、真剣な顔つきなる。
「はい?」
「時雨川がお主を連れてここに戻るときに申していたことで、今回明白になったのじゃが……実は、お主の体は『特別な性質』があるらしい」
「特別な性質?」
初耳だ。
「重要そうだから、その時の話を彼女から聞いたんだけどさ」
すると、ゆずりが口元の周りのパンくずを払いながら言葉を挟んできた。
「少年はねえ、いわば、神の力のような、人智を超えた、目には見えない超自然的な力を引き寄せてしまうことがあるのさ」
「は?」
春臣は聞き返す。
唐突な話で、話の整理が間に合わなかった。
「つまーり、少年の中には先天的に力を引きつける磁石のようなものが内蔵されていて、どうやらそれがその時、この神の力を持つ夜叉媛ちゃんを呼び寄せてしまう原因になってたってことだよね」
春臣は絶句する。
いかにも簡単そうに彼女は言うが、それは大変なことではないだろうか。少なくとも春臣は自分が超能力を使えるなどと思ったことはない。
「い、いまいち実感がないんですが」
と、おどおどと訊ねると、
「そらあね。その力は少年、君が意識して使ってるわけじゃないから。きっと夜叉媛ちゃんの時は周囲の状況に呼応して、たまたま発動しちゃったんだろうね」
「無意識に、ってことですか」
こくん、と彼女は頷く。
「残念ながら」
「……」
しばらく春臣は再び言葉を失った。
久しぶりに拳の中に冷たい汗が滲んだのである。
あの日のことはもう整理をつけたつもりでいたが、さすがにあの上、自分に原因があったという事実は、それなりにショックだった。
しかし、今はそんなことでいちいち落ち込んでいるわけにもいかない。春臣には彼女の話がいまいち腑に落ちないことがある。
「ですが、そのことと、今回のことに何の関係が?」
この話の流れでいったい何が言いたいのか春臣にはよく分からない。
「いい質問だね」
彼女は指を鳴らす。
「実はね、君のその性質というのは、まことに厄介なことに両極の性質を持つんだ」
「両極?」
「そう、プラスとマイナス、S極とN極、光と影、水と油、月とすっぽん、蚊と蚊取り線香のように、この世には対極に位置するものがあるだろう?」
頷きながら、最後の辺りは少し違うだろとよっぽど突っ込んでやりたかったがそこは抑える。彼女は気がついていないのか、構わず続けた。
「それでね、それは神の力にも当然該当し、君はその対極に位置するものまで引き寄せてしまう力があるってことなんだ。それが何か分かるかい?」
「え、ええと……」
自分に聞いてきたということは、これまでの話にヒントがあるということだろうか。春臣は考える。
神の力と対極に位置するもの。つまり、神の力のように目に見えず、それでも周囲に影響を与える力と思えばいいのだろうか。
そして、そこまで考えて、はたと思い当たり、春臣は後頭部の呪符を思わず掴んだ。
「――!」
「分かったかい?」
お守り商人の目が怪しく光る。
「神のような神聖で汚されざる清浄な力と逆の力、くすみ澱んだ負のエネルギーである、『穢れ』さ」
「ということは、つまり――」
春臣は穢れの力もその体にひきつけてしまうということになる。
「そう、この呪符を剥がすことに一番抵抗しているのは、なによりも君自身、ということだよ」
そう言って時雨川ゆずりは唇を舌でぺろりと舐めた。