80 少年、影を宿す 1
どうも、お久しぶりです。ヒロユキです。
更新が遅くなり、申し訳ありませんでした。もっと早くしたかったのですが、ちょっとやむを得ない事情がありまして……。
今度からは出来るだけこんなことがないようにしたいと思います。
朝の訪れを感じ、春臣が目を開けると、そこにはいつもの自宅の天井があった。
外からは途切れない小雨の音が聞こえていて、窓のカーテンが、湿った空気と絡まるように僅かに揺れていた。
「なんだか、よく眠ったみたいだな」
と、あくびと背伸びをしながら、身体を起こす。どこか、寂しげな六月の朝である。
さて、今日の朝飯は何を作るか。
確か、昨日買ってきた食材がたっぷりあるはずだから、少し贅沢なものを食べられるはずだ。
そんなことを考えながら、かかっていた布団をどけ、立ち上がろうとして、そこで春臣は気がついた。
なぜか、体が上手く動かないのである。
「あれ?」
両手両足に軽い痺れを感じ、感覚が鈍くなっている。
神経が情報の伝達をサボっているように、動きが緩慢で、ぎこちない。
妙だ、と思った。
脳は十分すぎるほどに睡眠の名残を感じているが、それとは裏腹に、春臣の体力は大きく消耗しているようなのだ。
いったいどうしてこんな風に感じるのだろう。昨日はいつも通りに眠ったよな。
しかし、思い出そうとして、記憶のあるべき場所にそれがないことに春臣は気がつく。
何だ? 昨日はこの場所で眠った気がしない。
違う、俺は、どこか別の場所で――。
そこまで考え、春臣は全てを思い出した。
「お、俺は……」
脳裏に浮かんだのは、あの白い閃光。
そうだ。
自分は、あの林道で時雨川ゆずりから逃げようとして転んで、気を失って、そして、そして……。
春臣は頭を押さえる。
どうして、ここへ?
腑に落ちない。
最後の記憶が何らかの思い違いでなければ、その場合、春臣はあの林道で転んだままの格好で目覚めなければならないのではないだろうか。いや、あの時雨川ゆずりに捕まってしまって、見知らぬ場所で目覚めるという可能性もある。しかしいずれにせよ、こんな風に平穏無事に自宅で目が覚めるなどということはありえないのだ。これを不自然といわずに何と言うだろう。
と、
「春、臣……」
りんと鳴るような少女の声が聞こえた。
「え?」
「目が、目が覚めたのか?」
「媛子!」
目を向けると、枕のすぐ傍にいつもの神様少女の姿があった。彼女はどこかやつれたような青い顔をしていたが、その瞳は輝いていて、なぜか安堵しているようだった。
「よかった、きちんと目覚めたようじゃな」
「きちんと、って?」
いまいち分からない。
「そうじゃ。全く心配させおって、お主は二日間も眠っておったのだぞ」
「ふ、二日間だって!?」
その言葉に眠気が吹き飛んだ。
「うむ。覚えておるか? お主はあの林道で転んで気を失い、それ以来眠っておったのじゃ」
彼女の言葉をきっかけに記憶が再び鮮明に蘇る。
不気味に笑うゆずり。媛子の警告。双子の少年。土砂崩れ。
「やっぱり、そう、なのか」
それら全てを飲み込むように春臣は言う。
しかし、あのときから自分は二日間も眠っていたなどと、すぐに飲み込めるものではない。いったいあの時、自分の体に何が起こったというのだろう。それに、この体の不調の正体は何だ?
混乱したまま、額を押さえつつ、立ち上がろうとする。
と、媛子がそれを制した。
「まだ無理をするな。お主の体はまだ全快の状態ではないのじゃ」
「え?」
確かに、体が上手く動かない気がするが、
「もしかして俺、転んだ時に怪我でもしたのか?」
すると、媛子は不安そうに首を振った。
「いや、そうではない。そ、そうではなく……」
「何だよ」
と、そこでいきなり、バタン、と無遠慮にドアが開き、続けざまに元気な女性の声が聞こえた。
「起きたか? 榊少年」
振り返って、そのあまりにも意外な人物の出現に春臣は二の句が継げなくなる。掛け値なしに心臓が誤作動を起こすかと思ったほどだ。何を隠そう、あの蒼髪のお守り商人、時雨川ゆずりその人の姿が目の前にあったのである。春臣は瞠目し、声にならない声を出す。
彼女はというと、まるでここにいてさも当然のような顔で春臣を見下ろして立っていた。
「あ、あ、あんた」
そして春臣が指差すと、「イッエース!」と調子よく彼女は敬礼のようなポーズを取り、
「時雨川ゆずり、さんじょー! ってなわけさ」
とウインクをきめた。
「ど、どうしてあんたがここに!?」
「春臣、落ち着け。倒れたお主を手当てし、ここまで運んできてくれたのがあいつなのじゃ」
「え?」
言われて気がつく。確かに、倒れて意識を失っていた自分を、小さな媛子が背負ってここまで帰ってくるわけにはいかないだろう。彼女がそれをしてくれたというのなら納得がいくが、しかし――
「本当に?」
あのいかにも怪しげな雰囲気からは、春臣を助けてくれるなどとは、俄かには信じがたい話だ。
「……! っていうか」
さらに、あることを思い出す。
「そもそも媛子、お前姿を見せてて大丈夫なのか? 確かこいつはお前のことを狙ってたんじゃ?」
だが、彼女はそれをすぐに否定する。
「春臣、そうではない」
「はい?」
「あの時は説明してやらんかったが、こやつはあの時わしらに敵意があったわけではないのじゃ」
「そ、そうなのか?」
「ああ、わしの説明不足じゃった。済まぬ」
意外な話だった。しかし、媛子は嘘を言っているようには見えない。
それによく考えてみれば、彼女はあの時、ゆずりが敵であるとは一言も言っていないのだ。
だとすると、自分は大きな勘違いをしているのだろうか。
春臣の中に新たな考えが浮かんだ。
彼女は悪人ではない。だからこそ、媛子を傷つけることもなく、意識を失った自分を助けてくれたのだ。だとすれば、辻褄は合う。
だが、そうなると、自分は彼女に対してずいぶん失礼なことをしているのではないのか?
春臣は、あの小道でゆずりに怒鳴ったことを思い出す。
いきなりあんな風に敵意をむき出しにしてしまったのはまずかったかもしれない。これは一度謝るべきだろうか。ああ、きっとそれがいい。
そう思い、正面のゆずりを見て、春臣は口を開きかけて唖然とした。
彼女は口に食パンをくわえながら、両手には牛乳やソーセージ、りんごやかまぼこなど様々な食物を持っていたのだ。
「お、おい、それって!」
声を荒げる。
そう、それはどう考えても春臣が数日前に購入し、冷蔵庫に入れていたものだったのだ。
「ああ、お腹減ってたから、つい」
彼女は飄々と言う。その発言に、春臣の中で謝罪の気持ちは一瞬にして霧散した。
「知ってますか? それは犯罪です」
「固いこと言うなよお」
「一人暮らしの学生にとって、食物を強奪されることはすなわち死を意味する」
ただでさえ、一人分の生活費で媛子と暮らし、困窮しているのだ。勝手に家に上がりこんできた正体不明の人物に食い荒らされるだけの食料は無い。言語道断だ。
春臣はぎろりと彼女を睨んだ。しかし、彼女は全く意に介さないようで、畳の上に腰を据えると、人差し指を立てた。
「そんなことよりさあ、大事な話があんだけど」
「はい?」
「いやあ、少年の首元」
言われて気になり、右手で触れる。すると、そこに感じたのは紙の感触だった。
「なんだこりゃ?」
「気づいた? いやあ、ちょっとした事故でねえ」
食パンを頬張りつつ、彼女は話すと、媛子の怒りの声が飛んだ。
「ちょっとした事故どころの話ではない。きちんと春臣に説明してやるのじゃ!」
「あん? どういうことなんだ? これ、はがせないのか?」
訊くと、彼女はこほんと重々しく咳払いをした後で、食べ物を平らげつつも、説明を開始した。