8 神の世、人の世
そこで春臣は一度、間を置くように湯のみのお茶を飲み干し、気を取り直すと、媛子に質問した。
「それで、さっき羊かん食べながら話してたが、媛子はこの世界じゃなく、神様の世界からやってきたって話だったよな?」
媛子の頭がぴくりと反応してこちらを見る。
「そうじゃ、わしは神様じゃからな。神の国から来た」
「その神の国ってのは、簡単に人間の世界と行き来できるものなのか?」
春臣はちゃぶ台の上で右手の人差し指と中指を足に見立て、ひょこひょこと歩かせる。
すると、歩いてきた姫子がそれに立ちふさがるように両手を広げた。
「いや、それはそう簡単ともいえぬ。根本的に人間が住んでおる世界と我々が住んでいる世界は全くの別物になるからじゃ」
「別物、ねえ……」
「そもそもが次元の違う話なのじゃ、魚が陸の上で生活できぬように、人間も海の中では生活できぬじゃろう? 別の世界ではお互い存在することすらとても難しい」
春臣は海の中で溺れている自分を思い浮かべながら頷いた。
「なるほどね。けど、媛子はこの人間の世界にいるじゃないか」
「そうじゃ、それについては今から説明するが、我々には人間の世界にも来ることの出来る特別な状況というものがある」
「……それは何だ?」
「簡単じゃ。我々、神がこちらの世界で使う魂の容れ物があればいいのじゃ。例えばの、神社などの神聖な場所には、神体と呼ばれる神の魂が宿るものが存在する。それはいわゆる依り代と呼ばれ、神がこちらの世界に来る時の媒体となっておるのじゃ」
「ふうん、依り代か」
魂が宿るなどと言われても、途方もなく確かめようのないことだが、それを肯定しなければ話は先に進まないようなので、春臣はためらいながらも頷いた。
そのまま媛子は続ける。
「まあ、その神体に限らず、この世を作る森羅万象全てのものに神は乗り移ることが出来る。木、岩、山、川、花など、なんでもよい。ちなみに人間などの動物にも魂を宿らせることが可能じゃ」
「はあ……」
「つまり、こちらの世界での体となるものを手に入れて初めて、神は顕現し、この世界で人々に何らかの干渉をしたり、力を発揮出来るわけじゃな」
と媛子は自慢するように胸を張る。
「なるほど、そういうことか。じゃあ、質問だけど」
「なんじゃ?」
「それなら媛子はいったい何を依り代にこの世に顕現してるわけ?」
すると、彼女は生徒を褒める教師のように、よくぞ聞いたと嬉しそうに手を叩く。
「良い質問じゃ。それなのじゃが、そのことがわしがここに来てしまった理由にも関係しておる」
「うん?」
「実は、わしは今、何かを依り代にしてこの世界に顕現しているわけではないのじゃ」
そう言って姫子はタネも仕掛けもないと言い張るように、その場でくるりと身体を回転させてみせる。
「それはまたどういうことだ? 媛子が特異体質とか?」
春臣には彼女の言葉が何を示すのか、理解できず、質問する。
しかし、彼女は首を振り、
「いや、わしが特別なのではない。実はこの空間が特異なのじゃ」
と想定外のことを言った。
「この空間がだって?」
「そうじゃ。実はそんなことになっておる理由が、この部屋の中にはあるのじゃが、それが春臣には分かるか?」
その言葉で春臣はあることに気がつく。この場所にあって、神と関係し、空間に影響を与えているとすれば。
「神棚と関係してるのか!」
そう叫んで勢いよく後ろを振り返る。
「そうじゃ、それがこの空間に通常とは異なる影響を与えておる」
しかし、春臣には疑問が浮かぶ。
「で、でもさ、確か神棚って神社の小型の模型みたいなものなんだろ? さっきの理論を用いると、それでも神体っていう依り代が必要じゃないのか? 媛子が依り代なしに、こうして目に見える状態で顕現できている理由にはならない気がするけど」
「おお、またしても良い質問じゃな。確かに春臣の言うとおりじゃ」
媛子はちゃぶ台の上を春臣の方へ近づいてきた。
「ちょっとわしをあの神棚のところまで連れて行ってくれぬか。おそらくそれで謎が解けるじゃろう」
どうやら先ほどのように手のひらに乗せて連れて行けということらしい。春臣は了承して、再び手のひらを上に向け、彼女をそこに乗せてやる。
そして、背後の壁に吊ってある神棚の上で彼女を下ろした。
すると媛子はその神棚を品定めするように、ううむと唸りながら、見渡した。
そして、
「これは、想像以上のことのようじゃな」
と一言。
「は?」
「お主はいったいどういうつもりで神棚を設けておるのじゃ? いや、あまり知識がないところを考慮すると、これを設けたのは春臣のご家族か?」
「ああ、俺のじいちゃんだよ。ここで一人暮らしをしてる時からこれを祀っていたみたいだ」
「神を祀っておった、とな」
「ああ、媛子が見れば分かるだろ?」
「確かにそうじゃな。しかし、だとしたら、そのお主の祖父はずいぶんいい加減で、ずぼらな性格じゃの。まあ、いい意味では器が広いとでも言うべきか。じゃが、わしからしてみればこれは裏切り、安っぽい信仰心の切り売りといったところじゃな」
春臣には彼女の言っている意味が分からない。どうやら媛子が祖父と神棚のことでかなり腹を立てているのは分かるが、そうさせた原因がつかめない。
「どういうことだよ? こっちにはさっぱりだ」
と訊くと、媛子は腰に手を当て、
「神棚の裏にあるものはなんじゃ?」
と静かに訊ねた。
「裏?」
「社の裏に飾ってあるものじゃ。わしの勘では、それは他の宗教の物。わしでは触れることは出来ん、春臣が取ってくれ」
言われるがままに春臣は神棚の横に回りこみ、社の後ろに手を伸ばした。すると、彼女の指摘どおり、指先が何か、冷たい金属に触れる。
「あ?」
そっと指の間に挟んで取り出してみると、
「十字架?」
どうやら首から提げるためのアクセサリーのようだった。銀色の照りを返す飾りは、紛れもなく十字の形。
それにどういう意味があるのか、春臣でも判る。
「これって、キリスト教の?」
「そうか、やはり他の宗教の品物じゃったのか。もしやと思うが、お主がそこに置いたわけではあるまいな?」
「いや、俺はこんなもの知らないよ。最初から置いてあったみたいだ」
「まあ、それが誰の物であるかは置いておいて、要するにここには違う神々を象徴するもの同士が祀られていたというわけじゃ」
「それ、やっぱりまずいのか?」
春臣は悪い予感がして、ごくりと生唾を飲み込んだ。呆れた溜息と共に彼女は口を開く。
「そりゃそうじゃろ。こんなことはもってのほかじゃ。双方の神にとって失礼極まりない。そんなことをすれば神と神が互いに圧力を生んでしまうのは眼に見えとる。要するに、この空間に負荷が生じたわけじゃ」
「負荷?」
「それが原因で偶然にも空間が歪んでおったんじゃ」
空間が歪む。
すぐには鵜呑みにしがたい事実だったが、彼女がそこに存在している以上、事実の可能性は高かった。
「それから、春臣。おぬしにも問題があったようじゃ!」
くるりと回転した彼女にずばりと指を差され、春臣は度肝を抜かれる。問題があったと言われて、思い当たることがある。
自分の信仰心の薄さに何か問題があったのかもしれない。
神様などどうでもいい、そんな生半可な気持ちで祈ったからだろうか。
それが間違いだったのだろうか。
しかし、彼女が言ったのはそれとは違うことだった。
「穢れ、があったようじゃ」
聞きなれない言葉に春臣は首を捻る。
「穢れ?」
「穢れとは、おぬしの中に潜んでおる内面的な汚れのことじゃ。わしは春臣の中にそれが蓄積しておったのではないかと考えておるのじゃ」
「魂が汚れてるってことか?」
「まあ、そんなところじゃな」
「俺自身の魂が?」
春臣はなんだが不安になり、無意識に服の上から胸の辺りを掴む。まるで、媛子に自分の魂を見透かされている気がして鳥肌が立ったのである。
しかし、彼女は首を振った。
「いや、別に今お主の魂に問題がないところを見ると、ここが異空間となると同時に消えうせてしまったのかもしれん」
「……そうか」
問題はないと言われ、ほっと胸を撫で下ろす春臣。が、それもつかの間、自分にその穢れとやらがあったのには違いない。
「そうなると、祈る前までは俺の魂は汚れてたってことか?」
「いや、そうとも一概に言い切れん。一つは本当にお主自身に原因があって魂が汚れておったのか、もしくは、あれ《・・》か」
「あれ?」
「いや、どちらにしても今となってはどのような穢れであったか判断できんことじゃ。説明を続けるぞ」
媛子が何やら意味ありげにいったことが気になったが、その場は無視して彼女の先の説明に耳を傾けることにした。