78 仕組まれていた罠
「そこには、何がいるんだい?」
突然射抜かれるようにゆずりから指差され、春臣は絶句した。
視界の色がいきなり反転し、まともに息が吸えなくなるような錯覚を覚える。
まさか、
彼女には、
媛子のことがばれているのか?
咄嗟に、まだ自由に動く左手でポケットを庇った。
すると、彼女は春臣のそんな挙動を眺め、あざ笑うかのように言う。
「隠そうとしたって無駄だよ。時雨川には分かるんだ。人ならざる者の気配が、ね」
こうなるともう間違いない。彼女は媛子に気がついている。緊張が身体を走った。
すると、不敵な笑みを浮かべながら、じりじりと彼女が歩み寄ってきた。何をされるか分からない恐怖が指先から震えになる。
「――っと」
その瞬間、紐が解けたように春臣の体が自由になった。どうやら、金縛りの効果が切れたようだ。数歩後ずさった。
これは好機。
逃げるなら今だ。
しかし、そう思い、振り返りつつ背後に走ろうとしたときだった。
――ザリッ。
何か硬い物を踏み、春臣は足を滑らせた。
「え?」
ガクンと、体がバランスを失う。
首を向けた先、視界の端で捉えたのは、先ほどゆずりが放り投げた荷物から転がってきた、お守りらしき木の板だった。
春臣の足が見事その上に乗っかっている。
不覚だった。よりによってこんな場所に落ちていたとは。
「くっ」
そう考えているうちにも、ぐんぐんと地面が近づいている。
まずい、まずい、まずい。
ぐるぐると思考が回転するが、いまさら打開策などあるわけが無い。
と、
「春臣!」
声が響いた。
媛子が、叫んだのか? よく分からない。
しかし、耳元でその声が聞こえ、春臣の防衛本能がぎりぎりで作動した。
咄嗟に手を地面につけたのだ。
しかしその瞬間、
「――!」
妙な感覚に襲われた。
ぐっと肋骨を上から押さえ込まれ、両足が引っ張られたような、奇妙な感覚だ。
視界が青紫の中に覆われに、見たことのない文字が、浮かぶ。一つ、二つ、いや、幾百もの文字だ。
そして、
そして、
白い閃光の炸裂の後で、後頭部に焼け付くような痛みが走った。
「ああっ!!」
肺が押しつぶされるような感覚。
「少年!」
再びの叫び。これは、誰の声だ?
わから、な、い……。
確認することなく、春臣の意識は消滅する。
何が起こった。
時雨川ゆずりは混乱した。
目の前の少年が足を滑らし、仰向けに倒れた時のこと。
彼が身を守ろうと地面に手をついた瞬間、いきなり火花のようなものが飛び散り、
「バリッ!」
と何かが破れたような、奇妙な音が聞こえたのだ。
それは決して甲高いわけでもないのに、思わず耳を塞ぎたくなる、ガラスを引っかいた時のような寒気を感じさせる音だった。
これはどういうことだ?
ポケットの中身についてさらに追求しようとしていた言葉が、喉奥にことごとく引っ込んでしまう。
春臣はそのまま一言も発することなく、気絶してしまったのか、身動きもせず両手を投げ出し、倒れている。
一瞬、状況が分からず唖然と立ち尽くすが、すぐに我に戻り、ゆずりは春臣に駆け寄った。
「少年、おい、少年!」
ゆずりは片膝をつくと、頬を叩きながら春臣の上半身を抱き起こす。しかし、彼はすっかり気を失っているようで、首がぐたりと垂れた。
「くそ、一体何が」
予想外の事態に、ゆずりはすぐさま状況を確認する。
彼の傍に散らばっているのは、自分の荷物からばら撒かれた無数のお守りだ。
その中の何かに、少年の体が反応をしたのだろうか? いや、おかしい。
普通の人間が触れて、このように過剰な反応を引き起こすような危険なものを、ゆずりは持っていないはずだった。
すると、
「春臣!」
いきなり第三者の声が聞こえ、ゆずりは驚いて目を向ける。
すると、少年のポケットから何者かが顔を出していた。目にまず飛び込んできたのは、その鮮やかな緋色の髪色。
ゆずりははっとする。
小柄な少女が、もぞもぞとポケットから這い出し、春臣の顔をのぞきこんでいるのだ。
「あ、あんた」
声をかけると、彼女はびくりと身体を震わせ、苦々しげにゆずりを見上げると、
「わしは故あってこの男に世話になっておるもの、神の世から来た者じゃ」
と威嚇気味にそう言った。
「女、時雨川と言ったか? こう言えばお主には通じるじゃろう?」
「……神の世の……」
「ともかく、今は詳しい説明は後にする。春臣に何が起こったのじゃ?」
ゆずりは彼女の正体に興味を持ったが、彼女の言う通り、今はそんな場合ではない。
「……あ、ああ」
数度頷く。
「少年は特に外傷を受けたようには見えない。ただ気を失っただけだろう。しかし、今の閃光の正体は、おそらくだが、彼の体になんらかの異常な神的反応があったのだと思う」
「ふ、ふむ」
「状況的には、私のお守りに反応したと見るのが妥当だが、普通の人間が、そんなものに反応して気を失うとは思えない」
「となると、何じゃ?」
少女は明らかに焦っている様子で急かす。気を失っている少年のことが心配でならないのだろう。
「それを今調べてる……と」
「どうした?」
「こ、これは」
春臣の後頭部に目が留まった。
「嘘だろ、どうして、こんな」
「何じゃ?」
歪な黒い模様で縁取られた長方形の札が春臣の首にぴったりと張り付いていたのである。
「こいつは、古い呪符だ!」
「呪符、じゃと?」
少女が怪訝そうに眉をひそめる。ゆずりはすぐに頷いた。
呪符とは、悪鬼や悪魔といった邪悪な力から人々を守ったり、幸福、幸運を運んでくれる道具で、昔から人々の中で大切にされてきた物である。
そして、本来それは人間にとって害になるようなものではなく、心強い助けとなり得る重要なアイテムで、ゆずりが商売として扱っているお守り、護符もその仲間に属すると言えた。
しかし、今、ゆずりが目にしているこの呪符は少々性質が違った。
「……どうやら、こいつには特殊な仕掛けがしてあるな」
「仕掛け? う、何じゃ、このおぞましい気は」
小人の少女にもその正体が分かったようだ。
「これは……穢れか?」
「ああ、どうやらな」
ゆずりは不快な気持ちになり、眉間を押さえる。
「おそらくこの呪符にはあらかじめ、悪しき魂のようなものが封じられていた。それを他人が触ると、封印が解かれ、乗り移るように仕組まれていたみたいだな。しかし……どうしてこんなものが、こんな場所に」
「お前、本当に心当たりはないのか!」
少女は冷静さを失っているようで、語気を強めて追求してくる。ゆずりは力なく首を振った。
「あいにく時雨川は、こんな物騒なものは扱わない性質でね。こんな、まるで呪いを具現化したかのような、気持ちの悪いもの……」
嫌な予感がし、汗が額を伝う。
「でも、どこかで紛れ込んだのか?」
いや、そんな馬鹿なことが……。
しかしその途端、ゆずりはあることに思い当たり、顔色を失う。
「ま、さか」
「どうしたのじゃ!」
ゆずりの中で過去の記憶がフラッシュバックしていた。
数日前、穢れに憑かれた老人とのやり取りの中で交わされた会話、行動。あの老人が、去り際に、ゆずりのお守りに『触れた』こと。
そして、あの言葉。
『このわしに喧嘩を売ったこと、その内後悔することになるぞ』
なるほどな。
ゆずりには合点がいった。
この呪符を仕込んだのは……。
「あの、くそじじいか!」