76 神の力、再び
「いやー、助かったよ少年」
ご満悦の表情で、両方の頬をあめ玉で膨らませながら、その女性は金犀たちに礼を言った。
「こういう空腹の時は糖分を口に含むだけでも胃の腑が満たされるんだねえ」
「よかったら全部食べてもらっても構いませんよ。家には腐るほどあるんで」
弟の銀犀がポケットから残りの菓子を出しながら言った。ガムやら小さなスナック菓子やらが彼女に差しだされる。
「おお、本当に? じゃあ遠慮せずにもらっちゃおっかなあ」
すると、子供のように目を輝かせながら、彼女はそれを受け取って、次々と新たにお菓子の袋を開けていく。どうやら超がつくほど、彼女は空腹だったようだ。
春臣たちは、先ほどからこの女性が倒れていた場所で座り込み、食料を与えるという応急処置を施してきたのだが、言葉もろくに話せなかった先ほどより、かなり元気を取り戻してきたように見えた。
頃合いを見計らい、
「とりあえず、動けるようにはなりましたか?」
と春臣が訊く。
しかし、彼女はスナックをポリポリと齧りながら、
「ううん、もうちょっと待って。今エネルギー充填中だからさあ」
とじれったそうに言った。その様子はまるで駄々っ子のようで、半ば呆れる。
「……そうですか」
春臣は気を取り直し、質問する。
「もう一度確認しますが、お名前は時雨川さんでしたっけ?」
「うん。時雨川ゆずりだよ、少年」
「で、どうして倒れてたんでしたっけ?」
「ああ、それにはいろいろと事情があってね。まあ、早い話、お恥ずかしながらお財布が底をついちゃってさ」
彼女は笑えない話を笑いながら言う。
「にっちもさっちもいかなくなって、森の中においしそうなお肉でも落ちてないかなって、探してたら見事に――」
「行き倒れたってわけですね」
ため息交じりに春臣が続けた。
「そこを、たまたま通りかかった暮野少年たちが見つけたと」
「うん、そうみたいだね」
彼女が答えて、ちらりと春臣は隣の少年たちを見る。
瓜二つの双子、暮野金犀と銀犀だ。
先ほど見たとき、春臣は妙に見覚えのある子供だと思ったのだが、彼らが名前を名乗ったことで全て合点がいった。
暮野、つまり、春臣が以前関わりを持ったことのある、暮野木犀の弟たちである。彼らに確認すると、やはり、そうだということだった。先ほど、さつきと木犀の話をしたばかりだったので、春臣はこんな奇遇もあるものだと不思議に思っていた。
春臣は視線をゆずりに戻し、質問を続ける。
「じゃあ、家はどちらに?」
「家?」
「この町に住んでるんですか?」
「うんにゃ」
ゆずりは首を振った。
「というと?」
「この町には住んでないよ。今はたまたまこの町にビジネスで来てたんだよ」
そんな白装束で?
思わず言いたくなった。
春臣からすれば、彼女の出で立ちはどう見ても商談に望むための服装には思えない。
「どんなビジネスですか?」
「ああ、お守りだよ」
「お守り、を?」
「そう、それを全国津々浦々売り歩いてるんだよ」
なるほど、それならばその格好も頷けるが――
しかし、果たしてこのご時勢、そんな商売が儲かるのだろうか?
と、
そこまで思って、はっとした。
そもそも儲かっているなら、こんな道端で空腹に耐えかね、行き倒れるなどということはあるまい。この先の見えない不況の時代、彼女も苦労しているのだろう。
「ん? どうした、少年?」
すると、彼女は無言で向けられている春臣の視線を不思議に思ったのか、首を傾げる。
「あ、いえ、ちょっとそのお守りを見てみたいなあ、なんて思って」
「アハ、何だそういうこと。いいよ、三人とも命の恩人だしね。それくらいお安い御用さ」
彼女は快く了承し、背負っていたリュックを下ろすと、チャックを開け閉めし、ポケットをまさぐりはじめた。
しかし、
「あれ、確かここにいくつかサンプルを入れてたはずなんだけどなあ」
と、どうやら見つからないようだ。
「倒れた拍子にどこかに落としたのかな? もったいないことしたなあ」
「あのう」
「うん?」
そこで手を挙げたのは銀犀だった。
「それって、もしかして、あそこに見えるのがそれじゃないんですか?」
見ると、彼が指差した十メートルほど先の茂みに、小さな封筒が落ちている。
「おお、あれだよあれ、申し訳ないけど取ってきてくれない?」
「はい」
彼は素直に了解すると、茂みの方へ向かっていく。春臣はそれを目で追いながら、ふいにあることを思い出し、ゆずりの肩を叩く。
「あの、さっきからお聞きしたかったんですけど」
「何だい? 榊少年だったっけ?」
軽く頷き、
「時雨川さんは、日本人なんですか?」
と訊いた。
「ほほお、よく聞かれる質問だねえ」
「その髪って人工の物じゃないですよね」
「うん、そうだよ。本物の私の毛」
彼女は頭を揺すってはらはらと長い髪を散らす。すると、まるで宝石のように、青い線がきらめきながら宙になびいた。
「化学薬品も使ってないし、何もいじってないよ」
「まさか、生まれたときからそんな色を?」
「ふふふ、そんなまさかあ」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「え、じゃあいったい――」
さらに問いかけようとして、言葉が途中で止まる。
唐突に腹の底を震わすような地響きが、その場の全員に襲い掛かってきたのだ。
「なんだ!?」
弾かれたように春臣は背後を振り返った。
すると、細道の斜め上方、ここ数日間降り続いた雨で地盤が緩んでいたのか、斜面の一部の土砂が轟音と共に崩れ落ちているところだった。赤黒い土の流れが、木々も草も岩も問答無用に巻き込み、凄まじい振動を引き起こしながら、道へ突進してきている。
一見、それは春臣たちがいる場所に危険を及ぼさないように見えたが、
問題は前方の茂み、
「銀犀ぇ!」
彼がいる場所へその土砂が猛烈に迫っていることだ。
危ない!
春臣は咄嗟にそう思うが、体が動かない。金縛りにあっているわけでもないのに、足が踏み出すことをためらったのだ。
それは単に、向かってくる土砂に恐怖しているだけでない。本能的に、もはや、暮野銀犀への救助が手遅れであることを、体が察知していたためだった。
怒涛の勢いで迫り来る自然の奔流には、人間のような優しさも、容赦も、躊躇もない。ただひたすらに力が傾く方向へと駆け抜けていくだけ。
この距離では、銀犀を助けようと駆け出したところで、彼を救い出すことはおろか、その場にたどり着くことすら出来ないだろう。そのあまりに無謀な状況に、春臣の体は動けなかったのだ。
だがしかし、
放っておけば銀犀は間違いなく土砂に埋まり、押しつぶされてしまう。
そしてその先に待ち受ける結末は、誰もが目を覆う、最悪の事態。
でも、
どうする?
どうすればいい?
道の先で立ちすくみ、成す術もなく土砂崩れを見上げる少年を春臣の目が捉える。
目の前で起こっている現象の、おそらく半分も把握できていないであろう、その表情を。
でも、
もう、
すべてが、
遅すぎるのだ。
その刹那。
「ちっ、仕方ねえ」
と、
誰かが、ぼそりと言った。
隣で立ち上がった時雨川ゆずりだった。
彼女は、俊敏な動きでぱっと後ろ足を引き、背負っていた荷物を乱暴に背後に投げ飛ばすと、駆け出すのかと思いきや、懐から紙飛行機を取り出し、それに向かってこう叫んだ。
「さっと飛んでけ、カミ飛行機! ひゅんと風舞え、カマイタチ! リンと鳴らせよ、時の音! 蒼日鷲命よ聞こし召せ!」
そして、ぐっと振りかぶると、腕をしならせながら、手に持っている紙飛行機を思い切り前方へ投げた。
すると、それは目に留まらぬ速さで、さながら空から滑空する鷹のごとく、あっと言う間に銀犀の所まで飛び行くと、彼の周りで、くるりと一回転する。
途端に、何の前触れもなく強風がどっと吹きつけ、猛然と迫る土砂にもろにぶつかったように感じた。
そして次の瞬間に巻き起こる爆風と、粉塵。
春臣は思わず目を庇う。
あまりにもいろいろなことがその瞬間に発生したことで、目の前で起こっていることに正確に認識できていたのか、よく分からず、混乱していた。
が、物音が止み、ともかく、目を開ける。
そして、その目を瞠った。
土砂が、銀犀の目の前で、まるで凍り付いてしまったように、固まっていた。なぜかそこだけ、時が止まっていたのだ。
「え――」
言葉を失う。
「そ、んな」
どういうことなのか、全く検討がつかなかったが、とにかく、銀犀が逃げるチャンスが出来たようだ。
「少年! こっちへ走れ!」
そこで時雨川ゆずりが張りのある声で叫ぶ。
「早く!」
しかし、あまりのことに腰を抜かしたのか、彼は逃げるどころか、その場でへなへなと座り込んでしまう。
ゆずりの様子から、土砂崩れの勢いが止まっているのはほんの一時的な作用だと察知した春臣は駆け出そうとするが、その前に、
「くそ、あの馬鹿!」
そう毒づいて、兄の金犀が走り出していた。
うずくまっている彼に近寄り、手を取ると、ぐっと引いて立ち上がらせる。
「走れ!」
そして、強引にも彼を安全地帯まで引っ張ることに成功したとき、ピシリ、とガラスにヒビが入るような音が耳に響き、次の瞬間には、土砂が今しがた少年二人が居た場所を見事に飲み込んでいた。濛々《もうもう》と土ぼこりが舞い上がる。
正に、間一髪の出来事だった。
「……」
春臣は呼吸が止まったかと思った。走ってもいないのに、気づけば荒い呼吸になっている。
「た、助かった」
とへたり込む双子の少年を見て、春臣は自分の隣に目を向けようとし――
瞬間、凍りつく。
ひゅんと耳元を何かが掠めたかと思うと、先ほどの紙飛行機が、どこから舞い戻り、隣の女性の手に戻るところだったのだ。
そして、春臣の目が、彼女を捉え、そのまま凝視した。
これは、この感じは。
春臣の肌が感じているのは、彼女からのただならない超然たる気配。
今のは……間違いないな。
巫女の瀬戸さつきが以前、春臣に対して使った力と同種のモノ。
すなわち、神の力。
そう思ったとき、ふと、こちらを見たゆずりと目が合う。彼女は春臣を見て、怪しく微笑んだ。それはまるで、人間ではない異形の者の笑みのようで、春臣は額に脂汗が滲むのが分かった。
何者だ、この女性。