75 行き倒れ商人
ここは、春臣とさつきが別れた公園から、さほど遠くない森の中。太陽の光がきらめく町中とは違い、未だ渇ききっていない地面と、木々から漂う清涼な空気に満たされた静かな遊歩道である。
その道を行く二人の少年の姿があった。
「はあ……兄ちゃん、どこ行くのさ」
「あん? どこでもいいだろ銀犀。家に兄貴がいないんじゃ一緒に遊べねえし、だからって折角の休みに家でごろごろするのももったいないしな」
先頭を歩く少年、双子の兄の暮野金犀は暇で持て余している力を発散させるように、のしのしと身体を大きく動かし道を歩いている。その後ろをついていく弟の銀犀は、乗り気ではないのか、少し背中を丸め、とぼとぼとした足取りだ。
「でも、だからって、あてもなく道歩いてても都合よく面白いものなんてないって」
「馬鹿言え、それで家でぐうたらしてて面白いことがあるか? あのな、行動せずに何かを得られるなんて、甘っちょろいこと考えてるんじゃねえよ」
「別に、そんな――」
「ほら、誰かが歌ってたぞ、『幸せは歩いてこない、だから歩いてゆくんだ』って。面白いことだって同じようなもんだ。自分が欲し、行動することによって初めて発生しうることなんだよ」
それを聞きながら、双子の弟はポケットに入れていたあめ玉を口に放り込み、ため息をつく。
「……ふうん。じゃあお兄ちゃん、『幸せの青い鳥』って知ってる?」
「あん? なんだそりゃ?」
「……」
三白眼で金犀を見つめる銀犀。
「まあ、お兄ちゃんの言いたいことは分かったよ。でも、そうだとして、どうして僕まで一緒に行かないといけないわけさ」
すると、金犀は痛いところを指摘されたようで、一瞬口ごもった。
「……それは、あれだ、ほら。二人寄ればナントカの知恵って」
「それを言うなら三人寄れば文殊の知恵。言葉は間違ってるし、この場合、用法もいまいち合ってるとは思えないよ」
「ぐう……」
「無駄に歩くのも疲れたし、僕、もう帰るからね」
そう言った銀犀はぷいっときびすを返すと、金犀を一人置いて去っていこうとする。
しかし、さすがにこんな風に呆れられては兄の面子は保てないと、金犀は咄嗟に彼の手を掴んだ。
面倒くさそうに振り返る弟に両手を合わせて懇願する。
「もう少しだけだからさ。もうちょっとだけ」
「ええ! さっきもそう言われた気がするけど?」
「そんな気がするだけだ。大丈夫、もう少し行けば面白いことがある。保証する」
何を根拠に、と言いたげな銀犀。
「仕方ないな、あと少しだけだよ」
「ああ、分かってる。心配するな」
しかし、そこで一歩踏み出したとき、金犀の足が止まった。
「うん、どうしたの?」
「い、いや、それが……」
少年がゆっくり足元を指差す。
「こ、これ……」
「う、わ……」
二人の少年の表情が一気に青ざめる。
「わーーーー!!」
それと時を同じくして。
近くで悲鳴が上がったのを春臣は聞き逃さなかった。
「何だ?」
公園からの散歩道、たまには変わった道でも歩こうかと、森林浴がてら山にのんびり向かって歩いていた春臣と媛子だったが、その途中で出くわした、不自然な叫び声に表情を強張らせる。
「媛子、今の聞いたか?」
「ああ、子供の声のようじゃったが」
彼女が林の奥に向かう前方の曲がり角の先を指差す。
「向こうのほうじゃな」
春臣はどうすべきか周囲を確認しながら逡巡するが、自分以外に他の通行人がいない上、もしものことを考えれば無視するわけにもいかなかった。
「何かの事故かもしれない。様子を見に行ってみるか」
「うむ」
媛子が了解したのを見て、春臣はすぐさま走りだした。
角を曲がると、そこは右手の斜面の木々がしな垂れかかるような形で影を作り、少々薄暗くなった細道に出る。
道の先に、黒っぽい二つの影が見えた。小柄なそれから想像するに、どうやら子供のようだが(おそらく先ほどの悲鳴の主だろう)、それより目を引くのは、彼らの足元に横たわる、モノ。
春臣たちからの距離でははっきりと捉えることができないが、少なくとも春臣には、「人」に見えた。
倒れている、「人」だ。
「おーい!」
駆け寄りながら少年たちに春臣は声をかけた。
「何か、あったのか?」
すると、一人の少年がこちらに手を振り替えしてきた。どうやら小学生ほどの歳頃らしい。
「すいません、手を貸してください」
「人が、人が倒れてて……」
パニックになっているのか、二人とも声が上ずっている。
しかし、春臣もとても嫌な胸騒ぎを感じ、冷静ではなかった。
近づくにつれ、はっきりと人の形になる横たわったモノが、ドラマや映画で体験するような非現実的な冷たさを背筋に感じさせる。
最悪の事態を予感しながらも、少年たちの隣まで走り寄り、荷物を背負ったまま俯けに倒れている人物の姿を見て、
途端、息を呑んだ。
それは何も、その人物がすでに手遅れだったからではない。
「あ、青い髪……」
ぎょっとした。
おそらく女性であろうと思われるが、頭からかなり長く伸びた髪の色は、日本人の黒髪とは似ても似つかない、青。
その異質さに春臣は驚いたのである。
外国人か、と逡巡するが、いや、春臣はそんな髪の色をした外国人に出くわしたことはない。
普通ならかつらかそれに類似するものも考えるかもしれないが、そうとは思えない自然な髪質な上、倒れているのに、さほど乱れもない点からしても、その可能性は否定された。
と、その時、
「そ、蒼髪、じゃ……」
ポケットの中の媛子がおびえたように呟いたのを聞き逃さなかった。
「?」
何か知っているのか、と春臣は咄嗟に思うが、今はこの人物の安否を確認するほうが先だった。
「二人とも下がって」
少年たちを遠ざけると、春臣は腰を落とす。その人物の肩を軽く叩き、
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。
「……」
反応はない。
意識がないのだろうか。
だとすればまずい。こういうときの応急処置など春臣はまるで知らなかった。学校での勉強はこういう時に限って当てにならないものだ。
とはいえ、呼吸の確認しなくては。
春臣は女性の反対側の肩と腕を押さえると、手前に引っ張り、身体を反転させた。多少荷物がつぶされたが、今は構わない。
さらりと柔らかい髪がこぼれ、露わになったその人物の顔をのぞきこむ。
「……やっぱり女性か」
顔つきからは、大抵どこの地域の人間か推測できるが、その女性は間違いなくアジア人、いや、ほぼ日本人と断定してもいいほどの顔つきをしていた。
髪の色とその顔がそぐわないのが気に掛かるが……。それでも、かなりの美人である。
と、今はそんなことを確認している場合ではない。
邪魔な思考を脳の奥に押しやりつつ、春臣は口元に手をかざす。
「ん……?」
「どうですか?」
背後から少年の一人が聞いてきた。
「……なんとか息はあるみたいだ」
「ふう、良かった」
一先ずは安心ということだ。春臣は力が抜け、その場に尻餅をつく。
「とりあえず、この人の意識が戻るまで、安全な場所に移動させることが出来ればいいんだけど」
「じゃあ、一先ず救急車を呼んだほうがいいですよね」
春臣は頷く。
「ああ、携帯はあるか?」
「はい、お父さんたちがもしもの時に持っておけって渡してくれたのが。ここで役に立ってよかった」
二人の少年の片方が頷いた。
ポケットから携帯を取り出し、早速ボタンを押している。もう一人の方はというと、腰をかがめ、不思議そうに女性を眺めていた。
落ち着いてきた春臣は、彼らを交互に見て、ふうむ、と顎を撫でる。
先ほどはよく見ていなかったが、どうやら彼らは双子のようだった。しかし、普通ならそれで何の不思議もないことだが、春臣は妙な引っかかりを感じる。
その顔に、どこか見覚えがあるような気がするのだ。
さて、どこで出会ったのか。
「あのさ――」
と、
訊ねようとした瞬間。
グイッ。
春臣は何者かに手首をつかまれた。
「うわっ!」
驚いて振り向くと、手を掴んでいたのは、目の前で横たわっていた女性だった。
意識が戻ったのか?
「だ、大丈夫ですか?」
訊くと、彼女は春臣を見、僅かに顎を動かして、囁くような声で何かを言っている。
「……かが……った」
「え、何です?」
耳を近づける。
「お腹……減った」
そして、彼女がそう言い終えるか言い終わらないうちに、ぐう、と盛大に彼女の腹の虫が鳴いた。