71 内なる闇 1
ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。
鈴の音が聞こえている。
ちりん、ちりん、ちりん。
下駄の鼻緒についた鈴だ。
ちりん、ちりん、ちりん。
前日までの雨に濡れた地に、染み入るがごとく、
ちりん、ちりん、ちりん。
しっとりとした大気を揺らしつつ、
ちりん、ちりん、ちりん。
しずしずと、鳴っている。
ちりん、ちりん、ちりん。
その音が、やがて、
ちりりん……。
立ち止まる。
蒼髪を湿った風になびかせ、時雨川ゆずりは立派に構えられた門を見上げていた。
「ふへえ、ずいぶん豪華なお宅みたいだね」
感心の声を上げ、門の表札を確認する。
「すぎ、した、だよね。住所もこの辺りだし、きっと間違いはないっしょ」
そう一人ごちた後、周囲を見回し、軽く身なりを整える。これだけ豪奢な邸宅を構える人間が今回の客なのだ。失礼のないように振舞わなければ。
上手くいけば、お得意さんとなって、がっぽりと儲かるかもしれない。ふふふ。
そんな下心を持ちつつ、ゆずりは口元の黄な粉を払う。
実は、先ほど立ち寄った古い和菓子屋で、わらびもちをご馳走になったばかりだったのだ。
ゆずりは大した金額を財布の中に持ち合わせていなかったため、店内に入っても無駄遣いはすまいとショーケース眺めるだけに留めておいたのだが、そこで、店の気のいい婦人に声をかけられたのである。
『あんた、おかしな格好した娘さんだねえ。それに、その髪、染めてるのかい?』
彼女がそう聞いたのも無理はない。
ゆずりはただでさえ人の目を引く白装束を着ている上、加えて、この長い蒼髪である。日本広しと言えど、このような珍妙な出で立ちの人間はそうそういないだろう。
一般人からすれば注目するなという方が無理な話だ。
ゆずりは慣れた調子で、適当に修行の旅をしていると答えて、実は金がないと話した。
すると、彼女は気の毒そうな顔になり、
『なら、そこに座って食べてきなよ』
と言ってくれたのだ。迫り来る空腹に勝てるような堅固な意思を持ち合わせていないゆずりはその言葉に甘えてわらびもちをご馳走になったのである。
いやいや、そのもちのおいしかったこと。尋常じゃない。
ゆずりはそれはもう旨いものには目がないが、特にそのわらびもちはこれまで口にしてきた中でも文句なく三本の指に入るだろう。ああ、美味。すこぶる、美味。
と、いつまでもそんな甘い回想をしている場合ではない。ゆずりは気持ちを切り替える。
服装の最終チェックを終えると、
「ごめんくーださい」
門をくぐった。
通された部屋は、外観と同等に豪華な雰囲気の和室だった。ゆずりは荷物を下ろすと、落ち着きなくもじもじと正座をしていた。普段は家の中でゆっくりすることのないゆずりとしては、こうして他人の家にお邪魔することはいつまで経っても慣れない。まるで靴の中にゴミが入りこんだような不快な感じがあるのだ。
適当に鼻歌を歌って緊張をごまかす。
「ふう、はーやく来ないかなあ」
しかし、部屋で待つように言われて、早十分。この家に住むという依頼主は未だ姿を現さない。
先ほどわらびもちを食べたばかりだというのに、もう既におなかが減ってきたような気もする。
いったいいつまで待たせるつもりなのだろう。
退屈なゆずりはがさごそと背負っていたリュックの中を漁る。何か口に入れれそうなものはないかと探そうと思ったのだ。
しかし、すぐに異変に気がつき、手が止まった。
「あ!」
ぱっかりと真っ二つに割れたゆずり特製の木片のお守りを見つけたのだ。
これはどうしたことだ。
ゆずりは息を呑んで、しばらく放心した後、思考を働かせる。割れた断面をゆっくりと指でなぞった。真っ直ぐに綺麗に割れている点からして、移動中何かの拍子に、というわけではないようだ。
とすれば、どういうことだ?
他の可能性と言えば、あることにはあるが、だが、まさか……。
「……」
そのまま無言でゆずりはお守りを見つめていた。
「もしかして、危険なところに来ちゃったかな?」
ぽつりと言ったとき、ゆずりは全身の神経に電気が走ったような感じがした。
ひんやりとした汗が頬を伝う。
なんだ?
「お待たせしたな、申し訳ない」
聞こえてきたのは、老人の深みのある声だ。
「あ……」
慌てて振り返ると、そこにいたのはかなり高齢と思しき白髪の老人だった。貫禄のある袴姿で、ゆずりをじっと見つめたかと思うと、しばらくして入ってきた襖を閉めた。
ゆずりはただならぬ気配を感じ、目を合わせまいと、正座のまま軽く頭を下げる。
「し、時雨川ゆずりという者です。どうも。この度は私めのお守りをご所望頂き、あ、ありがとうございます」
思わず、声が上ずってしまった。
しかし、老人は気にした様子もなく目の前にあぐらをかいて座ったようである。
「うむ、遠路はるばるご苦労じゃったの」
「いえいえ、自分の店を持っていないもので、どこへでも飛んでいけるというのが一番の売りなんですよ」
ゆっくりと呼吸を整えながら、老人を見た。何か飲み込まれてしまうような恐怖があったが、どうやら気を張っていれば平気なようだ。
「それで、呼ばれればどこへでもお守りを売りに行くと?」
「はい、けったいな商売なんです」
ゆずりは媚びるように体勢を低く保ち、掌を揉む。
老人は僅かに口元の髭を動かし、言う。
「うむ、確かにのう。このご時勢に、自分の足を使って売り歩くとは、ずいぶんと酔狂な人間もおるものだとわしも聞いた時には驚いたものだ。だが、それで果たして生計が立つのかね?」
「えへえ、ま、そこそこですかね」
ゆずりはやはり掌をもみながら、頭を下げる。
実際のところは、かなり生活に困窮しているのだが、商売がうまくいっていないなどと答えると、相手に悪い印象を与えてしまいかねない。
だからこそ、謙遜しているような言い方でごまかす。
そして、タイミングを計り、ゆずりはじっと老人の顔を窺った。
先ほどのお守りが割れていた原因はどうやらこの老人からの何らかの影響があったものと推測される。
ゆずりの脳内では、商売の話を進めることはもちろん優先すべきことだったが、その前に、この老人が発する奇妙な気配の正体を見極めることも同等に、重要事項だった。
現段階でゆずりにはその原因に心当たりがあったが、断定するにはまだ時期尚早である。いったいこの人物がどのような人間なのか、もう少し話をしながら判断しなくては。
すると、老人が思い出したように手を叩く。
「おっと、済まぬな。客人に茶も出しておらんかったの。今すぐに持ってこさせよう。時雨川さん、和菓子は好きかね?」
「え、もらえるのですか?」
きょとんとしてゆずりは聞き返す。
「何、それくらいは客人に対する礼儀というものじゃろう?」
「はあ、でも、私は客人というわけでも……」
「構わぬ、遠慮することはない。もし、食事がまだならば、用意も出来るが?」
「え?」
「腹は満腹か?」
「い、いえ、頂きます!」
思わぬ申し出に、それまでの思考が吹き飛び、ゆずりは即答した。
そんなゆずりを見て、老人は目元に皺を寄せる。
「ほっほ、よほど腹が減っておると見える。食事をする暇もないほどに商売に精を出しとるということかい?」
「あ、ええと。その……へへ」
「まあよい。では早速だが、自慢の御守りとやらを見せてもらえるかな」
老人がゆずりの荷物に目をやる。
「はい。では、どのようなお守りをご所望で?」
「そうだな」
すると、彼は何かを考えるような顔をして、顎鬚をざわりと撫でた後、
「まあ、あるだけの商品を見せてくれないか?」
と言った。
「全て、で?」
「そう、全部出してくれ」
妙だ、と咄嗟にゆずりは思う。
なぜなら、大抵の客というものは、こんなお守りの買い方をしないからだ。
お守りにはそれぞれ違った効果があるため、本来であれば、自分が求めている効果にあった商品を求めるというのが通常である。店を起こす人間ならば商売繁盛の御守りだろうし、子供が受験ならば合格祈願という具合にだ。
しかし、では、全て見せろとはどういうことなのか。ゆずりにはいまいち老人の意図が掴めない。
どこか試されているような気配も感じる。
しかし、そこで渋って客の機嫌を損ねるのも不本意なので、荷物から商品を取り出した。
一般的なお守りを一通り並べた後で、ゆずりは自身特製のお守りを取り出す。
「ほう」
すると、老人が珍しそうな声を出した。
おそらく、このような形の御守りは見たことがなかったのだろう。
一見すれば、単なる木片だ。
このお守りはいつもゆずりが自分で作製している。神の力の宿った特殊な木から幹を削り取り、そこに直接文字を掘り込んであるのだ。そのため、神社などで目にするお守りとは一味違う。幹から削り取った木片はどれも形がいびつで、曲がっていたり、反り返っていたり、稲妻のような形をしているものもあったりと、一つとして同じものはない。
およそ、大昔のお守りはこんな感じであったのではないか、と思われるような代物だ。
「木片のお守りとは、これは見たことがないのう」
「はい、それは特別製で、私が特別な念を込めて作っておりますので」
ゆずりは自信を持って説明した。
客が興味を持ったということは、購入までは後もう一押しだろう。危険そうな人物とはいえ、自分の客には変わりない。ゆずりの中の商人の血が無条件で騒ぎだした。
「一先ずこれだけで、一般的な効果を持つものは一通りあります」
しかし、
「……そうか、一般的なものか」
なぜか、老人の目が悲しげに伏せられる。
「はい、そうですが」
何か気に入らなかったのだろうか。
「あの、いったいどのようなお守りをお求めで?」
「う、ううむ」
「場合によってはオーダーメイドも承りますが?」
すると、老人の瞳が怪しく光った。
「それは、わしの好みのお守りを作ってもらえるということか?」
「は、はい。ですから、ご要望があれば――」
「実はな、わしは普通のお守りには興味がないのだよ」
「は?」
ゆずりは老人の言葉に面食らった。いったいどういう意味だ?
「確かに、全国を旅しながらいろいろお守りを売り歩いている商売人とだけあって、この辺りでは見かけぬ珍しいお守りを扱っておられるようじゃが、一般的な効果を持つものだけでは他のお守りと同じじゃろう」
「いえ、効果は抜群です。それは保証しますが」
「わしが欲しておるのはそういうことではない。特別な効果のお守りはないのかな?」
「特別な効果のお守りですか?」
ゆずりは身構える。何か嫌な予感がしたのだ。
「た、例えば?」
「そうじゃの、ほんの思いつきじゃが……」
すると、宙に向けられていた老人の目が、ぎょろりと動き、ゆずりを見た。
「『神の力』を使役できるものとか」
途端、
何かが、空間を引き裂いて、ゆずりの背中に爪を立てたような気がした。
耳の辺りに、薄気味悪い生暖かい空気を感じて、全身が総毛立つ。
なるほどな、オーケイ。
怖気を押さえ込みながら、ゆずりは納得する。
やはり、予想は外れていなかった。
この違和感の正体は『穢れ』か。
はい、どうも。作者です。
今回はようやくゆずりさんが出てきました。
と、思ったら、ずいぶん久しぶりな人も出てます。読んでくれれば誰かは分かると思いますが、杉下老人です。実は約70話ぶりの登場なんですね。
話にはちょくちょく出てきているようですが、登場はまだ二回目。
そのため、ずいぶん控え室で待たされていたストレスのせいか、威圧感が半端じゃない。きっとゆずりが気圧されていたものの正体は、僕への殺気なんだと思う。たぶん。