70 涙と絆創膏
「おーい、媛子」
春臣は玄関に靴をいい加減に脱ぎ捨てると、そのまま騒々しく二階へと駆け上った。
普段の春臣であれば、媛子が既に眠っていることなどを考慮して、極力静かにするものだが、今日ばかりはその配慮はすっかり失念していた。
苦労して完成させたものを一刻も早く彼女に見せたいという一心で、遠慮もなくドアを開け放った。
「あれ?」
しかし、肝心の彼女の姿がそこにはなかった。
いつもならば、テレビの前で座布団に寝転がり、神様らしい威厳もない上、だらしなくよだれを垂らして眠っていたりするのだが、今日はその例ではないらしい。
春臣は他の可能性を模索する。
部屋の外か? いや、夜は一人で危ない部屋の外に出るとは思えない。
ではどうしたことか。
と、ふいに足元から失踪者の小さな呻き声が聞こえてきた。
「は、る、おみー!」
はっとして見下ろすと、彼女が服の一部を春臣の足に踏まれ、そこから抜け出そうとじたばたもがいている最中だった。
「媛子!」
寒気と共に一気に血の気が引き、慌てて春臣は彼女を両手でかかえ上げる。
「大丈夫か!」
「う、うむ。かろうじて、圧迫死は免れたようじゃ」
最悪の事態を思い浮かべ、急増していた心拍数が次第に落ち着きを取り戻していく。
「そうか、肝が冷えたよ」
部屋に入るときはやはり細心の注意が必要なようだ。
「それよりも、春臣。ずいぶんと慌てて家に入ってきたようじゃが、何かあったのか?」
眉を動かしつつ、媛子が訊ねる。
ああ、大事なことを忘れていたと、春臣は人差し指を立てた。
「実は、自信作を媛子に早く見てもらいたくてさ」
「自信作? それは、レポートが完成したということなのか?」
彼女は瞳を輝かせる。
「ならば、もうこれ以上、夜は出かけぬということか?」
「ええと、そうなんだが」
すると、彼女は興奮した様子で、春臣の手の中で両手を叩いた。
「真か!」
その様子に少々疑問を感じながらも、春臣は続きを話す。
「けど、レポートをやっていたわけじゃないんだ」
「へ?」
言葉を失った彼女を机の上に下ろすと、ポケットに入れていた例の物が入っている包みを取り出した。
「媛子を驚かせようと思ってさ、プレゼントを作ってたんだ」
「ぷれ、ぜんと?」
「これだよ、これ」
春臣は包みを解く。
そこから取り出したのは、ちょうど媛子に似合うように調節された、藤色の御守りだった。先端に紐がかけてあり、簡単に首に欠けれるようになっている。
唖然としている媛子を前に、春臣は早速、お手製の御守りを彼女にかけてやる。
「こ、これは」
「このお守りには榊の葉が入ってる。これがあれば、外に出るのも以前より簡単になるぞ。いちいち葉を装着する手間が省ける」
「こ、これを作ってくれておったのか……春臣」
「あ、ああ」
照れくささを目線を逸らして軽減させながら、春臣は言う。
「それにこの縫っておる絵柄は、もしや、緋桐の花……」
「そ、そうそう。緋桐乃夜叉媛の、緋桐だよ。名前と同じ花だし、媛子の綺麗な髪の色と同じ花だしな」
「綺麗な、髪」
すると、彼女ははっとして、自身の髪に視線を向けた。
「わしの、色、自慢の髪……」
どこか神妙な様子に春臣は少し不安になる。もしや、気に入らなかったのだろうか。
「何かおかしいか?」
「まさか、何を言うておる! わしのために、作ってくれたのじゃろう?」
「ああ、そうだぜ」
「では……」
彼女はなぜかそこで言いよどみ、一拍置いて、
「……わしのことを、『避けておった』のでは、ないのじゃな」
「はあ?」
何を唐突に。春臣は目を丸くする。
「どうして俺がそんなことを」
「……」
「あのな、するわけないだろ。理由もな、しに……」
呆れて返す春臣の言葉が、彼女を見て、失速し、立ち止まった。あまりのことに、視線が硬直していた。
なぜなら、
こちらを見上げている媛子の両目には、
今にも溢れんばかりの大粒の涙が光っていたのである。
「ど、どうした?」
「そ、それは、真か?」
頼りない声が震えている。
春臣には意味が分からない。
「おいおい、そもそも避ける理由がないって」
それが引き金になったのか、彼女がゆっくりと息を吸う。
そして、
「ああ、あああ」
崩れ落ちるように、
「あああああ」
泣き始めた。
「あああ、っく、ああああ」
「ひめこ……?」
「わしは、わしはぁ、っく、あああああ――」
まるで母親を見失った子供のように、彼女は、声を上げて泣いた。
時折聞こえる、悲痛な嗚咽。
泣きじゃくる彼女を前に、春臣は一瞬頭を殴られたような衝撃が走った。
何が起こってる?
どうして、彼女が泣いている?
俺は、大馬鹿者なのか?
また媛子を泣かせてしまったのか?
目を覚ませ。春臣は首を振った。
すぐに、彼女に対して配慮が必要と気づき、近くに水分をふき取る物がないのを確認して、服の袖を引っ張ると、それですっぽりと掌を覆い、彼女に向けた。
「ほら、とにかくこれで涙を拭いてくれ」
「は、はるおみ、わ、わしはぁ」
嗚咽交じりに話すために、ろくな言葉になっていない。
「いいから、喋らなくていいよ」
「う、うむ……」
すると、彼女はしゃくりあげながら、ようやくなんとか了解すると、春臣の服の袖で、涙で濡れた顔を拭く。じんわりと彼女の温かい涙が染みてきて、指先でそれを感じた。
春臣は、腕をそのままで、椅子に座る。そこで、ようやく答えを見出した。
簡単なことだった。
「俺が、最近椿の家に行っていたからか?」
彼女がぐしっ、と鼻をかんだ音がした。
「わしは……」
「うん、ゆっくり」
「うう……お主の言う通りじゃ、わしは、お主が、何も言わぬわしのことを嫌いになって、それで、この家に居たくなくて、椿の家に毎晩行って、おるのかと」
「……そうだったのか」
「わしは、お主に、っく、見捨てられておるのかもしれんと思い始めておった」
「そんなわけ――」
「ああ、そうじゃの」
言葉はすぐに彼女に遮られた。
「お主はわしのことをきちんと気遣ってくれておったし。でも、でももしも、そうじゃとしたらと思うと、怖かったのじゃ」
申し訳なくなり、春臣は肩を落とす。
「……そうか、ごめんな。俺が謝らないと」
「いや、よいのじゃ。わしの方にも問題があるし、お主は、結局わしのためにこのお守りを作ってくれておったのじゃろう?」
「ああ、予想以上に時間がかかっちまったけどな」
「そんなもの関係ない。むしろわしは、感謝せねばならん」
先ほどまでと打って変わって、優しい声で彼女は言う。
「え」
「春臣、ありがとう。わしは、とてもうれしい。これは大事にせねばな」
それは、一片の偽りのない、素直な感謝の言葉だ。
春臣はそれだけで満足だった。それまでの苦労も彼女が喜んでくれさえすれば、掃いて捨てるゴミくずに過ぎない。
何より彼女が、大事にしてくれる、と宣言してくれたのだ。当初の予定からすれば、文句なしの結果ではないだろうか。
すると、
「お、春臣、これは」
と、彼女が何かを発見する。
「へ?」
「怪我をしておるではないか!」
しまった、と春臣は思う。服の袖から覗いた指に絆創膏が貼ってあったのだ。
「これを縫うのに、怪我をしたのか?」
彼女の顔がみるみる真っ青になる。
「た、大したことじゃない。俺が不器用だっただけだ」
しかし、そう弁解するも空しく、既に悲しみのスイッチが入っている彼女は早くもしゃくりあげている。
「わ、わしの、ために」
「わああ、もう泣くなよ」
無茶を承知で言ったのだが、予想外にも、彼女の動きが止まった。
「……分かった、泣かぬ」
見ると、彼女は泣き出す寸前で、呼吸を止め、涙を抑えているのである。
「お主にこれ以上気を遣わせるのは、申し訳ない」
「……んなことねえよ」
しかし、春臣が首を振った後で、
「でも、その代わりに……」
媛子が言う。
「代わりに?」
「もう少し、このままでもよいか?」
なるほど、それが目的か。
幸せそうに指先にもたれかかる彼女のわがままを、まさか断われるはずもなく、
「了解」
と春臣は答えていた。