63 番外編 サイクルランデブー 2
「後ろ、乗れよ」
その提案に、さつきは目を丸くした。
「はい?」
「だぁから、自転車に乗っけてやるって」
彼はさらりと言ってのける。
いや、それは分かるのだが……。
「え、え、え、そんな」
あまりにも唐突な展開にさつきは見るも無様に、たじろいでしまう。
当たり前だ。それは誰が何と言おうと、自転車の二人乗りというやつだ。まごうことなき、純然たる、正真正銘の、二人乗りだ。
それが一般人にどう理解されているかは、この場合無視することにして、さつきの常識ではそれは特別な状況を表す。
つまり、恋仲となった男女が、一人乗りの自転車に同乗するという圧倒的不安定走行によって、転倒し擦りむいて怪我をするかもしれないという安いリスクのもと、一種の低次元なスリルを味わい、その上で互いの絆を深め、さらに、二人の関係を周囲の人々にこれでもかと見せ付ける赤面必至の行いであり……まあ、総じて、何の免疫もないさつきには、到底耐えられない至難、あるいは極難の行動なのである。
しかも、相手は昨日会ったばかりの少年ときた。
いくらなんでも、心の準備というものが必要だろう。最低、二三年ぐらい経ってから、頃合いを見計らうべきだ。断じて、そうだ。異論は認めない。
彼にはどうやら、さつきのような恥じらいというものがないらしい。
一方、木犀はそんなさつきの心情など一片も知る由もない。
「怖がらなくても大丈夫だよ。振り落としたりしないから」
「いえ、わ、わたしは」
ここは丁重にお断りをしなくては、と手刀を横に振るが、木犀は首を傾げる。
「動けないのか? それなら、背負ってやろうか?」
とさらに思いがけない提案をしてくる。
歳の近い異性に背負ってもらうなど、さつきの中では二人乗りよりもさらにハードルが高い。
「いえ、そうじゃなくて」
両手を振って拒否する。
「だったら?」
「ふ、二人乗りは、危ないですし」
苦し紛れに当たり前のことを言ってみる。
「なんだ。瀬戸さんって真面目なんだなあ」
彼は半笑いだ。
「大丈夫だよ。誰かに見つかっても注意されれば降りればいいし、俺が無理やりに乗せたって言うから。それに、事情を説明すれば、大抵の人は分かってくれるって」
「そ、そうですけど、あの……」
「まだ何かあるのか?」
「あ、あう……」
素直に二人乗りが恥ずかしいのだと言えたら、どんなにかいいだろう。
だが、初心なさつきの乙女心はそれを口にすることさえ、ためらっている。
二人乗りはさつきが思う以上に一般的なことなのかもしれない、そう思うと、自身の無知を晒すことになるのではないか、と恐れているのだ。
どうすべきか悩んでいると、彼は痺れを切らしたのか、
「問題ないな。ほら、手を取ってやるよ」
とさつきを引き上げてくれた。
「そら、早く。もう陽が暮れちまう」
もはや抗う術は残されていないようだった。この期に及んで、大した理由も言えず、ああだこうだとごねていては、彼にもさすがに妙な奴だと思われてしまうだろう。
それも、できれば避けたい状況だった。
「は、はい」
さつきは返事をしながら、必死に脳内で自分の選択を正当化する。
これは仕方のない不可避の成り行きだったのだ。
正確には病気でないとはいえ、今のさつきは一般人の目からすれば、おそらく病人の顔つきなのだろう。自分では確認することは出来ないが、少なくとも、彼はそう思っている。
だからこそ、彼としては常識から考えて、病人をこのような人気のない場所に放置しておくことは、断じて許されるべきことではないと考えているに違いない。さつきもその考えには当然同意する。仮に彼と反対の立場でもそうだっただろう。
故に、彼は自分を助けるために、止むを得ず、さつきを自転車に乗せるのである。
これは列記とした病人の保護であり、何ら社会的に不自然なことではない。
当然の、成り行きである。
それに、そもそも、さつきは出会ったばかりの彼に好意を抱いているわけではないし、木犀においてもそれは同様と言えよう。つまるところ、この状況で、自転車の荷台にさつきを乗せることには、救出以外の意味など、生じ得ない。
だから、これは断じて、そういうアレではない。そう、断じてそういうわけではないのである。
ここまで考えて、さつきはすっと息を吸い込み、荷台の部分に腰をかける。ギシ、と自転車が軋んだ。
「あっ」
と、声を上げる。
荷台に乗ることが、これほどまでに不安定な乗り心地なのかとさつきは驚いたのである。
そうか、背もたれがない。
さつきは進行方向に対して垂直、つまり横を向いて座っているわけで、従って、背後に何も支えとなるものがないのだ。
周囲を見回しても、自転車にはそれほど掴まる部分などはないし、となると……。
「しっかり掴まって」
すると、僅かに振り返りつつ、木犀が言う。
「え?」
「俺に掴まってないと、さすがに落っこちるぜ。ま、瀬戸さんが一輪車に乗ったまま綱渡りできるくらいに、バランス感覚に自信があるって言うなら、話は別だが」
「む、無理です」
無論、さつきは曲芸師ではない。
だが、それは必然的に、木犀の腰に手を回さなければならない、ということだ。ごくりと唾の飲み込む。
「じゃ、じゃあ失礼して」
「いちいちそんなこと言わなくても。瀬戸さんは大げさだな」
彼は無神経にも笑う。
こっちは初めての体験で、緊張しているというのに。
しかしながら、ゆっくりと彼の体に手を回し、手が解けないように、ぎゅっと結ぶ。
これである程度の安定性は確保されたとみていいだろう。
「家は、千両神社の近く?」
木犀が訊く。
「ええ、森の入り口を通り過ぎた辺りです」
「そうか。大方の位置は把握した。じゃ、出発」
彼がゆっくりとペダルを踏み込む。
ふわりと、体が宙に浮かんだ感覚がして、ゆっくりと自転車がスピードを上げる。
そっと、体が風に馴染む、感覚。
車輪から伝わる、振動の波。
危うくて、怖くて、つい、まわしている腕に力を入れる。
と、さつきの頬が、木犀の背中に触れた。
当たり前だけれど、人のぬくもりがあった。それを感じて、さつきはほっと安心するが、もっとドキドキするものだと予想していた分、これは意外だった。
なんというか、ぬくもりに守られているというか、とても心強い気がした。
振り返れば、先ほどまでいた橋はいまや遠い闇の向こうに溶けている。
彼に会っていなければ、今でも自分はあの寂しい場所にたった一人、座り込んでいたのかと思うと、なぜか今さらながら、さつきはぞっとした。身震いすらしてしまうのである。
彼に、感謝をしなければいけないな。
背中に寄りかかりながら、そう思った。