61 本当の気持ち
靴を履き、玄関端に出ると、ひんやりとした夜気が頬に触れた。
いつの間にか夜か、と思う反面。
ようやく夜か、と待ちくたびれた気持ちの方が強いことに春臣は気がついた。
今日一日、特にこの二、三時間の出来事が、春臣にはまるで半日分の出来事にも思えていたのである。
未知なる神の力との戦いは、表面では隠しているものの、生身の人間である春臣に相当な緊張をもたらし、それが今は体内に溶けて、どろどろとした疲労物質と化していた。肩が重いこと、この上ない。
さらに、もうすぐ提出期限が迫っているレポートのことを思い、気持ちが塞ぐ。
さつきは春臣の家から数歩歩いた草むらで立ち止まった。くるりと身体を反転させる。
「見送り、ここまででいいです」
「ああ、分かった」
あの後、春臣と媛子の口げんかの後だが、話し合いに今日はこれ以上の進展は見込めないとして、春臣たちはこれからに向けた会議を一度打ち切ることになったのだ。それからしばらくの間、適当にくつろいだ後、時間も時間だということで、さつきを家に帰そう、という運びとなったわけである。
春臣は別れの意味で、軽く手を上げた。
しかし、何はともあれ、この少女からの誤解が解けて本当に良かったと思う。もしも、春臣の計画が失敗し、こんな計り知れない力を持った巫女を敵に回したままだったら、と思うと寒気がした。
結果的には媛子の存在を知る人間をまた増やしてしまったわけだが、まあ、その程度で終われたのだから、上出来としておくべきだ。
すると、さつきがまたぺこりと頭を下げる。
「あの、重ねてお詫び申し上げます。本当に、申し訳ありませんでした」
何かと思えば、またしても謝罪だった。
「なんだよ。もういいからさ」
ここで先ほどの続きをされても困る。
「青山に言われたんだろ。誰にでも失敗はあるって。だから、もういいんだよ」
「……確かに、言われました」
春臣は空を仰いぎながら話す。
「巫女だろうが、老人だろうが、小学生だろうが、弁護士だろうが、福沢諭吉だろうが、マザーテレサだろうが、みんなそうなんだよ。生きている以上、誰だって過ちを犯す。だろ?」
「は、はい。そうですね」
「それに神様だって、例外とは言えないしな」
「え?」
彼女の瞳が驚きに瞬いた。
「だって、あの媛子だって、しょっちゅう失敗してるぜ。この前なんて、急にわしは間違っておった、とか言い出して、部屋を掃除し始めたりしたし」
「は、はあ」
「土地神様……千両様だって、完璧ってわけじゃないんだろう?」
自身が仕える神に話が及ぶとは思っていなかったのか、一瞬きょとんとするが、彼女はしばらくして微笑した。
「そうですね。ふふふ」
どうやら思い当たる節があったらしい。
近くに神様がいると、お互い苦労しますね、とは、春臣が心中で呟いた言葉。
「でさ、そんな神様を、媛子を見てるとさ、思うんだよ。失敗して後悔したり、悲しくてしょげてたり、楽しくてはしゃいでたり、してるとさ」
さつきが首を傾げる。
「何をです?」
「神様も先の分からない未来を、必死に生きてるんだなって」
春臣の中で、媛子との思い出が、くるくると思い出される。
テレビを見て、飛び跳ねていた彼女。
部屋を掃除し、褒めてくれとねだった彼女。
春臣のことを優しいと言った彼女。
春臣をポカポカ殴り、涙を袖で拭っていた彼女。
しかしそれは、春臣の中のもともとの認識、神が全知全能、ありとあらゆる者を超越した絶対の存在なら、あんな風に人間らしい姿を見せたりはしないだろう。
そう、この世のすべてを熟知し、これから発生するすべての事態を計算できれば、神に、『感情の表出』はほぼないに違いない。
だって、全て分かっていることなのだから。
全て、見えているのだから。
何事にも無関心で、何事にも、無感動。
ベルトコンベアーに乗って流れゆく現実をただ、眺めているだけ。
それは、生気のない、人形のような、神様だ。
でも、実際は違う。
媛子には豊かな感情表現があるのだ。
泣いたり、怒ったり、笑ったり、驚いたり、安心したり、不安になったり、優しかったり……。
ちょっと偉そうなときもあるけれど、春臣はそれが、人間らしいと思う。
だから。
だから、神様も、人間も、必死に生きてると思う。
故に、春臣は彼女の世話を焼きたくなるのかもしれない。
それを話した後で、
「ちょっとわがままなのは面倒だがな」
春臣は鼻を掻きながらへへ、と笑う。
「……」
すると、春臣の顔を呆然と見つめているさつきに気がついた。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「い、いえ。榊さんの話、よく分かりました。本当にありがとうございます。それでは、また」
意外にもあっさりと首を振り、一礼した彼女は手を振る。春臣も振り返した。
「ああ、それじゃ。また今度神社にも行くと思うから」
それだけ告げて、きびすを返す。
玄関を開けかけて振り返ると、まださつきがいた。
彼女はまだ数歩先の夕闇の中に佇んだままだったのだ。家路を急ぐ様子もなく、固まったように動かない。そして、あろうことか、その両目はまだ春臣を捉えていた。
「……どうした?」
引き返して訊ねると、彼女はすいません、と頭を下げる。
「一つだけ、聞きたいことが」
やっぱりか。
「謝らなくてもいいけど。何?」
「榊さんは、その、緋桐乃夜叉媛様をどう思ってらっしゃるんですか?」
思わぬ質問に、疑問符が浮かぶ。
「どうって?」
「……ストレートには申しあげにくいんですが」
小動物のように、もごもごと中途半端に口を動かしながら彼女は言う。
そんなに恥ずかしいことなのだろうか。春臣には何のことだが、皆目検討がつかない。
「何だよ?」
「……あ、あの方のことを、好いているのか、ということです」
虚を衝かれた。
「は?」
開いた口が塞がらない。
「……俺が、媛子、を?」
言いながら、頬がじわじわ温かくなるのが分かる。
「はい」
春臣は急に怖くなった。自分の普段の態度に、媛子を意識しているような、そんな特別な種類の振る舞いが含まれていただろうかと、脳内がパニックになったのである。
「ど、どう、どうして、そんなことを?」
くそ、呂律が回らない。
「あの、今日お二方のやり取りを見させていただきまして、その、どこか、様子が小説で読んだような気がしまして」
「小説?」
しょうせつ? ノベル?
いや、英語に訳してどうする!
「私、今まで人を好きになって、恋をして、告白もしたことないんですけど、なんだか、直感したんです」
「俺が……媛子を好きだって?」
「はい、おそらく……夜叉媛様の方も」
そして、ダブルパンチ、だった。
目の焦点が合わない。はっきりさつきを捉えられない。唾を飲み込むと、喉が妙な音を立てた。
「媛子、も……」
これには、もはや、絶句しかなかった。
この少女は全く、最後の最後まで、予想外なことをしてくれる。
しかし、重要なのは事実確認だ。
その考えが、かろうじて春臣を正常に保つ。
「本当にか? ほんとに、そう見えたか?」
「え、ええ。私にはそう見えました」
春臣に肩を揺すぶられながらも、即座に首肯するさつき。そして、続けて興味深い見解を彼女は述べた。
「私の勝手な考えですけど、もしかして、あの方が千両様に会いたがらないのは、そこで戻る目処がついて、榊さんと離れ離れになるのが、嫌なのでは?」
「え?」
ガクン、と春臣の視界がぶれた気がした。
そうか。そうなのか。
肩が小刻みに震えているのが分かる。
どうして、今までその可能性に思いあたらなかったのだろう。
彼女は、自分と一緒にいたかった。ただ、それだけ。
だから、神社に向かいたくなかった。行けば、神の世界に戻れる可能性が高いことを、『知っていた』から。
そうなれば、無条件で、自分とは『別れる』ことになるから。
だって、春臣は彼女を神の世に戻すと『約束』したのだから。事あるごとに、それを口にしていたのだから。
いや、口にしてしまっていた。馬鹿みたいに。何度も。なんども。
だから彼女は、それを素直に『撤回したい』と言えなかったのだ。
春臣は呆然とする。
本当に単純で、明快で、容易に想像がつくことだった。
「こんなこと、だったのか?」
そんなことも知らず、自分は、彼女を問い詰めて……。
「榊さん、だとしたら、今日の言葉も」
さらに彼女は説明を重ねる。
「今日の、言葉?」
「榊さんのそばにいたい、っていう言葉ですよ」
彼女が先ほど、泣きながら零した言葉だ。
「――!」
まるで、答え合わせをしているような鮮やかさで、春臣の脳内でピースが嵌っていく。
「そう、か」
「だから、夜叉媛様は、本当に榊さんのことを……」
その先を、彼女は口にはしなかった。
答えは自分で出せという巫女からの粋な計らいなのか、単に、その先を口にすることが恥ずかしかっただけだったのか。
それはそれでどちらでもよかったが、彼女の言ったこと全てが事実だとすれば、劇的に状況が変わると思った。
何も言えないでいる春臣に、さつきはお辞儀をする。
「あの、それでは……これで」
「あ、ああ、またな」
彼女の姿が闇に消えていく。
見送った春臣の手は、すぐに垂れていた。
彼女を単に神の世に帰せばいい。
安全な居場所に返せばいい。
それだけのはずの目的が春臣の中で瓦解し始めているのに気がついた。
彼女が、自分と離れたがらないのであれば、その目的をどうするのか、考えなくてはならないだろう。
目的の見直しだ。
そう、目的の、見直し。
このまま、彼女の気持ちを尊重し、この家に、住まわせる、のか……?
そうなると、いろいろと問題も生じてくるだろう。
魂が抜けるように、春臣の体から気力が消滅する。当たり前だ、それは今まで向かってきた方向とまるで逆のことなのである。
今これ以上、考えても、今はきっと結論など、出せないだろう。
夕食を食って、風呂に入って、今日は早めに寝よう。分からないことがあるときは、すぐに眠るのが一番だ。
春臣は自分に言い聞かせる。
ともかく、このまま、彼女を神の世に帰すのは、まずい。
鉛のようなため息をついた。
「ったく、とんでもない置き土産をくれたな、あの巫女さんは」
一難去ってまた一難とはよく言ったものだ。
そして。
もう一つ。
「……俺は、あいつが、あいつが……好き、なのか」
言葉にすることで、春臣の中のもやもやが少しずつ、その形を現していくようだった。
まだ、本当の気持ちは分からない。
けれど、本当の気持ちは、春臣が見出すべきなのだ。
「見つけなくちゃな」
妙に温かい風が、春臣の頬を撫でていった。
どうも、ヒロユキです。今回でようやく長かった『瀬戸さつき編』も終了です(これは軽く長編並みでは? マジで疲れた)。
このお話しでは当初さつきの視点を織り交ぜながら、彼女なりの巫女という存在と、彼女が見た春臣と夜叉媛、というものを念頭に置いて描いてみようと考えていました。
結果的にどういう感じに仕上がったのか作者としては実感し辛いですが、読者の方からここまでの感想を聞かせてもらえるとうれしいです。よろしくお願いします。
さて、ここから先はまた新しい物語ということになります。作者としては、目下、またしても新しいキャラクターを作ろうと計画中でございます。予定ですが、この先からは一つの大きなクライマックスに向けての準備の話になろうかと思います。
とりあえず、次の話は久しぶりに番外編ということになるかと。