60 一難去りて 2
今度はこっちか。
傍によると、考えごとをしているらしい媛子は何かを呟いた。
「……土地神、か」
それは小さな声だったが、春臣は聞き漏らさない。
「千両様のことか?」
訊ねると彼女は大いに驚き、俯かせていた顔をビクリと上げる。
「あ、ああ……そうじゃ」
どうやら自分が話しかけたことで我に帰ったらしい。それほど集中して思考に没頭していたのだろう。
だが、幸運なことに、様子を見ると、彼女はもう春臣のことを怒っていないようだった。問いかけに素直に頷いてくれる辺り、不満な感情は水に流してくれたと見ていいだろう。
「羊かん、早く食べとけよ」
「そうじゃの。埃をかぶってしまっては風味が落ちる」
彼女は皿にすっと手を伸ばした。
「それで、やっぱり、気になるのか?」
おいしそうに媛子が羊かんを食べ始めたのを見て、頃合いを見計らい、春臣はさりげなく訊いた。
「な、なんじゃ?」
彼女の手が止まる。
「今言ってたろ。土地神がどうのって」
「……ああ」
「それで?」
「やはり、土地神くらいの力を持っておれば、わしの存在にも気付いてしまうものかと思ってな」
「……それってすごいことなのか?」
春臣は身を乗り出す。土地神の力の程度については、気になっていたことなのだ。
「そりゃあの。少なくともわしの数百倍の力は持っておる。それくらいでなければ、土地神に選ばれることはない」
「やっぱり」
「何がじゃ?」
不審げな媛子には返事をせず、春臣は背後の少女を振り返った。
「瀬戸さん」
彼女は椿ともう仲良くなったのか、謝罪していた真剣さも失せ、無邪気に二人で笑いあっていた。女の子同士繋がるものがあったのだろう、とそんな感想を頭の中に浮かべつつ、
「ちょっといいかな?」
と問いかける。
「はい?」
「その、土地神、千両様のことなんだけど」
くっと彼女の顔つきが引き締まる。
「何でしょうか?」
自らが仕える神に対する質問だからだろうか。先ほどのような敵意はないが、喋り方にどこか硬質的な響きがある。
素直に対応してくれるか分からないが、春臣は正座して座りなおし、彼女の目を見つめた。
「頼みがあるんだ」
こういうときは言葉だけでなく、態度でも気持ちを伝える方がいい。
「頼み?」
「ああ、媛子を千両様の力で神の世に戻せないか?」
「おい、春臣、勝手に頼むな」
すると、媛子が横から不服そうに口を挟む。しかし、今は彼女の気持ちなどいちいち考えていられない。春臣に必要な言葉は、目の前の巫女からの可能か否か、いずれかの答えだ。
「事情はさっき説明したと思うが、俺は彼女を無事に元の世界に戻してやりたい」
「……分かります」
「土地神様は、普通の神様よりも大きな力を持っているんだろう? だったら、そういうことも可能なんじゃないか?」
「……」
「ど、どうかな? 無理か?」
春臣は生唾を飲み込み、その先を待つ。
そして、ゆっくりと彼女が告げた答えは、
「それでしたら、可能かと思われます」
イエス。
「出来る、のか?」
あまりにも簡単な答えに、一瞬耳を疑うが、彼女は極めて冷静そのものだ。
「はい。絶対とは言いませんが、千両様の力ならそれくらいは造作ないかと」
心臓が強く波打つ。
「な、なら……」
しかしそこで伸ばしかけた手は、宙を掻いた。
再び、待ったをかけられたのだ。
「春臣、昨日言ったことを忘れたのか?」
ざくりと胸を貫く、冷然たる、神の言葉だ。
「え?」
「わしは、土地神の神社に赴く気はない、ということじゃ」
春臣の中に、昨日押さえていたはずの静かな失望が蘇る。彼女と自分との間に感じた、あの冷たい壁がまたしても目の前を覆った気がした。
しかし、今はこのまま引き下がるという手はない。この期に及んで、彼女に自分が手にしかけている良案を吹き消してほしくはなかったのだ。
「気は変わらないのか? 今まで一番手ごたえのある情報だぞ。それを無視するのか?」
と彼女に詰め寄る。
媛子は眉間に皺を寄せた。
「別に、絶対いかぬとは言っておらん。今は、まだその時ではないと言っておるのじゃ」
「じゃあ、今はどんなときなんだ? 何を待ってる? 神の世に帰りたいんじゃないのか?」
言葉を続けながら、春臣は、自身の中の失望が怒りに変わっていくのが分かった。
頑なに彼女が神社を拒み続ける理由は何なのか、自分に隠そうとしていることはいったい何なのか。
うやむやにされるだけ、というのはあまりに、納得がいかない。すっきりしない。釈然としない。
そもそも。
そもそも、この神様はいったい春臣が誰のために、これほど真剣に、様々な方法を模索してきたと思っているのだろう。
春臣がこれまで媛子をこの家に置いていたのは、行き場所のない彼女を見捨てるつもりがなかったからだ。事故とはいえ、異空間を作ってしまった責任を感じていたからだ。
なにより、彼女に、安心できる元の生活に戻って欲しかったからだ。心から、そう願っていたからだ。
なのに、何なのだ、この状況は。
まるで、自分だけが必死になっているようで、馬鹿みたいだった。いい阿呆だ。
これまでに行った媛子のための行動に、嫌気が差してくる。
もはや、怒りは止められなかった。
しかし、神は無言だった。
口を閉ざし、言い返してくる気配もない。
自分なんかに話すことは何もない、ということか?
「今度はだんまりか?」
詰め寄ることで彼女を圧迫しようとした。
しかし、そんな春臣を、椿が止めに入る。
「榊君、媛子ちゃんをいじめたらあかんて。昨日はもう追求せんて約束したやないの」
ぐいと、手を引っ張られる。
「だ、だが……」
春臣は食い下がるが、彼女は断固として首を振る。
「約束は約束や。それを破るなんて、男らしくないで」
「……」
まさか、椿からそんなことを言われるとは思わず、頭を揺さぶられた思いだった。
「媛子ちゃんかて、昨日、悩んでることがあったら自分から話すって約束したやないの。な、せやろ、媛子ちゃん」
「あ、ああ」
彼女は頷く。
「……」
春臣は口を閉ざす。
残念だが、それは認めざるを得ない事実だった。確かに昨日、彼女が話してくれるまで待つと公言していている。
「それに榊さん」
ふいに、さつきが名前を呼ぶ。
「そんなに焦らなくても、千両様はどこかへ行ったりしません。じっくりお二人で話し合われる時間は充分にあるかと思います」
「……そう、だな」
長い息を吐いて、肩から力を抜く。
どうやら、自分はかなり大人気ないことをしてしまったようだった。自覚すると共に、感情の沸騰が次第に収まっていく。それと平行し、脳内の思考速度が平常に戻っていた。
彼らの言う通り、自分の行動は道理に合っていない。そう気付いた。
それに、今の春臣のような追及をしたところで、媛子が態度を軟化させ、口を開いてくれる事態は到底見込めない。ただ、お互いにいがみ合い、対立の関係を作ってしまうだけだろう。
少し、性急すぎたか。
「……すまん、媛子」
自分が悪いと、素直に謝る。
「いや、何も言えないわしの方が悪いのじゃ。本当に、春臣の気持ちを無下にするつもりは微塵もないことは分かって欲しい」
彼女は肩を動かし大きく深呼吸した後で、
「必ず、近いうちに話す。それまで待ってくれ」
と申し訳なさそうに目を伏せた。
彼女にこう言われたのなら、春臣としては、もう何も出来なかった。ただ、彼女を信頼する他ない。
「なら、待っている」
そう答えた春臣を、さつきがじっと見つめていた。