58 お主のそばに
二人で振り返ると、そこには青山とその腕の中で暴れまわる媛子の姿があった。神様はどうやらかなり憤慨しているらしく、暴れ牛よろしく、両腕両足、それから頭、もれなく髪までもむちゃくちゃに振り乱していた。
「青山、部屋から媛子を出すなって言ったろ!」
白い目で睨むと彼女は媛子を押さえつけながら、苦笑いをした。
「ああ、榊君すまんなあ。媛子ちゃんが部屋から出さへんかったら天罰を下すってわめいてしもて。でも、榊君、無事でよかったわ」
眉を下ろし、安堵した彼女とは対照的に、媛子は未だに猛獣のような勢いを失っていない。
すると隣のさつきが、「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
「もしかして、さっき部屋で叫んでいたのは、その生き物?」
と、小人神様を指差した。
「む、小娘! わしをただの生き物扱いじゃと! 聞き捨てならぬ、成敗じゃ!」
暴れながらも媛子はそう叫んで、びしりと神楽鈴を取り出す。どうやらこのまま傍観していれば、場が再び険悪化してしまいそうだ。
また対決が勃発してはまずいと判断した春臣は暴れ牛、もとい、暴れ神を声で止めに入る。
「媛子、少し静かにしろ」
「うう、う」
それでも無礼を許せないのか、媛子はぎりぎりと歯軋りをしている。その隙に、春臣は手短に説明した。
「とりあえず、紹介すると、神の世界からやってきた緋桐乃夜叉媛様。一応こんななりだが、若い神様だ」
しかし、これだけでは疑いは晴れなかったらしく、さつきの目がまじまじと小さな神を凝視する。
「う、嘘ですよ! 神様がそんな小人の姿で、しかも、こっちの世界に顕現してるなんて」
なによりも神のことを知っている巫女なら、そう驚くのも無理もないだろう。
春臣は深いため息をつく。
「ああ、だからこれには聞くも涙語るも涙のとてつもなく深い事情があってだな」
「そんなことより、貴様!!」
と、乱暴な台詞で叫んだ媛子が、椿の腕からいきなり春臣の頭に跳びかかってきた。思わぬことに身をかわそうとしたが、さすがに彼女を地面に落とすわけにもいかず、止む無く手でキャッチする。
すると、背に括りつけた榊の葉をクッションに軟着陸を果たした彼女は、敵の本拠地に乗り込んで内側から一気呵成に陣形を突き崩す兵士のごとく、春臣の腕を登り、あっという間に後頭部から頭の上にしがみつく。
そして、いつもの神楽鈴を持ち、容赦なく春臣の頭皮を叩いた(おそらくあえて狙っているのだろう)。
「馬鹿! アホ! このろくのでなしの、低脳男が!」
神様だというのに、有難さの欠片もない、ずいぶんな言葉である。
「な、やめろ。せっかく勝負に勝ったのに、褒めてくれてもいいだろう?」
「うるさい、だまれ! 腑抜け、間抜け、甲斐性なしの、こんこんちきが!」
「……散々な言われようだな。勘弁してくれよ」
痛みに耐えながら、春臣は懇願するが、彼女は手を休めない。
「戦いに無事じゃったら、幾らでも罵れといったのはそっちじゃぞ!」
と、そう言ってきた。
「あれ、そんなこと言ったっけ?」
言ったような、言わなかったような。春臣は先ほどまでの発言を回想する。
しかし、どちらにしても頭皮への殴打は許可していない。
そう言い返そうとして口を開きかけると、打撃攻撃が急に弱まった。
もしかして、テレパシーが通じたのかと思うが、生憎春臣はエスパーではない。
では、この事態はなんだ。春臣からは彼女の様子が見えないので、何があったのか分からない。
「おい、どうした?」
と訊くと、
「この、馬鹿者がぁ。お主、無事じゃったからよかったものを。本気で心配させよって」
搾り出すような、彼女の声がした。
これにはさすがに、血の気が引いた。罪悪感がこみ上げ、喉がつっかえる。
「……媛子」
彼女は……おそらく、いや、推測するまでもなく、泣いていたのだ。
「お前が、お前が戻ってこなければ、わしは、わしは、どうすればいいんじゃ!」
「……そ、そんな」
おおげさな、という言葉は出なかった。笑ってごまかせる空気は皆無である。
「この家に、一人にさせるつもりじゃったのか? それはわしを見捨てるつもりじゃったのか? 神の世に、お前が帰してくれるのではなかったのか? どういうつもりじゃ! このうつけ者!!」
とめる暇もなく、溢れ来る言葉の猛攻は続く。そこには、人の姿をした少女である以前に、神である彼女の先天的な威圧も加わっているのか、春臣は気圧されたように、何も言えずにたじろいだ。
椿もさつきも、同じように言葉を継げず、呆然としている。
ただ、この場で媛子一人だけが、頭上の絶対の位置から、怒りの矛先をがむしゃらに春臣に向けていた。返す言葉がない。いや、あったとしても今の彼女には言い返せないだろう。
「天罰じゃ、天罰じゃ、春臣など、タンスの隅で小指をぶつければいい!!」
「……」
そして、
最後に、
彼女の一番の本音が聞こえた。
「わしはまだ……春臣のそばにいたいのじゃ」
打撃は、すでに止んでいた。
しかし、その弱弱しくも、強かで、吐き出すような切ない響きに、春臣は力が抜けて倒れてしまうかと思った。
どうしていいかわからず、ただ、
「媛子、ごめん」
それだけ、口にした。
我ながら情けないほどに、か弱く女々しい謝罪だと思う。
だが、こうなったのは彼女の気持ちを、自分に置いてけぼりにされた気持ちを、理解していなかった自分が悪い。自業自得だ。
「うう、う……」
言葉にならない呻きの後、彼女はなにやらもぞもぞと動いていた。
袖で拭いてるのか。
なんとなく、察する。
「本当に、ごめん」
祈るように謝罪しながら、今なら彼女に、二三度天罰を与えられても文句は言えないな。そう、思った。