56 秘策、あり
いったいどういうつもりなの?
さつきは一足先に家の裏手で待ちながら、疑問を心中で呟いた。
神の力は普通の人間なんかじゃ到底太刀打ちできないって言うのに。
舌打ちをしながら、扇子を広げる。神の扇は今日も変わらずに永遠とも思える美しさのまま、光を放っていた。さつきはそれをじっと見つめ、呼吸を落ち着けている。
これがあれば、人間一人くらいならば、軽く吹き飛ばせる。それは間違いない。
けれど、それとは別に、さつきの中で湧き上がる不安があった。
それが、先ほどの榊少年の目だった。
いったい、あの不思議な力に満ちた瞳は何だったのだろう。
そこには、不安に怯えているようで、くじけない、真っ直ぐ貫くような力強さと、さらに、神に抗う術をすでに発見しているかのような自負に満ちた鋭さがあった。
もちろん、人間が神の力に抵抗できるはずなど、あるわけがない。それは間違いない。人の力でどう足掻こうとも、全ては押し流され、消えていくのが運命なのだ。
あれだけ話してそれを理解していないと言うの?
しかし、とはいえ、さつきは彼を消そうなどという物騒な考えは微塵もない。あくまで正しき行いをするため、邪魔者を懲らしめるだけなのだ。それ以上の考えはない。
そこでふと思い立つ。
もしかすると、彼はさつきが土壇場において、自分に情けを見せてくれることを期待しているのかもしれない。それは、勝負の中止。
さつきだって正直に言えば、本来の目的とは違う『一般人』をこの事態に巻き込んでいいのか、と問われれば迷いなく首を縦に振ることは出来ない。無関係な人々を傷つけることに、全く躊躇がないのではないのだ。
でも、それはそれ。
彼には何度も確認した。これでいいのか。危険がある。戦ってもいいのか。そう、何度も。
そもそも考えてみれば、この勝負は彼の方から挑んできたのだ。
ならば、なにも遠慮することはない。
自分の持てる力を彼にぶつけるだけだ。
ざりり。
日陰の湿っぽい砂がざらついた音を立てる。
間違いない、彼がやってきたのだ。
振り返れば、家の角からポケットに手を突っ込んだままの少年が一歩一歩歩いてきていた。その顔つきには一部の油断もなく、今なら背後から近づいても動きを悟られてしまうような、そんな近寄りがたい気迫が漂っていた。
「さあ、始めようか」
影まで足を踏み入れた少年が淀みなく言う。
「ええ、準備はいいんですね?」
さつきの確認に彼はすぐに頷いた。
「うん。さっさと始めて、さっさと終わらせよう」
その、あまりにもあっさりとした口調にさつきは肩透かしを喰らった。そして、すぐに怒りが湧いてくる。
さっさと、って。
今から神と人間との真剣な勝負が行われようとしているというに、彼は学校の掃除でも始めるかような退屈そうな態度なのである。
やはり、神の力を見くびっているのだろうか。
それとも、この能天気な態度で挑発しているのか?
さつきは気がつく。もしかすると、こうして内面に揺さぶりをかけようというのが彼の魂胆なのかもしれない。
だとしたら、このまま怒りを表にすれば、相手の思う壺だ。さつきはぐっと押さえ込んで前を見た。
「力の加減の仕方が少し分かりません。場合によっては、骨の二、三本は折れるかもしれませんよ」
「ハハ、大丈夫だ。もしそうなっても瀬戸さんにやられたとは誰にも話さないよ。年甲斐もなく崖から飛び降りて、着地に失敗したとでも言うさ」
「はあ……」
自分がしたのはその心配ではないのだが。
「でも、そんな口が叩けるのなら、覚悟はもう決まっていると思っていいですね」
「当たり前さ、この期に及んで四の五の言うつもりはない。それに、俺にはこの勝負に勝つ自信があるからね」
ぎりり、とさつきの強く噛んだ奥歯が軋む。
この挑戦的な態度。やはり、自分を挑発しているのか。
しかし、さつきとしてはその手には乗るつもりはない。こちらには絶対なる神の力が存在するのだ。何も恐れることはない。
むしろ、彼の動揺を誘ってみることにする。
「へえ、何を根拠に言っているのか分かりませんが。榊さん、自意識過剰って言われたりしません?」
が、彼は相変わらず、涼しげな顔だ。
「うん? 別に俺は普段から自分を過剰に評価しているとは思わないけど?」
「だとしたら、気に入りませんね。その並々ならぬ落ち着きはどこから来ているんですか?」
「簡単なことさ。俺はただ、君が繰り出す神の風を凌ぐことが出来るという確信があるんだよ」
秘策あり、ということか?
「……神の風を凌げる自信? 人間の身で? まさか、奇跡でも起こそうっていうことですか?」
「奇跡……ハハ、神様ならともかく、人間の俺にそんなことは簡単には起こせないよ。俺が考えているのは、地に足のついた、もっと現実的な方法さ」
神に勝つ確実な方法、だと?
その瞬間、さつきの中を何か鋭い物が駆け抜けた。同時に、堪えきれない衝動が拳を震わせる。
「ならば、もう無駄話は必要ありませんね。お望みどおり、さっさと終わらせてあげましょう」
さつきは大きく足を開き、ぐっと袖をまくる。ふっと息を吐き、目一杯吸って、意識を扇に向けた。
過去に千両神から教えてもらった感覚を思い出す。神の力を引き出すための、精密な作業だ。
それを言葉で全て説明すると非常に難解であるが、簡単に言えば、普段さつきの内面を形作っている人間としての『型』を抜き取り、その狭間に千両神の力を注ぎこむことによって、超人的なエネルギーの放出を人の体で可能にさせる方法なのである。
さつきは、目を閉じると、そっと内なる自我の奥深くに降りていく。精神を一時的に自身から乖離させ、神と同調する準備に取り掛かるためだ。
ぐっと肩に重力がかかり、すり抜けるように意識が遠のく。ぬるま湯に浸かったような心地がして、一気に体中に水が駆け巡ったような清涼感が溢れた。
千両様。
さつきは彼女を呼んだ。
千両様。
すると、右手に持っている扇からじわじわと不可解な感覚が伝わってくる。それは温かく穏やかで、さつきの胸に伝わり、溜まったかと思うと、やがて拍動に混じり、全身へと流れていく。
これが、神と一体になるあの感じ。
やはり、不慣れではあるが、背後からすっと支えられているような、そんな心強さを胸の中で感じる。
よし、これで全ては整った。
目を開ける。
自分に残された使命はただ、力の放出だけだった。
何者も逆らえない絶対の神の力。
それを目の前に立っている少年にたたきつけるのだ。
ぱらり。
扇が開かれる。
そして、さつきの唇が動いた。
「聞け、野を駆き時を遊ぶ風の神よ。我は巫、遍く世を統べ、柊の地の守護を司りし、神の代理なり。我の求めに応え、ここへ集え」
すると、僅かながらさつきの耳元でひゅんひゅんと何かが飛び交う音がし始めた。
大気がさつきと呼応し始めている。よし、理想的な状態だ。
「我に仇なす者、其を打ち滅ぼさんと、今こそ剛力の瞬風を見せよ」
さつきはそこまで唱えると、すっと顔の前で両の手を交叉するように体勢を整える。そして、すぐに扇を下ろすと、横一閃、扇で宙を薙いだ。
「咆えろ! 神の風よ!」
さつきの目の前に幾線もの風の束が結集される。
それは、人一人が丸々納まるほどの巨大な鞠玉のよう。横に伸びたり斜めに歪んだり形を整えているが、すぐにまとまり、凄まじい轟音を撒き散らす一体の獣と化す。
びりびりと大気が振動するのを肌で感じ、まもなく超自然の力が場を掌握するのが、分かった。
そして、何の前触れなく、鞠玉が一気に突進を開始する。目の前にある者全てを跳ね除ける、巨大な力の塊。
空間に大きな溝を作りながら、轟然と、迫る。
これでどうだと、少年を見た。
それを目前にして、仁王立ちをしている少年を。微動だにしない、その少年を。
さあ、これでも、避けることが出来るっていうの?
と、思うが、彼は動かない。
まさか、逃げないのか?
立ち向かうというのか?
疑問が、脳内に殺到する。
「どうして?」
と、ようやく、彼は動いた。
パーカーに入れていた手をすばやく引き抜く。そして、その豪速の風の球に向けて、何かを投げつけた。
「え……」
途端に、光が、炸裂した。何かが小爆発して鼓膜が揺れ、視界が揺れ、光が放た、いや……吸い込まれている!?
「きゃあ!」
爆発の影響で、さつきは後ろ様に倒れた。
いったい、何が起こったのか、分からなかった。ただ、彼が風とぶつかる直前に何かをポケットから取り出して……。
「さ、榊さん?」
濛々と立ち上る土煙の中、さつきは呼びかける。
無事、なのだろうか。
あんな爆発を目の前で喰らったりしたら、とても無傷とは思えない。冷たいものが後頭部を撫でる。
そもそも、この爆発何なのか。さつきにはそれが分からなかった。
「榊さん!」
返事はない。
しかし、立ち込めていた土煙が、しだい薄れ始めて、その中に佇む一つの影がぼんやりと浮かんできた。
まさか。
駆け寄って、確認して、さつきは言葉を失った。
「そ、んな。嘘……」
「ハハ、こんなもんかな」
榊春臣が、突如現れた光の壁の向こうに、青ざめた顔で立っていた。