52 決意のさつき
その日、木犀と別れて帰宅したさつきは、出迎えた祖父に素っ気無く返事をしただけで、腑に落ちない気持ちを抱えたまま重たい足を引き摺り、二階に向かった。
階段を上り、一番手前の自分の部屋にもぐりこむ。白い壁紙に必要最低限の家具が置かれた殺風景な室内で、唯一その空間に和みを与えているクマのキャラクターのクッションに俯けで倒れこむ。
ばふり、と空気が押し出され、埃が舞い上がったのが分かった。
親に見つかれば叱られそうな行為だが、今のさつきは、それがどうでもいいと思えるほどに疲れていた。いや、正しくは麻痺と言うべきか。それとも、疲労と混乱が濃縮された脳内麻酔の効果とでも言うべきか。
とにかく、さつきの脳内の小人がクエスチョンマークを抱えたまま走り回り、体の各所のコントロールが一時的におろそかになっているような気がしていた。
「ぷわっ……」
さつきはクッションにうずめていた顔を横に向け、クロールをするように息をした。新鮮な空気が肺に入り込み、少しだけ、意識が明晰になる。
すると、同時に先ほど木犀少年から聞いた話が蘇ってきた。
「何が、緋桐様よ」
彼が話していたこと。
「緋桐様って何よ」
神様だなんて。
あの時、あの後、彼が嬉しそうに語っていた言葉……。
『信じてもらえるか分からないけれど、本当なんだ。姿は見えないけどよ、どこかから声がしてさ、俺の事を言い当てたりして、いやあ、神様ってやっぱりいるんだね』
あまりのことに、さつきはしばらく言葉を失ってしまった。
あの場所に現れたもの正体は、カミサマ!?
違う。違う、そんなはずない。
さつきは心の中で強くその結論を拒絶する。
なぜなら、あの千両神がいる。彼女が柊の地を見張っている限り、勝手にこの地へ他の場所から「神」が侵入してくることは出来ない。ほぼ不可能と言ってもいいほどだ。
いくら、以前に比べて力の衰えた神とはいえ、土地に住まう神たちを管理し、統率できないほど衰弱しているわけでもない。それが出来るからこその産土神なのである。
だとすれば、木犀少年が話していることがおかしなことになるのだ。
千両神の言う「正体不明の何か」が、彼の言う神なのであれば、勝手に出入りできないこの土地に気付かれずに入ってきた相当な力を持った神ということになる。しかし、仮にそうだとしても、千両神ならば、柊町に居座る巨大な力にいつまでも気付かないということはない。
それに、千両神も言っていたではないか。侵入者の力は弱く、危害を加えるほどではないと。
おそらく神が正体を見破れないのは、異空間なるものの力がその何者かに作用し、都合のいいフィルターとなり、神の眼をたまたま妨害しているのだろう。
となれば、そんな弱小な存在、恐れるに足らなかった。神と言うにも、当然値しない。
「だったら、どうすればいいんだろ?」
さつきはクッションの上でもぞもぞと動きながら考える。クマの鼻がさつきの耳で押しつぶされていた。
「千両様に危険はありませんって、報告する?」
いやいや。
さつきは首を振る。
まだ納得が出来ない。まだその未知なるものとの接触をしていないのだ。
さらに、さつきの胸の内に滞ったなんともいえない不快感がある。さつきにはこれが苛立ちの一種であることに気がついていた。
あの木犀少年のすごいだろ、と自慢げに笑った顔。あれを思い出すと、むーっと腕を振り上げて暴れたくなるような、いても立ってもいられない衝動に駆られる。
千両様ではない、正体不明の存在。
そんな存在が、神様と呼ばれて、こうして人に受け入れられている。どこから現れたかもしれない、そんな奇妙奇天烈なものを。
「おかしいわ、絶対におかしい!」
クマのクッションの耳をさつきはぐっと握りつぶす。
本当にすごい神様っていうのは、どこからともなく中途半端な現れ方などしないのだ。
そうよ。本当の神様っていうのは、千両様みたいな神様のことを言うんだから。古くから同じ土地を守り、人々の平和を見つめてきた、偉大な神。
千両神を尊敬するさつきは、断じてそんな存在を許すわけにはいかなかった。
もしもこの土地に災いをもたらしきたというのなら、尚更放ってはおけない。
神様への報告はまた今度だ。
さつきは決意する。
私が、私が、そんなやつは追い払ってみせる。千両神が直接手を下す必要すらないわ。
いくら普通の人間の私でも、大丈夫よ。
するり。
さつきは胸元から細長い物を取り出す。パラリと開くと、神々しい金箔が光った。
「私には神の扇子がある」
この力があれば、追い払うことなどわけもない。
そして、千両様に私は褒めてもらうのよ。
でも。
そこで問題に気がついた。
あの榊少年である。
もしも、彼が「その存在」とグルだった場合、一人であの家の中に侵入するには危険があった。そうでなくても、あの家に居座る彼という住人は、さつきの任務の邪魔に可能性が高い。
いくらあの人の孫だからとって、余計なことをされては困る。
彼には大人しくしてもらい、さつきが調査をし易い状況を作る必要があった。
そう。どうにかして、彼の弱みを握るべきだ。
でも、どうやって彼の弱みを知るのだ。その方法がなければ、さつきの計画は絵に書いたもちだ。
「うーん……」
だが、一度しか会っていないし、彼の弱点など判るはずも無い。
「はあ……」
さつきは重いため息をつく。
やはり、無茶はするまいか。
自分はただ調査だけに徹し、千両様に報告した後で、協力を仰ごう。
そう考えてから、さつきの目にある物が映った。机の横、本棚の文庫本である。それらは、さつきの恋に対する貧弱な知識を少しでも補おうと、彼女が買い集めた恋愛小説の山であった。
「あ、そうか」
良い事を閃いた。
あるではないか。彼の弱点が。
今日出会った時に、さつきは知ったではないか。
「あの人に……」
少々卑怯な気もするが、これを利用しない手はない。なによりも、この土地を守るために、千両神にもっと認められる巫女となるためなのだ。
さつきはそう決意すると、疲れた身をベッドに横たえ、夕飯までの短い眠りについた。
一方、その頃。
千両神社において。
「うーむ」
社殿の背後。
地元の人間たちからかつて恐れられた神聖なる領域。その森の奥。
小さな祠の中に植わった大きな千両の木がある。
普通の人には聞こえない、不思議な神の声がそこから聞こえてきていた。
「やはり、さつきに頼まず、わらわ自身が調査に向かうべきであっただろうか」
この地の守り神、千両神の声である。
「あの子にはまだまだこういう類のお遣いは難しいかもしれんし」
姿は見えずとも、祠の辺りから聞こえてくる。
「しかしとはいえ、あまり神社を留守にするのもまずい。それにわらわは特に静の者、植物と繋がりの深い神じゃ。植物の体では思うように動けぬし、動く者たちへ乗り移るのは不得手であるからなあ」
短いため息をついた。
「まあ、さつきに乗り移るという手もあるが、しかし、あの子にそれをさせるのは気が引けるのう」
しばらくの沈黙の後で。
「まあ、不安じゃがしばらく様子を見るか。何も問題が起こらなければ良いが」
そう呟くと、風のない森に不自然な木々のざわめきが起こり、しばらくして、何もなかったかのように静まり返った。