49 不在の家
作者のヒロユキです。
どうも、年が明けても相変わらずの男です。
この作品もなんだかんだで、もうすぐ五十話ですね。
やはり相変わらずのノープランで書いておりますゆえ、自分自身が気がつかない矛盾点がないかと不安です。不安で不安で、夜も眠れません……すいません、嘘をつきました。
ええ、僕自身も少しずつ読み直してみようと思いますが、読者の方で、ここは直したほうがいいと思われる箇所がございましたら、なんなりとお申し付けください(ストーリー以外のことでもいいです)。以上、作者からのお願いでした。
ようやく背後を竹林に囲まれた、青瓦の一軒家を見つけ、さつきは庭に原付を止める。
久しぶりに見るその家は、楠老人がかつて耕していた畑の姿もなく、雑草が生い茂り、寂然としていた。日陰の中にぽつんと佇むその一軒家は、主を失い、どこか湿っぽく人目を避けているようにも見える。
以前には、ここを通ると声をかけられたものだが。
さつきはまだ、あの老人の土まみれの笑顔を覚えている。昨日のことのように、はっきりと。
ぐっと胸にこみ上げる物悲しさを目を閉じることで記憶の奥に押しやり、すっと懐に差し入れてある扇子に触れた。
それは神社を出る直前、千両神から持たされたもので、特別な神の力を持つ扇子だった。
数時間前のことである。
『その異空間の近くに潜んでおる者の正体は先ほども述べたように、はっきりと分からん。とはいえ、力をそれほど持っておるようにも見えん。とてもさつきに害を成すとは思えぬ。が、油断は禁物じゃ。思わぬ攻撃に会うやもしれぬ』
千両神は緊張を滲ませた声で、これが単なるお遣いでないことを暗に示した。そして、自身の魂の枝が飾ってある花瓶が置かれた台の引き出しを見ろと話す。
そこは普段は他の者に触れられないように、しっかりと施錠してあり、さつきが持たされている鍵でしか開かない。
鍵を開け、取っ手を掴み引っ張ってみると、小さな長方形の木箱が入っていた。
どこか見覚えのあるものだと思い、蓋を開けると、中に入っていたのがその扇子である。
ぱらりと開くと、眩いばかりの豪華な金箔が貼られ、扇面の右下には千両の枝の絵がまるでそこにあるかのように繊細に描かれていた。
相当に高価なものであることは一目瞭然で、軽く扇ぐと、仄かに甘い花の匂いが立ち、心を落ち着けてくれる。
『知っておるじゃそう? さつきの祖母の扇子だ』
千両神が説明した。
『これは、わらわの神力が込められておる。使い方は以前説明しておるはずじゃ』
それに頷いたさつきに対し、
『よいか、これはもしもの時に使うのじゃ。さつきの身に何か予期せぬ危機が訪れたとき、お主を守ってくれる。じゃから、むやみやたらと使うものではない。神の力は軽率に扱うべきものではないことは肝に銘じておるはずじゃ、分かるの?』
神はそう念を押したのである。
「……千両様」
さつきは手の中でその扇子をぎゅっと握り締めると、力を溜めるように息を止める。
そうすると、心に勇気が湧く気がした。
今朝は少々千両神に意地悪なことを言ってしまったが、さつきの本心では彼女を、かの神を、尊敬して止まない。なぜなら、千両神はさつきの良き友人であり、先生であり、人生の相談相手であり、第二の母であり、土地を守る偉い神であるのだ。
それに、いったいこの世界でどれほど、さつきのように直に神に仕えている人間がいるのか、というと、きっとほとんどいない。
瀬戸家に生まれた人間として、選ばれた人間として、さつきはそれを誇りに思っている。
千両神のようなすばらしい神の役に立てるのであれば、それは紛れもない喜びなのだ。
雑草が無遠慮に伸び放題の庭からぐるりと回りこみ、さつきは意を決して、玄関に立つ。
話では、この家の辺りで、不審な気配を千両神は感じているという。
人間であるさつきではあまり感じることは出来ないが、なるほど、この家の内部には他の場所とは違う異質な重力があるようだった。
ざらつくやすりが肌に触れているような、ひりひりとした痛みのようなものを感じる。
この中に、何かあるのは間違いなさそうね。
ドアノブに手をかける。
しかし。
ガチャガチャ。
当然のことながら、鍵がかかっていた。
あーあ。こういう事態を想定してなかったなあ。
すると、
「あ、ちょっと。そこの巫女さん」
背後で自転車のブレーキ音が聞こえて、さつきは振り返る。
そこには、自転車のスタンドを下ろし、こちらを見ている一人の少年の姿があった。
「はい?」
「もしかして、この家に用事なの?」
まさか、他人から声をかけられるなどとは予想をしていなかったので、咄嗟に対応できない。
「え、えっと」
と言葉を濁し、手をわたわたと振る。
「実は俺も用事があるんだよ」
彼は自転車のかごからなにやら袋に包まれたものを取り出すと、こっちに歩いてくる。さつきに疑問が浮かんだ。
「この家、ですか? 空き家ですよね?」
その問いに少年は不思議そうな顔をしたと思うと、すぐに相好を崩した。
「以前まではな」
「以前? では、今は?」
「人が住んでる。俺と同じ年の男だよ」
全くの初耳だった。
「前までここに住んでたじいさんの孫だってよ」
「……! あの人のお孫さんですか」
楠老人が亡くなったことは杉下家の人間から伝え聞いていたが、まさか、そのお孫さんが住んでいるとは。
「近くの大学に通ってるらしいぜ。ほら、山の向こうの翌檜大学だ。名前は榊、榊春臣、だったかな?」
「……」
少年の言葉に混乱しながらも、さつきは今の話から重要な部分を抜き出した。
さかき。それが住人の名前。
そして、それが脳の奥で何かに引っかかった。
「あ!」
指を鳴らす。
榊春臣だ。つい数十分前に会話をした少年である。青山と言う名の少女と一緒に歩いていた。
「何だ? 知ってるのか?」
さつきは激しく頷く。
まさか、あの少年がここに住んでいるとは、考えもしていなかったことだ。挨拶ついでに少しはなしをしたが、こんな偶然に出くわしていたのだ。彼への興味が湧き、さつきの足が初対面の少年の方へ踏み出している。
「榊の知り合いさんか」
「あ、し、知り合いって言うほどじゃありません。少し話しをした程度で」
さっき会ったばかりということは咄嗟に告げなかった。居場所を伝えれば彼がそこに向かってしまう可能性がある。さつきとしては、彼をもう少し引きとめ、詳しく話を聞きたかった。
「へえ、でもこんな美人さんとお話しをする仲とは、榊ってやつも隅には置けないな」
すると、少年はさつきの顔を眺めてそう言う。突然の美人発言に狼狽した。
「あ、な、私が美人なんて、と、とんでもないです」
「そうか、充分綺麗だと思うけど?」
彼はにやにやと笑う。気を取り直すために咳払いをしてさつきは質問した。
「あなたは、その榊さんとは親しいんです?」
「親しい?」
彼は苦笑して手を横に振った。
「ちょっと彼とは一騒動あってさ。今日はその、お詫びみたいなもんさ」
手に持っている袋を持ち上げ、さつきに見せる。そこには色とりどりにパック詰めされた駄菓子が見えた。およそ、この年代の少年が持つには不釣合いの子供っぽい代物である。
「お、お菓子ですか?」
少年は少し返答に困った顔をしてから、頷いた。
「そう、まあ、なんというか、菓子が好きらしくてよ。持ってきてやったんだ」
「男性なのに、珍しいですね」
「ともかく俺もそんなに親しいわけじゃない。一度しか会ってないし」
「はあ」
彼はさつきの横をすり抜けると玄関に立ち、そのままノックした。こんこんという優しいものではなく、どこか現金を催促に来た借金取りのように無遠慮なものだ。
「おい、榊! 居るのか?」
一度しか会っていない人間に対し、少々横柄過ぎる呼びかけではないか、とさつきは思わないでもなかったが、注意はしなかった。
「不在ですよ。鍵もかかってますし」
それに、彼はデート中なのだ。
「せっかく来たっていうのに、困ったやつだな」
ふんと鼻から息を出し、小石を蹴った彼の前で、さつきはふうむと首を捻る。先ほど出会った榊少年との会話を思い出していたのだ。
確か、この四月から大学に通っていると言っていた。
それを考えると、千両神が言っていた、「一月ほど前から」という異空間の表れの時期と符号する。
これは偶然と言えるだろうか。いや、限りなく怪しい。今回の異変に彼が何らかの関わりを持っていると思って間違いないだろう。
しかし、さっきの人が、あの老人のお孫さんかあ。
さつきはぼんやりと彼の姿を思い出す。ちょっと頼りなさそうにも見えたけど。
とにかく、今は家の内部への潜入はさておき、この家に住んでいるという榊春臣という人物の情報を集めなくてはならない。さつきは頭のスイッチを切り替える。
「あの、もう少しお話しをお聞きしてもよろしいですか?」
口をむっと突き出し、なにやら小声で文句を言っているらしい少年に話しかけた。
「話って?」
「榊さんのことです。それから、この家について」
「ああ、それくらい問題ないよ。俺に分かることならなんなりと。どうせ不在なら出直すつもりだし、用事もないしな」
「ありがとうございます」
さつきは骨の内側まで叩き込まれた礼儀作法にのっとり、丁寧に腰を折って頭を下げる。顔を上げると、少年が手を差し出してきていた。
「俺は暮野木犀って言うんだ。君は?」
「私は、瀬戸さつきです」
握手に応じながら、さつきも自己紹介をする。
「巫女さん?」
暮野木犀の目がさつきの服装に向いた。
「向こうの森の中の千両神社で。まあ、まだまだ私なんてほんのひよっこですけど」
「へえ、千両神社か。まだあるんだ。俺、子供の頃に行ったきりだから、その名前も忘れてたなあ」
そう言われて、苦い味を感じる。千両神社が人々の記憶から薄れているのは紛れもない事実だったが、それをこうして人の口から聞くことは、やはり耐え難いことだった。
と、木犀も発言がまずいと思ったのか、
「あ、ごめん。失礼なこと言っちまったな。俺、そういうことに気が回らなくてさ」
「いえ、良いんです。千両神社が無くなってないことの方が、奇跡みたいな話ですから」
「高校生?」
暗い空気を察したのか、木犀が話題を変える。
「はい。三年生で、受験生ですね」
「へえ、ちなみに俺は浪人生。受験に失敗した哀れな男さ」
彼は試験に落ちたことなど屁にも思っていないのか、へらへらと笑う。
「でも、ってことは年もほとんど違わないよね。だったら、敬語なんて使わなくていいよ」
「そ、そうですか、で、では」
「だめだめ、それじゃ敬語じゃん」
「あ、すいません。人と話すときはこうなっちゃう癖なんです」
「……まあ、いいや。ここで立って話すのも面倒だし、少し川沿いの辺りまで歩かない?」
それは願ってもないことだった。このまま家の前で話し込んでいれば、散歩、もとい、デートを終えた榊少年が戻ってこないとも限らない。
彼と今ここで鉢合わせになるのは、まずい。ある程度、敵地に乗り込む心の準備だっている。それに、彼についてはまだ情報収集を優先すべきだ。了解の返事をする。
「はい、喜んで」
しかし、目の前の木犀と目が合った瞬間、あることが頭に浮かんだ。
さつきと、目の前の少年が並んで川沿いの堤防を歩いている姿を想像してしまったのだ。先ほどの春臣と椿の様子が重なり合う。
それってまるで、デート? まるで恋人同士じゃない。
頬が一気に加熱される。
無理もない。これまでの彼女の人生経験の中で、一番に無縁だったのは、色恋事だったのだ。
同年代の女子が好きな男子の話で盛り上がり、付き合ったり離れたりをしている間、彼女はずっと神社で老人たちの終わりなき昔話に耳を傾けていた。それゆえに、彼女は異性に対し、かなりの偏った考えや、地に足のついていないふわふわとしたロマンチックな恋愛を想像するだけに留まっていたのである。
それゆえの、初心な反応なのだ。
さつきは額に薄っすらと汗を掻き始めた。
「……」
今まで、男の人とそんなことをした経験なんてないし。
ど、どうしよう。
すると、そんなさつきを木犀が怪訝そうに見つめてきた。
「あ、何か?」
ただでさえドキドキしているのに、言葉が躓きそうになる。
「肩にゴミがついてるぜ」
彼が笑って、さつきの肩に手を伸ばす。
「えっ!」
咄嗟のことに驚いた体が防衛本能を見せた。
すっと胸元に伸びた手で扇子を抜き取り、さつきは反射的に木犀の頬を殴っていたのである。自身でも驚くほどの、目に留まらぬ早業だった。
「あ……」
そして、嫌な沈黙の後、木犀が悲鳴を上げた。