48 さつきと哲夫
読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。
作者のヒロユキでございます。
作者と致しましては、本年も、小説の熟達に向けて一層、精進していく所存です。
どうか今年も、この未熟者の作り話に、なにとぞお付き合い下さいますよう、読者の方にはお願い申し上げます。
あまり前置きで長々と話しましても、冗長でございますので、どうぞ、本文の方へお進みください。
春臣たちと別れた後、さつきは一人で千両神から指示された場所へと向かっていた。
つい数分前の春臣たちとのやり取りはすでに念頭になく、自らが成すべき目的だけを意識している。
山々の影が遠く、西の町並を覆い始めていた。傍らを流れる川の流れが綺麗だ。
川沿いの家々では明かりが灯り始めている。人々はもう家路につく頃なのだろう。
しかし、さつきはまだ帰るわけにはいかなかった。口元に力を入れて、前を見据える。
これから、向かう場所。
あの老人が暮らしていた家。
さつきは心の中で念じて、ぐっと奥歯を強く噛んだ。
半年ほど前のことを思い出していた。
あれは、いつもと変わらない、秋の日のこと。
ちょうど今と同じ黄昏時に神社に訪れた人物がいた。
さつきは拝殿の中を箒でごみを追い出す最中で、その老人の姿を見て、はっと身構えた。
農作業でもしていたのか、泥にまみれた作業服を着た、見覚えのない白髪の老人である。
このとき、さつきは千両神社で巫女の仕事をするようになって、もうかれこれ十年近くの月日が流れていた。
そのため、良く分かっていることなのだが、この神社を訪れる人間というのは、ほとんどが常連客だ。彼らの多くは近所に住む、かなり高齢の老人たちで、いつだって、今にも倒れそうになりながら、杖を突いてやって来てくれる。
さつきはそんなお得意様同然の老人たちに毎度恭しく挨拶をし、拝殿へと招き入れるのが、大きな仕事となっていた。
たまには、そこでお茶の一杯でも差出し、和やかな雰囲気の中で、長々と続く老人たちの昔話に相槌を打つのも多々ある。それが、日常で、変わることのない日々のサイクルだった。
だから、このとき、その見慣れぬ老人を目にして、さつきがぎょっとしたのは言うまでもない。
いったい誰だろう。
しかも、こんな時間に。
さつきはそう思いながら、箒を動かしていた手を止めた。
もちろん、いくらこれほど寂れた神社でも、ごく稀に観光客がやって来ることもある。だが、そういう人間は大抵、鬱蒼と茂る木々の中に囲まれた、神秘的な場所の不思議な引力に引き寄せられ、やってくる、というよりは、ほとんど迷い込んでくるのである。
しかし、この老人を迷い観光客と決め付けるには、かなり根拠に乏しい。なぜなら、彼が観光客であるというならば、こんな風に着古された作業服などに身を包んでいるはずはないからだ。
静かに、どこか鼻歌を歌うように参道を歩いている老人は、物珍しそうに、苔むした燈籠の中をのぞきこんでみたり、わざわざしゃがみこんで、参道に埋め込んである石を触ってみたりしていた。
それに、迷っているとしたら、こんな風に余裕しゃくしゃくとはいかないはずだわ。
遠目からさつきはふうん、と唸る。
しばらくしてから、とりあえず駆け寄り、挨拶をしてみることにした。
「どうも、こんにちわ」
すると、老人は木立に向けていた目を徐にさつきに向ける。ゆったりとしたその行動は、突然真横に立ったさつきにも動じることのない冷静さに満ちていた。
目を合わせようとして、びくりと肩の筋肉が痙攣する。
細い体躯に似合わぬ、鋭い眼光にさつきは射竦められたのだ。
「やあ、お嬢さん。ここが千両神社かね」
訊ねられ、はっと我に帰って頷く。簡単に自己紹介をすると、老人は柔和な笑みを浮かべた。
「若いのに、ずいぶんしっかりしているのだな。わしの孫にも見せてやりたいものだ」
「……お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「ああ、君と同じくらいの歳頃だが」
物思いに耽るように老人は目を細め、それから、拝殿へとつかつかと歩み寄った。
「これが社殿、というものかね?」
「はい。こちらが拝殿になります」
「拝殿?」
まるで、初めてそういう言葉を聞いたかのように、老人は眉をひそめた。
妙な引っかかりをさつきは覚える。どうやら彼は拝殿を知らないようだ。
「社殿、というものかね?」という推定の意味が含まれた言葉からも、この老人にはあまりに神社の知識がないことが窺える。
普段、神社に来ることがないのだろうか。それならば、とさつきは簡単な神社の知識を披露することにした。
「拝殿は、簡単に申しますと、参拝客の方が礼拝を行う場所です。ほら、よく賽銭箱が置いてあって、手を叩いて大きな紐付きの鐘を鳴らす、あの場所です」
老人が大きく頷いて、楽しそうに手を叩いた。
「では、神はそこにいるのかね?」
「は?」
「賽銭箱の前で、どこのどいつは幾らいれたなどと勘定しているのではないのかね?」
冗談で言っているのか、本気で言っているのか、老人は何かを試すようにさつきを覗きこんだ。
その瞳がさっきとは違い、優しく丸くなっている。
冗談、なのかしら。
そう思うと、さつきから笑みがこぼれる。
「ふふ、そこには神はいらっしゃいませんよ。大抵の神社では本殿があって、その中にご神体として祀られています」
「今度は本殿だと? それはどこに?」
すると、老人の足が好奇心に駆られるように拝殿の後ろに回り込む。
そこには、神社の正面から見える森とは違い、黒々とした木々が重なる暗がりの森への入り口があった。いったいどこから持ち込まれたのか、およそ車一台分はありそうな大岩が二つ、行く手を阻むように、入り口を囲んでおり、重々しい注連縄が巻かれている。
老人は、岩の手前に立って、興味深そうに石の表面を見ていた。放っておけば、そのまま奥に入って行きそうな空気だ。
「あ、ちょっと待ってください」
さつきが制す。
「この神社には、本殿がないんです」
「本殿がないとはどういうことだ。何者かに火を放たれ、焼かれたのか?」
首だけ振り返り、老人は正義感に満ちた凛々しい眼差しになる。放火魔がいるのならば、わしがとっちめてやると言わんばかりだ。
「そんな物騒なことじゃありませんよ。始めからないんです」
「……それは神がいない、ということか?」
さらに彼の表情が険しくなる。
これに対し、さつきは胸を張って否定した。
「いいえ、神様はちゃんといます!」
もちろん、以前からからさつきと千両神との交流はあったし、この町を守る偉い神だという認識があった。
大昔から人々を見守り支えてきた者として、幼い頃から尊敬していたし、さつきにとって第二の母とも呼べる優しき存在だった。
だから、他人が神がいるか否か、どう考えているかは別として、訊かれれば、さつきは迷うことなくそう言うことに決めている。
「土地を守り、人々の安寧を願う、すばらしき神様です」
「ふうむ、そうか」
すると、老人が驚きに満ちたような、感服したような、そんなため息をつく。
「神は、いるのか」
「この先の森の奥ですよ。うちの神社は千両の木を神が宿る神木として祀っているんです。
木が神の依り代ですから、この神社には本殿がありません」
説明すると、ぼっとしていた老人が今度は無邪気に笑う。
「木が、神とな。面白い。ならば、見せてもらえるかな?」
「だ、ダメです」
さつきは首を振る。
それは出来ない相談だった。
注連縄をかけてある岩と岩の間には細く道が山に向かって伸びている。
先にあるのは、選ばれたものだけが入ることを許される、真の霊域なのだ。代々巫女を務めてきた瀬戸家の人間ならば、まだ入ることを許されるが、一般人にそれをさせるわけにはいかない。
そもそも、素性も分からない、どこか怪しい老人だ。
「申し訳ないですけど、一般の方は立ち入り禁止なんです」
「なんだ、神には会えないのか?」
老人はまるで、約束していた友人に会えないかのような気軽さで少し怒ったような顔をした。
「せっかく、確かめてやろうと思ったのに」
「確かめる、ですか?」
さつきが訊く。
「ああ、本当にこの世に神はいるのか、ということを、この目でな」
顎の上の白髭を撫でながら、老人は薄く笑う。石の上に手を当て、念じるように目を閉じた。
「はあ……」
「実は、ある人物の薦めでな、神に関することをいろいろと吹き込まれて困っているんだ」
「吹き込まれて?」
「君は、杉下、という老人のことを知っているか?」
杉下の、名。
ぐっと腹の底からひんやりとした感じが広がる感覚がした。さつきは腕の筋肉が硬直した気がした。
時折、神社を訪れ、あの嫌らしい睨みでさつきをなめる男の顔が浮かぶ。
「知っているんだな?」
「……はい」
自分でも分かる。その声は紛れもなく、震えていた。
老人はそこから何かを感じ取ったのか、
「やはり、彼の評判はあまりよくないらしいな」
とぽつりと言う。
「……え?」
驚き、目を瞬かせるさつき。
「わしはな、半年ほど前にここへ引越してきたばかりの人間だ。楠哲夫と言う。よろしく、お嬢さん」
そう言って、老人は手を差し出してきた。