44 媛子のファッションショー
高級栗羊かんと金文字で印字された縦長の箱の上で、媛子が胸を張りゆっくりと足を踏み出す。足元には榊の葉が長く敷き詰められ、レッドカーペットならぬ、グリーンカーペットというわけだ。
中央辺りまで歩くと、スケートのジャンプのように空中でくるりと回転する。
すると、ドレスの裾を飾る柔らかなフリルがふわりと舞った。
薔薇の花から染め取ったような真紅の衣装だ。腰元に結ばれた黒いラインの入ったリボンが愛らしい。
異国のお姫様のような、高貴な身分を感じさせるドレスだった。
「うちの家にあった人形の衣装をそのまま持ってきたんや。サイズもそんなに変わらんからぴったりやったで」
椿が説明する。どうやら、数週間前に頼んでいた媛子の普段着のことで今日はここへ来ていたらしい。買い物に行った春臣が帰ってくるのを見計らい驚かせるために居間を占拠し、持ってきた服を選んでいたということだった。
「ふふん」
媛子は得意げにその場で再び一回転すると、春臣の前でドレスの裾を持ち上げ、片足を下げると、軽く会釈をしてみせる。
なんだ? なかなか堂に入っていやがる。
「どうじゃ? 春臣。なかなか似合っておろう?」
自慢の紅髪を手で掬い上げ、ぱっと散らしながら、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「ふうん、まあ、似合ってるんじゃないか?」
春臣は少し上から見下ろして、中途半端な感想を述べた。
すると、彼女は不快そうに眉を動かす。
「まあ、とは何じゃ。わしは曖昧な表現は好かん。似合っておるなら似合っておる、とても似合っておるならとても似合っておると、はっきり断言せんか」
「コメントの選択例が肯定的なものしかないことが気に掛かるが、ぱっと見るととても似合ってる」
「ううん? おい春臣、また引っかかりのある言い方をしおって。ぱっと見た感想などいらん。じっくり見た感想を申せ」
じっくりねえ。
春臣は顎に手を当てる。
まるでお人形のような可憐な彼女のたたずまいに、特に文句はないのだが。
「いやね、媛子のその言葉遣いがイメージを壊すんだよな」
ため息交じりに言う。
「言葉遣い?」
「お嬢様は『わし』なんて一人称使わないし」
すると、隣の椿が妙に納得したように頷く。
「せやな、百歩譲って『わて』までが許容範囲や」
「青山、俺には青山のその歪んだ価値基準がすでに許容の範囲外だ」
もはや彼女のとんちんかんな言動には慣れっこであるため、春臣はさらりと突っ込み、軽く受け流す。
「な、ならば、言葉遣いを直せば良いのか?」
媛子が眉間に皺を寄せ、顔を上げた。
「うん、まあ」
頷くと、彼女は首を捻った。彼女のこの世に関する少ない知識の中から、お嬢様のプレートが貼られた引き出しを引っ張りだしているようだ。
「わ、わたし? わたくし?」
「うん。それで?」
「私に、このドレスは似合っておるじゃろ?」
「……じゃ、じゃ」
「お、おう。そうじゃな」
咳払い。そして、ためらいつつ、媛子が口を開く。
「あの、わたく……私に、このドレスは似合っておりますか?」
途端、春臣ははっとした。
ふいに、恥ずかしそうに上目遣いでそう訊いてきた彼女と目が合ったのだ。
いつものわがままな彼女とは違う、なよやかで淑やかな雰囲気に、その彼女の表情に、目が奪われた。
な、なんだよ。これ。
それは甘い意識の揺らぎで、立ちくらみのように、視界のフレームが滲んだ。
言葉が喉に詰まるのが分かる。返答できず、途切れ途切れの音が口から漏れた。
「あ、あ、その……」
と、唐突に拍手の音が、その間合いに割って入る。椿だ。
「めっちゃめちゃかわいい。満点、満点やで媛子ちゃん。ほんまにどこかの国のお姫様みたいや」
彼女は手のひらをぱちんと目の前で合わせ、感極まるといった具合で目を潤ませている。
「そうか? 本当か? たまにはこんな服を着てみるのもよいの」
「……」
「どうした? 春臣。感想はないのか?」
すると、気を良くした媛子から再び感想を催促される。
「い、いや、似合ってるよ」
冷静を装ったつもりだが、無意識に春臣の目は泳いでいた。それを見て、何かを確信したのか、彼女はふふんと鼻を鳴らす。
「ようやく素直になりおったの。そんなにわしのドレス姿が気に入ったか?」
「うるせえ」
「しかしの、これで喜んでおってはまだまだじゃ」
「え、どういう意味だ?」
椿、次の物を。媛子がそう指示を出す。
「はいよー」
元気な返事と共に、がさがさと音を立てながら、椿はちゃぶ台の下から紙袋を取り出した。
「げっ、まさか他にもあるのか?」
「何を言うてんの? まさか最初の着物とこのドレスだけで生活させるわけにはいかんやろ」
「ま、まあ、いつもの着物はさておき、こんなドレス、普段着ではないからな」
「せやろ? じゃあ、そういうことやから……」
すると、無言のまま、椿は笑ったまま手で春臣を払う仕草をする。横を見れば、媛子も同じ動作だ。圧倒的にのけ者にされている空気を感じる。
「ここから出ろ、と?」
「当たり前やん。それとも、榊君は媛子ちゃんの着替えまで見たいん?」
椿が腰に手を当て、呆れたように言う。
「ば、馬鹿。そんなわけないだろ」
「見損なうぞ、春臣。わしにそれほど軽蔑されたいのか?」
「分かった。出るって、出ますよ。だからそんなに冷たい目で俺を見るな!」
そう逃げるように言って立ち上がり、部屋から出ると、春臣はその場であぐらを掻き、どすんと座る。
しかし、考えてみれば、媛子のファッションショーを見せられている立場の自分が、なぜわざわざ廊下で待たねばならないのか。そんな一抹の疑問を抱かないでもなかったが、反論すればまたしても蔑みの視線を向けられる気がして、とりあえず、腹の底に押し込む。
それにしても、女性から部屋から閉め出されるとは、なんとも男として空しい。
廊下に立たされる生徒はこんな気持ちなのだろうか。とか思ってみる。
「な、こ、これは、青山の趣味なのか?」
しばらくして部屋に入るなり、春臣はぎょっとして彼女の肩を叩いて訊いた。目の前で物珍しそうに自らの服装を観察している媛子は、どうやらそれがどういった意味合いの衣装であるのかあまり知らないようだ。
「趣味? まあ、うちの裁縫は趣味やけど……あ、上手やから褒めてくれてんの?」
椿は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情をほころばせる。しかし、残念ながら春臣が言いたいことはそうではない。
「いや、確かに上手だけど。そっちのことじゃなくって。世の中にごまんとある服の中から、どうして、こんな服を作ろうと思ったのかっていう作製動機を訊いてるんだ」
「え、だってかわええやん」
あっけらかんと答える椿。
「そ、そうかもしれないけどさ……」
春臣は彼女を問い詰めながら、ちらりと媛子の方へ視線を向ける。
白と黒というシンプルな二色で統一されたその仕事着は、とてもそれとは思えないほどのキュートさを振り撒いている。首元、袖口には花柄のレースがあしらわれ、ふんわりと腰元で結ばれたエプロンはシックな黒の背景もあってか、本来の用途を忘れるほどに、上品さを醸しだしていた。
それは、見紛うことのない、完全なるメイド服だった。
媛子はと言うと、先ほどのようにくるくると回転することもなく、頭につけられたカチューシャが気になるようで、しきりにいじっている。
「でも、本当に、純粋にそれだけが理由なのか?」
「うーん、それだけが理由かって聞かれたら、それだけやないけど」
椿は言葉を濁らす。
「それだけじゃない?」
「うん、せやねん。実は榊君から媛子ちゃんの服のことを頼まれたときに、うちのお母さんに相談したんやけど、男の子には最近こういう服が受けんねんって言われて……」
さもありなん、春臣は頷く。
「ははあ、なるほど、そういうことか。いったいどう言って青山が母親に相談したのか、なんとなく推測できるところだが、つまり、青山の母親は入念にここ数年の流行を鑑みた上で、男が一番好むと想定した、いわゆる勝負服を作らせたと」
「勝負服? ああ、せやったなあ。そんなこと言われた気がする。好きな人を落とすにはこれが一番や、とか、椿なら似合うから大丈夫、頑張りや、とか」
やはりな。春臣は心の中で頷く。
きっと彼女は自分が着て、男の子に見せるための服、という前提を置いて母親に相談を持ちかけたのだろう。
そうなれば、彼女の母親が勘違いしてしまうのも頷ける。
媛子のことを母親に話さなかったのは良かったが、その結果が、このメイド服か。
確かに可愛らしいことは否定しないが、正直、アドバイスの方向性が間違っていやしないだろうか。春臣は恐ろしい予感に悪寒がする。
彼女の母親についてである。
今回は本来の目的が媛子が着る服だったからよかったものの、もし椿が本気の相談をしていたら、椿がこの恰好になっていたのか。
椿の母さん。
いくら流行っているからといって、自分の娘のこの姿をさせるのは、いかがなものか。しかも、どうにも先ほどから反応が無頓着な椿を見て、さらに不安になる。
『彼女なら親から言われると、何の羞恥も抱かず、平気で作ってしまうかもしれない』
ということだ。
メイド姿の、青山か。悪くないかもしれないけど。見てみたい、かも?
春臣は否、と首を振る。
妙な妄想をするな。思考の道筋を元に戻せ。
第一、自分は他に着るものがない媛子の普段着を作って欲しいと頼んだのだ。
だが、これはどう見ても普段着ではない。それに完全に本来の用途を逸脱し、明らかに可愛らしさを演出するという別の意図が結びついた産物だ。
春臣は隣の椿を見る。うれしそうに腕を伸ばした彼女は媛子の服の皺を丁寧に調えていた。
そんな彼女に額に意識を集中させ、テレパシーを送ろうと試みる。
こんなものを作られたら、着ている間、媛子を変に意識しちゃうだろ。非常に困る。
と、媛子からの怒りの言葉が聞こえた。
「春臣、どうした。先ほどからずっと椿の方ばかり見て、わしの方をよく見んか」
「ああ、はいはい」
「返事は一回じゃ。投げやりに言うでない。あんまりそんな適当な様子じゃと、天罰を下すぞ」
媛子はきっと春臣を睨みつける。せっかくの衣装だが、そんな怒った顔をされると映えない。
ともかく、こんな服を彼女に着させるないように、妨害しなくては。
「またよからぬことを思うておらんか?」
「そ、そんなわけないだろ?」
「ふむ、ならばよし。して、メイドとやらが着るというこの服じゃが。おぬしはどう思う?」
「……そうだな。とりあえず、お茶を運んできてくれ」
「は? 何を命令しておる」
媛子の頬がぴくりと引きつる。感想を求めて、代わりに顎でしゃくられ、指図されたのだ。そんな反応になるのも無理はない。しかし、構わず肩を回しながら春臣は続けた。
「実はさっき買い物行ってきて疲れてるんだ。メイドさん、お茶が飲みたいなあ。台所行ってお茶作ってきてよ」
「む、無理難題を申すな。わしのこの体でどうやって茶を作れと? それに、なぜそんなことをわしに命令する」
「あれ、そのメイドという肩書きが示すものを知らないのか?」
わざとらしく、春臣は言う。
「メイドが示すもの?」
「青山、教えてやってよ。この神様にさあ」
「あ、ええと。あんなあ、媛子ちゃん。メイドいうんはな、家で掃除とか洗濯とか、いろんな家事仕事をする女の使用人のことを言うんや」
「は、はあ? 使用人?」
媛子があんぐりと口を開ける。
その驚いた反応。してやったり、と春臣は追い討ちをかけた。
「まあ、そういうことだよ。その服着てんだからさ。自動的に媛子はメイド。俺の言うことに従って、お茶持ってきてくれよ」
「い、嫌に決まっておろう」
「なら、さっさとその服を脱ぐんだな。その服を着ている限り、その主従関係は続くらしいぞ」
すると、彼女は春臣の言葉に怒り心頭したのか、三白眼で高圧的な眼光を向けてくる。
「ほう、なるほど。分かった、わしはこんな服などもう着ぬ。お主がそういう態度で臨むのならば、金輪際、絶対じゃ!」
しかし、そんな言葉を投げつけられても、春臣は上手くいったと心中ほっと胸を撫で下ろしていた。これで彼女はメイドの服などもう着ることなどないだろう。いくらこれほど小さい媛子と言えど、同居している人間に日ごろからこんな恰好されるのはいろいろとまずい気がした。
「ええ、そんな媛子ちゃん。せっかく徹夜して作ったのに」
すると、椿が嘆きの声を上げる。
「ふん。椿から言われても嫌なものは嫌じゃ。春臣が態度を改めない限り、わしはどうあってもこの服を着ぬことに決めた」
断固とした決意を漲らせ媛子が言うと、今度は彼女は春臣を振り返る。
「榊君、最低や。なんで媛子ちゃんにこんな意地悪なこと言うん?」
しまった、と思ったのは、その時になってだった。考えてみれば、媛子にその服を着させないということは、彼女が苦労して作ってくれた服をゴミにするというわけで、それはすなわち、媛子だけでなく椿からも攻撃を受けて仕方ない状況を作ってしまうことである。
「あ、いや。その……」
返答に困りながら、急な思いつきで馬鹿なことをしてしまったものだと、自身を罵りたくなる。
「うちが作った服、そんなに気にいらへんかった?」
椿はそう言いながら、すでに目頭に涙が溜まっている。今にも泣きそうだ。
春臣の脳内に小学生の頃、ちょっかいを出しすぎて、女の子を泣かせてしまった後味の悪い記憶が蘇る。まずいまずいまずい。肺の中から水分が抜き取られたような、乾いた息が漏れてくる。
ここで彼女を泣かせてしまうのは計算にはない。
ああ、天啓はないのか。起死回生の天啓は。
ごくり、と唾を飲み込み、意を決して口を開く。
「あ、だから……。俺も思うからだよ」
「な、なんやの?」
「青山の方が、青山の母さんが言うように、その服、似合うと思うから。だから……」
「え?」
「はあ、何を言っておる春臣!」
すると、彼女の顔が一気に華やいだのとは逆転して、媛子が発する負のオーラが倍化した。
しかし、今さら後には退けない。ただ服をもらっているだけの媛子はさておき、せっかくこんなに小さなものを苦労して作ってくれた椿の気持ちを無下にするわけにはいかないのだ。
汗顔の至りではあるが、とにかく言葉を続ける。
「着るなら、媛子よりも青山の方が似合ってると思うんだ」
「そうなん? うち、こういう服着たことないから。似合う、そうかなあ?」
最初は困惑気味だったが、彼女は機嫌を直したようで、春臣はほっとする。女性を泣かせてしまうという失態は、トラウマを作るほど、罪悪感を感じさせるものなのだ。
しかし、冷たい目はまだ自分を見ていた。
「春臣。どうやらわしに完全に喧嘩を売ったようじゃな」
おっと、こっちの処理が済んでいなかったか。
「何だよ、そうじゃないって。その服は、だよ。さっきのドレスは似合ってたし、他にもあるんだろ? そっちを着させてやってくれよ」
「うん、ええで」
「いまいち、納得がいかぬが、まあよいか」
媛子が溜飲を下げてくれたようで、春臣はどっと嫌な冷や汗を掻く。
ただ、良かれと思って媛子の服を作ってもらったのに、なぜこんな人殺しの裁判のような殺伐とした空気にならなければならないんだ。
いっそ泣いてしまおうかと思ったが、廊下に閉め出されたうえで一人でぐすぐすやるというのも、惨めの極みだと思ったので、止む無く春臣は、そのやりきれなさを腹の底に押し込めることにした。