42 招かれざる客
1/22 文章の最後の辺り、異空間に対する説明を補足しました。
「おはようございます。杉下隆二さん」
拝殿からさつきが呼びかけると、男は僅かに首を上げ、分かるか分からないかほどの小さな会釈をした。神経質そうな細面は白い太陽の光を浴び、青ざめた死神のようである。杉下隆二、地元で黒い噂のある杉下家の次男だった。
「おや、おはよう、千両神社の巫女さん。休みの日だってのに、朝からご苦労なことだね。掃除かい? 神社の管理っていろいろと大変なんだ。僕には分からないけれど」
「そうですね。管理の大変さはやってみないと分かりません。隆二さんも一度やってみたらどうですか?」
さつきは拝殿に上がってくる彼を冷たく睨みながら、訊いた。さつきは幼い頃より掃除を実践してきたので、朝飯前だが、初めての人間にはきっと大変なはずだ。
すると、杉下隆二がふっと笑う。
「嫌だよ。僕がこんな寂れた神社の掃除なんて」
「……寂れていようが、神へ敬意を払い、神の御前を綺麗に保つことは、尊き行いだと私は思いますど?」
さつきは真横を通り過ぎる隆二に挑戦的に言い放つ。しかし、隆二は顔色を変えることなく、首もとのネクタイの位置を直すだけだった。
そして、賽銭箱の前でこう言う。
「千両様だかなんだか知らないけれど。そんな見えもしない存在に手を合わせるなんて、昔から人間ってのは、本当にしょうもないことをして時間を浪費してたんだね」
この不躾な言葉にはさすがにさつきはこぶしを強く握り、湧き上がる怒りをぶつけそうになった。
「な、神の御前で、そんなことを……」
「ならん。さつき」
静かに千両神の言葉がさつきの脳内に伝わってくる。シャーマンとしての能力がある彼女には、隆二には聞こえなくても、千両神の声が聞こえるのだ。
「でも、私……」
「でももへったくれもない」
隆二はさつきがひそひそと話しているのに気がついたのか、訝しげに振り返った。
「何だ? 寂しすぎて独り言を言う癖があるのかな?」
「あのう、神社に何か御用なんでしょうか?」
彼女が露骨に怒りの籠もった声で訊くと、彼は瞳だけで笑うという気色の悪いことをしてみせる。
「いや、別に大した用はないよ。じいさんから頼まれてね。わしの代わりに参拝しておいてくれということだよ。こんな神社のね。ああ、それから、ついでにあんたの様子も見ておいてくれ、とさ」
「……!」
「何度も言ってるから分かってるよね。この神社がこんなになっても潰れないのは、僕達杉下家のおかげだってこと。じいさんが毎年この神社に寄付してるお金のこと、ちゃんと分かってるよね?」
「う、くう」
「分かったら返事だよ? それくらい出来るでしょ?」
隆二の口調は穏便でありながら、上から見下す強者の威圧が含まれていた。決定的に覆しがたい上下関係を、さつきに確認させているのだな。千両神は思う。
「わ、分かってます」
「町長選挙はまだもう少し先だけど、場合によっては君にも強力してもらう必要があるからね」
「はい」
「言うまでもないことだけど、杉下家はこの地域に大きな影響力がある。その影響力を維持するために町長をうちの人間から出すことをは不可欠の条件。だけれど、いくら杉下家の影響力があっても当選できるだけの票を全て集めることは出来ない。この地域ではまだ、周囲の人々に影響力を持っている古くからの一族はいくつかあるんだ。彼らを杉下家になびかせることができれば、杉下家の町長候補、つまり僕の父さんだけど、父さんは町長に当選確実。でも、なびかなければ危険だ」
「……」
耳障りなだけの彼の演説をさつきも千両神も聞きたくなかった。俯いたままのさつきは、彼の黒く光沢のある靴を見て、話のあいだ、それを出来るだけかわいそうに踏んづけてやるイメージを膨らませることにした。
隆二の話は途切れる事無く続く。
「そんなときに頼れるのがここの神様。そういった古くからの一族の人間は信仰心が厚くて助かるよ。未だにここに参拝してきてる祖父さん祖母さんがいるんだろ? そこで代々シャーマンとしてこの神社に仕えているあんたの出番だ。そっとその老人たちの耳元で神のお告げを囁けばいい。『杉下家の言うことに従った方がいい』とね」
「は、はあ」
「別に杉下家に票を入れろなんて直接的なことを言わなくていい。ただそれだけでいいんだ。それで純粋なじいさんばあさんは神のお告げに感謝し、従うことだろうよ。そして、杉下家が権力を握る。穏便で誰も傷つかず、争うことがない理想的な話だろう? そうじゃないか?」
「はあ」
いいながら、さつきは胸中で、虚空にワンツーパンチをお見舞いしている。お前らが権力を握ってそれでいいなんて、そんなことを思ってるのはあんたらだけだろうが。
隆二はさつきからの反応が気が抜けたように曖昧なことに分かっていたが、構わずまだ続ける。
「その大きな布石のためにじいさんはこの神社に寄付をしている。それでもしも時の保険に、神様にちょっと一言つぶやいてもらう。神様を道具にするのは少々心苦しいけれど、こんな神社の神だもの。僕達に神社を残してもらえてるだけでも有難いと思ってくれなくちゃね」
「話は、それで終わりですか?」
さつきは怒鳴り散らしてやりたい気持ちをぐっとこらえながら、なんとかそれだけ言い切った。
隆二の死神面は感情をうつさない。
「そんな怖い顔しないでよ。さつきちゃん」
こんな台詞を棒読みで言う。
「お話しが終わりなら私は仕事に戻ります。まだ拝殿の床掃除がこれからですから」
「分かったよ、もう帰るって。それじゃあね、バイバイ。お仕事きちんとがんばってね。それで、もしもの時は頼むよ」
隆二は契約書の項目を確認させるようにはっきりとした声で言うと、意外にもあっさり、大あくびをかましながら帰っていった。きっと町で仕事があるのだろう。
この町を裏で牛耳っている杉下家の人間は毎度その家族あるいは彼らに繋がりの深い人間を町長にし、地域の実権を握っている。そのため、彼らの周囲にいる人間は苦労すこともなくいろいろな仕事を任せてもらえる。無職などとは縁がない一族だ。
全く、さつきにも千両神にとっても彼らは目の毒以外の何者でなかった。
すると、彼の姿が消えた途端、さつきは悲鳴を上げるながら髪を掻き毟る。
「な、な、なんなのよあいつ!! 心の底から消し去ってやりたいわ!!」
「さつき、落ち着け」
千両神はなだめたが、彼女の怒りが簡単に収まるわけもないことは明白だった。
「千両様だって、あんなことまで言われて我慢できるの!! 神への信仰心があるかないかは個人の自由でも、神を自分たちの利権のために利用するなんて、精神が一部の隙もなく腐ってるわ!!」
握った拳を震わせながら、彼女は落ち着きなくその場を行ったり来たりする。すると、拝殿にばたばたと埃が舞った。
「わらわもそう思う。出来ればきつい天罰でも下してやりたいところではあるのだ。だがの、下手に奴らに手を下すのも危険なことだ。やつらがこの神社の存亡を担っておるとなると、迂闊にそんなことも出来ぬ。以前よりは劣っておるといってもわらわの神力もそれなりでの、うっかりやりすぎて一族が弱体化してしまうと、ここへの寄付も止まる。それは困るであろう?」
「う、確かにそうだけれど」
足音が止む。さつきの目は少々埃を被った千両の枝を見ていた。千両神の指摘は最もなことだったのだ。
「だから、今は落ち着け。もうこれは数十年間続いておること。さつきの母親も経験した辛苦なのだ。まだ誰もその役目を命じられておらぬだけ幸いか。せめて、昔どおり、この神社が復興できればいいのじゃが、それも、この現状では無理かもしれぬの。今は甘んじるしかない」
「千両様……わたし、悔しい。あんなの、間違ってる」
「そうだな。このことは近いうちにお前の母にも申しておこう。とにかく、もうこの話は終わりだ」
千両神は場の不快な空気を断ち切るようにきっぱりと言った。このまま杉下家の人間のことについて悪口を言い合ったところで、なんら解決策も講じようがない。泥沼を棒の先でいじくっているようなものだ。
それに、千両神にはさつきに先ほど、言いかけたことがあった。
「実は、さつきに一つ頼みたいことがある」
彼女の顔がさっと緊張する。
「頼みたいことですか?」
「ああ、大切なことじゃ。この土地を鎮守する神としてその役目を果たさねばならぬ」
「何かあったんです?」
「ここ一ヶ月ほどのこと。この柊の地のとある場所に、妙な空間が生じておる。この世でもあの世でもない、異空間じゃ」
異空間という響きに馴染みがないのか、さつきは困惑しているようだった。それもそうだろう、と千両神は思う。
彼女でさえも、このような事態はほぼ初めてと言っていいのだ。
異空間とは、この世と神の世、または別世界の間で空間に生じるゆがみであり、世界の各地で稀に発生している。大抵は、人や物に影響を与えることはなく、海の中で時折できる渦のようなもので、一定時間を経過すると消えてしまうのが常だ。中には有害な部類もあり、別世界の入り口となって吸い込まれてしまうものも存在するが、様子を見る限り、今回の異空間によって人々が悪影響を与えている様子はない。そのため、千両神としては、じきに消えるものと無視していた。
しかし、彼女はさつきにそこまで説明した後で、口調に緊迫感を混ぜる。
「だがの、その異空間の周辺に、妙な気の塊がある。かなり小さいものだが、ここ数日で動きが活発になっておるようだ。何者かは分からぬが、この地に仇なす者かもしれん」
「私にそれを調べよ、と?」
「そうだ。わらわはここ動けぬ。従ってそやつの正体が見破れぬのだ。動けるさつきにその調査を頼みたい。悪しき者であれば、わらわが追い払おう」
「はい」
「またお前に仕事を頼んですまぬな。それで、礼と言ってはなんだが、この仕事が終われば、二週間さつきの自由に町で遊んでくるがよい」
すると、彼女は信じられないといった表情で神の枝を見つめた。それもそのはずで、これまでは二週間も長い間、彼女が休みをもらえたことは皆無と言ってもいいほどなのだ。
「そんなに休みをもらってもいいんです?」
「構わん。たまにゆっくり羽を伸ばしてこい。その間、わらわのことは気にせんでもいいぞ」
あんな顔をされた後で、さつきの気持ちを無視するわけにもいかんしの。神はこっそり呟く。
「……ありがとう」
すると、彼女の顔が素直に明るく微笑んだ。それを見て千両神もまた、木の枝の身でありながら、そっと笑った。自分の娘同然の彼女が喜ぶことは、やはり自分のことのようにうれしい。
しかし、それもつかの間、さつきが元の真剣な表情に戻り、質問した。
「それで、そのとある場所ってどこですか?」
「うむ。それが重要じゃの」
「重要、なのね」
「驚くなよ。その場所はというのは――」
千両神がそっと住所を言うと、数瞬前の笑顔はどこへやら、彼女はたちまち顔色を失った。
「そこ、って。まさか、あの人の……」
言いかけるが、呂律が上手く回っていない。しかし、当然だろうと、千両神は思う。
なぜならそこは、彼女にとって聞き覚えのある場所だったのだから。