4 幽霊さん?
「う、ううん?」
春臣は唸りながら部屋の畳の上で目を覚ました。いつのまにか、体を丸めるように寝転がっていた。
すぐに目をこすって立ち上がる。
そしてそれと同時に、自分が現在どのような状況で、いったい何が原因で気を失っていたのかのかがすぐさま脳内でフラッシュバックされた。
礼拝。
立ちくらみ。
めまい。
陽炎。
そして、赤い髪の少女。
この部屋で何が起こったのだろう。
腕を持ち上げるとなんだか肩が重い。ひどく、疲れているようである。
とりあえず、身を起こし、周囲の様子を見渡した。
先ずは、神棚を見上げる。
先ほどのように原因不明の陽炎が揺らめいていることはない。
何も無い、元の状態だった。
と、いうことは。
そこから導き出される事実がある。
それは、最初から何も起こっておらず、つまり全ては自分が見た幻覚だったのかもしれない、ということだ。
春臣はそれを一つの仮説として考えた。
なにしろ、今日は引越しの作業をしていてかなり疲れていた。人間とは往々にして、このように弱っているときにありもしないものを見てしまう可能性が高い。
こめかみのあたりを押さえて俯いた。
疲れている。そうだ、疲れていたのだ。
しかし。
しかしそれにしても、あまりにはっきりとした幻覚を見てしまったものだとぞっとする。
あの少女のように見えた人物は誰であったのだろう。しかも、あの見たことも無いような綺麗な赤髪。
幻覚は自分が作り出してしまうものだろうから、少なくとも自分の過去の記憶がその材料となっている確立は高い。
しかし、覚えが無いのだ。
思い出そうとすればするほど、春臣はあんな人物を過去に見たことはないという事実が明白になってくる。
当然だ。見たことがないのだ。
これはいったいどういうことだろう。
そう思うと、なんだか気味が悪い。
「おい」
まさか、自分は幽霊でも見てしまったというのだろうか。
あれはどうみても祖父ではなかったから、その昔、この辺りで死んだ少女の霊といったところか?
春臣は顎に手を当てて考えた。
二つ目の仮説である。
「おうい」
だが、彼女は平安時代の貴族の十二単のような着物を着ていた。それは不可解な点である。
幽霊にしてはかなり時代が古すぎないか、ということだ。そもそも春臣は自分の周囲でそんな昔の霊を見たという話は聞いたことが無い。
よほど、この世への未練が強かったのだろうか。
「おい。おぬし」
だが、やはり春臣はあの赤い髪が気になる。
場合によっては、春臣の目に映った人物は日本人ではないということも考えられた。
「おい、いい加減にせんか!」
「え?」
春臣は呼びかけてきた声に驚いて周囲を見渡す。知らないうちに誰かから声をかけられていたようだ。
しかもこの部屋のどこかから、聞こえた。
一人暮らしのはずの自分の部屋からである。
消えたと思っていた幽霊はまだこの部屋にいたというのか。
「だ、誰だ! どこにいる?」
反射的に春臣は立ち上がり、いつ襲い掛かられても抵抗できるようにファイティングポーズで構える。
それで実体のない幽霊に立ち向かえるか分からないが、しないよりはマシだ。
「こっちじゃ、こっち!」
再び何者かの声。
「こっち?」
背後を擦りかえってみると、自分の勉強机の上でなにやら動いているものがある。
眼をこすってよく見ると、なんと、間違いなく先ほどの幻覚で見た赤い髪の少女である。
その長い髪を鈴の飾りがついた簪で束ね、この時代のものとは思えない布を重ねた服装のまま、こちらを見上げて立っている。
しかし、先ほどと違うのは、その大きさ。
あまりにも小さいのである。
見たところ、勉強机から春臣を見上げている少女の背丈はせいぜい十センチがいいところだ。トランプのカードを二つ縦に並べれば余裕でその影に隠れることができるほどだろう。
春臣が想像していた、幽霊が醸しだす超然的な恐ろしさの欠片も無い姿である。
そして、その少女が机の上でぴょんぴょんと跳ねながら、
「おい、こっちじゃ!」
と叫んでいる。
なんだ、どういうことだ?
まだ自分は夢を見ているというのだろうか。
「全く、早く頭を下げんか! わしは神じゃぞ!」
しかし、それが春臣にはなんのことだか、さっぱり分からない。
春臣に限らず、突然こんな小さな生き物が現れ、神だなんだといわれたところで、冷静な判断のできる人間はいないだろう。
だが、それにはお構いなしに、その少女はさらに尖った声で何やら居丈高にまくしたてる。
「このわしの呼びかけにも答えず、今まで転寝とはどういう料簡じゃ!」
転寝、ああ、気絶していたことか。
春臣はぐっと腰を下ろし、その少女と同じ目線の高さに合わせる。
すると、突然目の前に巨大な顔が出現したのに驚いたのか、彼女はおよよと後ずさった。
その様子から春臣は彼女には自分に対する敵意はないと判断した。彼女の方がこちらを恐れているようなのである。
少なくとも自分に怨みがあって化けて出たようには見えない。
「さ、下れ。この無礼者。近う寄りすぎじゃ」
そう放った言葉にもさっきまでの強さはない。
「これは何かの夢なのか?」
頭を抱えた春臣は、迷った挙句彼女にそう聞いた。
「はあ? 何をわけの判らぬことを言っておる。全て現実じゃ。わしは……」
「幽霊か?」
彼女が言う前に先を越して春臣が言う。
「何?」
その少女は口元を手で隠したまま怪訝そうに目を瞬かせた。
「大昔から成仏できずにこの世をさ迷っているんだろう?」
春臣はそう訊いた。
これが夢で無いのであれば、おそらく目の前に立っているこの小人は、生者とは思えない。
きっと、とても長い年月を経たことにより、死者としての魂の力が磨り減り、今のように小さな姿になってしまったのだろう。
その理屈で考えれば彼女の古風な恰好も納得がいく。
春臣は自身の中で確信した。
「はあ? わしを誰だと心得るか、わしは……」
「だから幽霊さんだろ?」
少しも臆することなく春臣はそう言った。
「ち、ちがうー!」
彼女は服の袖を握ったまま嫌々をするようにじたばたと上下に手を振った。その憤怒の仕草はどちらかというと、なかなか可愛らしい。服の袖がゆさゆさと揺れる。
「かわいそうになあ、何かの間違いでこんなところに入って来たんだろ」
おそらく先ほど感じた奇妙な感覚は彼女がこの部屋に入り込んでしまったことからの影響だったに違いない。
春臣が考えていることはおおよそこんなことだった。
そして、不憫に思った春臣は、自分ではどうすることも出来ないと思いながらも、ともかくこの場所から彼女を移動させてやることを考えを思いつく。
彼女の横に右の手の平を上に向けて差し出す。
「お、おい、何をするつもりじゃ」
驚いていた彼女は近くにあった鉛筆立ての影に隠れた。
「ここに乗ってくれ。大丈夫、握りつぶしたりはしない。ともかくここから出してやるよ」
「そ、それはまことか?」
「嘘じゃねえよ。突然こんな場所にはいりこんで困ってるんだろ、元にいた場所に戻してやるよ」
春臣がそう話しかけると、彼女は今度は一回だけ嬉しそうにぴょんと飛び跳ねた。
「それは願っても無いことじゃ。それならばわしの世界まで道案内を頼むぞ」
ずいぶんと笑顔で言われたが、それは一緒に三途の川を渡れという間接的な命令なのだろうか。
春臣の顔が引きつる。
死ねと申されますか。
この若き身で。
冗談じゃない。
さすがに一緒にあの世にまで行くわけにはいかないが、
「あ、あんたの世界への行き方は知らないが、ともかく好きな場所まで連れて行ってやるよ」
とともかく手助けをしたいという意向を示す。
「近くの川でも行けばいいのか?」
「近くの川? それはいいが、ともかくここがどこなのかを知りたいのう」
「場所を言えばいいのか?」
春臣はとりあえず、ここが日本であり、次に県名、市の名前に柊町だということ告げた。
すると、彼女は日本という国名には理解を示したが、後はぽかんとした表情で、
「知らん」
とそれだけ。
さらに、
「分からん」
ときたものだ。
まあ、昔の霊ならば、この時代の地名など知っているはずなどないので、当然だろうと春臣は結論付ける。
「ともかく、手の上に乗せてくれるというなら、そうさせてもらうぞ」
彼女はそう言うと、とことこと春臣の手のひらの近くまで歩き、直前ではたと立ち止まって、
「本当に、何もせんじゃろうな?」
と白い眼で念を押す。
「しないって」
それでようやく警戒を解いたのか、彼女はもぞもぞと動きにくそうな着物を着たままで手のひらによじ登った。
少々、終わりが中途半端になってしまいました。すいません。