36 春臣の苛立ち
トイレの中に入り、声が外に漏れていないことを確かめ、春臣は鍵を閉めた。気持ちを落ち着けようと、一度深呼吸をする。
それから、ポケットの中で小さく動く物体を指で小さくつついた。
「聞いてたか?」
ワンテンポ置いて、
「……うむ」
媛子が返事をした。
「その、何ていうか、大丈夫か?」
「大丈夫じゃが?」
彼女の声は意外にも平然としたものだった。怒りが籠もっているわけでもなければ、失望に沈んだか細い声でもない。
自分との温度差に気がついたが、春臣は話をつづけた。
「まさか、子供がおいていたんてな」
目を閉じながら言う。
その暗闇の中で、椅子を踏み台にし、神棚の裏にロザリオを隠す子供の姿が浮かんでくる。きゃいきゃいという無邪気な笑い声まで聞こえてきそうだった。
「そうじゃな。まあ、そういうこともあろうよ」
相変わらず、彼女は行ったことのない外国の地の天気予報を聞くように、あっさりと受け流した。
「冷静なんだな」
思わず、そう指摘した。
「いまさら、どういう過程を経て、あの結果になっていたかを知ったところで、意味のないことじゃろうが」
「それも、そうだが」
けれど、やはり、複雑な気持ちだった。納得のいかない気持ちだった。押し込んだはずのやりきれなさがこの混乱に乗じて顔を出している。
媛子がこうしてここにいる事態を招いた一つの原因があって、それがこんなにも単純で、仕方のないことで、いや、仕方がないわけはないが、それをどうにか、どうにかして防げなかったのか、と春臣は思うのだ。
「くそ……」
「春臣」
「分かってる。今さら、この状況を何もなかった頃に戻せるなんて、思ってないさ」
春臣は唇を噛んだ。
でも、なんで。なんでこんなにイライラしてるんだ。
春臣の内なる声が叫んでいる。
こんな、ことがなければ、媛子はいまでも不自由なく神の世界で暮らしていたんだ。
そして、やはり思い出すのは、そのきっかけをつくったのは自分という覆しがたい、事実。くそ。くそう。
俺は媛子を。媛子のことを……。
春臣ははっとして、我に帰る。
なんだ? この感覚。
気持ちが揺らいでるな。
「はるおみ」
すると、まるでどこかか春風が吹き込んだように、穏やかな声が聞こえた。
「え?」
「本当に、おぬしは優しい男じゃの」
彼女は目を閉じていた。
「俺が、優しい?」
よく分からない。自分の中にあるのはそんな穏やかな気持ちではなく、それとは正反対のもの。荒々しく尖って、ぶつかって傷つけている負の刃なのだ。
しかし彼女は言葉が理解できていない春臣を見ながら、続ける。
「わしの今までの不自由や苦労を慮って、苛立っておるのじゃろう?」
「それは、まあそうだよ」
「でも、それはおぬしがそこまで気に病む必要のないことじゃ」
「え?」
彼女はぽんと胸を叩く。
「わしは神じゃぞ、馬鹿にするな。小さくてもそれくらいの苦労は背負えるのじゃ」
「媛子……」
「それに、もう言うたであろう? わしはお主に出会えてよかったと。そう思っておると。数ある人生の中の出会い、その只中でお主とめぐり会えたことは幸福なことなのじゃ」
小さな手がそっと服を掴み、たっぷりと頬ずりを始める。言葉のいらない、その彼女の愛らしい仕草が、春臣の胸に何かをそっと宿らせた。不穏がすっと消えていく。
「……媛子がそう言うんなら。よかった」
春臣は、わだかまりなく自然にそう言えたことに気がついた。
「どうじゃ、落ち着いたか?」
「ああ、ごめん。取り乱したりなんかしてさ」
「謝るな、春臣。正直に言えば、わしだって本当のところ動揺しておる」
「そう、なのか? 分からなかったな」
そうは見えない。彼女はいつもどおりに見える。
「なに、おぬしがわしより先にその気持ちを代弁してくれたからの……」
それに対し、彼女はこう囁いたが春臣の耳には届かなかった。
「何か言ったか?」
「ううん、なんでもないぞ」
春臣はこめかみの辺りを指で掻きながら、手持ち無沙汰になり、話を切り上げた。
「そっか。それじゃあ、そろそろ戻るか。暮野ってやつも、俺が戻らなくて困ってるかもしれないし」
「あ、それじゃが」
途端、媛子が言って、春臣は動作を止める。
「何だ?」
「あの男。もうロザリオなどというものはどうでもいいのじゃが。少々、問題がある」
「問題が?」
「眠っておるわしらをこんな真夜中に起こしたことじゃ」
「……ふむ」
言われてみれば、今はもうすでに深夜の二時を回っていた。
「他人の静かで安らかなる睡眠を妨げることはそれなりに罪なことじゃ。悲しいかな、それは神として、そう易々と看過できぬ事態での」
彼女はいかにも心外といった様子で、わざとらしくため息をつく。
「……はあ」
「そこでじゃ、春臣」
媛子の顔はすでに何かよからぬことを企んでいるようで、いやらしい笑みを浮かべていた。神楽鈴を一閃、振り下ろして、こう言い放つ。
「わしは神として、奴に天罰を下そうと思う!」