34 闇夜の侵入者 3
「もしもの時は、俺に構わず逃げろよ」
物音を立てず、部屋の戸を開けながら、春臣は胸元のポケットに入った媛子に注意した。
「その気になればここからでも逃げられるんだろ?」
夕方、自転車とぶつかったとき、彼女がそう言っていたのを思い出したのだ。
「そうではあるが、神が人の子よりも早く逃げるというのは、神として沽券に関わる話じゃ。そう簡単に尻尾を巻くつもりはない」
彼女はしゃりしゃりと鈴を鳴らしながら、白目で春臣を睨んだ。やはり、彼女の神としてのプライドは高い。しかし、春臣はその言葉に心強さを感じる一方で、
「ちょっと音を立てるな。下に響くだろ」
と注意しているように、不安に思う気持ちもあった。媛子はこの世界における空気の読み方をまだ知らない。彼女を連れて行くことで、自分に不利な状況になるのならば、意味がないのだ。
「とにかく、なるべく静かにしててくれ」
指で彼女の頭をポケットに押し込み(彼女は何をするのだと憤慨した)、小足で壁に背中をつけて、階段に歩み寄った。
神経が張り詰めているせいか、いつもは気にならない板が軋む音も余計に大きく聞こえる。中腰になり、細目で階段の最上段から、下を覗いた。自宅がまるで戦場にでもなった気分だった。
「あれ?」
小さく、春臣が驚く。
「どうしたのじゃ?」
ポケットの端に手をかけ、媛子がよじ登っていた。彼女の目に階下の居間から漏れる電灯の明かりが映る。
「強盗さん、明かりなんて点けてるぜ」
「何を言うておる。今は夜じゃぞ。明かりを点けねば、周囲が見えぬではないか」
媛子が奇異の眼差しを春臣に向ける。
「いや、もちろんはそれはそうだよ。だけど、相手は人の家に勝手にしのびこんでる立場の人間だぜ。明かりなんて不用意につけたら、住民に気付かれるかもしれないじゃないか」
もし自分が強盗ならば、住民からの抵抗は出来る限り防ぎたい事態だ。後で脅して縛るなりするにしても、侵入を先に気付かれ、防御の体制をとられては後々面倒である。そのため、バレないよう注意を払い、迅速に住民の自由を奪い、速やかに目的を達成することがベストであると思うが、今回はどうにも違う。
春臣は頭を捻る。
どう見ても、無用心すぎる強盗だ。
先ほどだって、春臣は気がつかなかったものの、媛子に不審な物音を気づかれているし、部屋の明かりまで点けている。さらに先ほどから、居間でごそごそと動いているだけで、一向に移動する気配がない。
やる気があるのか、とすら疑ってしまう。これではあまりに杜撰だ。
「春臣、止まれ」
階段に足を下ろそうとして、媛子が静止を促した。
「何だ?」
「なにやら声が聞こえる」
「まさか、複数犯か」
春臣が足を戻す。これは想定していないことだった。もしかすると、ここにいる自分をどう処分するかを話し合っているのかもしれない。そう思って身震いする。
が、媛子は簡単に否定した。
「いや、一人のようじゃ」
「は? じゃあ独り言か?」
春臣は心底拍子抜けする。独り言、なんだよそれ。住民に声を聞かれたら、一発でバレるだろうが。本来ならば、携帯で通報されて終わりだろうが。
呆れて頭を掻き毟った。
強盗、お前、絶対やる気ないだろ。
「何か悩んでおるようじゃ。見つからない、と」
「どうやら相当お馬鹿さんらしいからな。探し物なら自分の家でやれってんだ」
ずいぶんと緊張感が緩みそうになるものの、用心して、音を立てないように階段を下りる。廊下をすり足で進み、細い明かりが漏れている居間の襖を目指した。
ここまで来ると、媛子が言っていたように何者かの声も聞こえた。ぼそぼそとつぶやいている。本当に独り言のようだ。
強盗なんて大胆なことをするわりに、ずいぶん内向的な人間である。
春臣はそっと襖の前に立ち、隙間から中を覗こうとした。媛子がもぞもぞとポケットにもぐりこむのが分かる。乱闘になったときの準備をしているのだろう。
が、そのときだった。
「くそ、本当にあいつらどこに仕舞ったんだ!」
強盗が苛立った声を出し、畳を不機嫌に歩いてくる音が聞こえた。襖の前で硬直する春臣。
まずい。どうやら相手は春臣たちの方へ向かってきているようである。逃げるか、とも思ったが、すぐさま隠れられそうな場所もない。いったいどうする。
しかし、もう無駄だった。
襖が誰かによって開けられる。
「うわっ!」
突然飛び込んできた眩しい光に春臣は目を細める。侵入者が目の前に立っていた。
「なんだ!」
これは相手が叫んだ。どうやら男で間違いないようだ。目の前に人がいたのが予想外であったのか、驚いている。
「お前、いったいどこから……」
入ってきたんだ! そう怒鳴ってやりたかった。しかし、
「あんた、誰だ? ここで何やってる!」
先に言ったのは男だった。
それはまるでとんかちで頭を殴られたかのような衝撃だった。人に家に忍び込んでおいて、何をぬけぬけとそんなことを。
「それは、こっちのセリフだ!!」
怒鳴りながら目を開けて、相手の姿をしっかりと見る。ふざけるんじゃない。しかし、さらに罵声をぶつけてやろうと思った口が開いたままで塞がらなくなった。
なんと、彼は春臣と面識があったのである。
「なんで、何で?」
「あ、あんた……」
ポケットの中でぴくりと媛子が震えた。彼女にも彼の正体が分かったのだろう。
「ええと、何で?」
上手く呂律が回らなくなった春臣は、夢を見ているような気分になる。
目の前の男は間違いなく、夕方、自転車に乗り、自分とぶつかった少年だったのだ。