33 闇夜の侵入者 2
突然、耳を引っ張られる痛みに、春臣は目を覚ました。
「なんだ?」
そう呻いて目を開けると、周囲は暗闇である。ということはまだ朝ではないということだ。上半身を布団から起こし、枕もとの時計を見ると、蛍光色で光る針は午前一時を示している。
「夜中、だよな」
自分を起こした物の正体を確かめるため、電灯の紐に手を伸ばしかけた。と、聞こえてくる声に気がつく。
「春臣、はーるーおーみ、明かりをつけるでない」
足元、薄暗くて判然としないが、媛子がいるようだ。僅かな月明かりが次第に彼女の輪郭を映し出す。目が慣れてきた。
どうやら彼女は自力でベッドである缶の箱から抜け出したらしい。最近は微弱ながら力を使えるようになったため、少しなら宙を安全に浮遊できるということらしかった。
が、春臣は困ったように腕を組む。
表向きには移動範囲も広がり、利便性があるのだが、それによって真夜中に悪さをするようになっては、とてもじゃないが看過できない。
「寝込みを襲うとは、媛子も卑怯だな。俺の耳を引きちぎろうとしたのか?」
中腰になり、枕もとの媛子と視線を合わせた。
「違うわ、馬鹿者。少し静かにせんか」
口元に指を置く彼女は、どうにもそわそわとしている。
「静かに? どうして? それに、こんな夜中に俺を起こして何の用だよ。明かりを点けるとダメなのか?」
「じゃから、静かにせよ。何か、悪い予感がするのじゃ」
「悪い予感?」
春臣は目を擦る。さすがに神である媛子のその発言は聞き捨てならない。人間では感じることの出来ない、不思議な力を神が感知しているのだとすれば、下手に逆らわず、言う通りにするべきだろう。
が、彼女はその先の詳しい説明はせず、耳元に手を当てた。周囲の物音に耳をそばだてている。
表情がふと、固くなった。
「やはり」
「何が、やはりなんだ?」
「家に、誰かが侵入しておる」
「……!」
緊張が走った。深呼吸をし、肩ひざをつく。春臣ももっと慎重に耳を澄ませた。すると、彼女の言う通り、階下から謎の物音が聞こえてきた。猫やねずみではない。
誰かが歩き回っている!
「強盗か?」
「何じゃ? それは物盗りのことか?」
「そういうもんだ」
「この家にか?」
「そう考えるのが妥当だろう。普通なら、家に入るときは玄関のチャイムを鳴らすのが常識だ」
「……じゃとすれば、その強盗とやら、ハズレの家を選んだの」
「どうして?」
「ここには春臣の貧相な財産しかない」
「……」
確かに全く持ってその通りなのだが、この状況で言われると突っ込めばいいのか迷ってしまった。
しかし、それにしても強盗だとすれば、どうやってこの家に入ってきたというのだ。戸締りはきちんとしているはず……。
「近所の椿の家ならば少しはマシなものがあろうに」
すると、彼女のふいの言葉を弾みに春臣の思考の足跡が蘇る。
椿が言っていたことだ。この辺りは空き巣などの犯罪が起こったことがない。近所は皆ノーロック派ということ。
そして、今日の午後、媛子と外出した際、縁側のガラス戸を施錠したか確認していなかったという事実に行きつく。
「しまった……」
なんというミスだろう。
いつもならば、そんなことはしないのに。
全く、媛子がデートなんて言い出すから。
が、今はそんなことを後悔している暇はない。
「春臣。どうする?」
媛子の真剣な顔。
春臣は閉口した後で、思考をめぐらした。どうすればいい。ここに留まっていても、遅かれ早かれ、強盗はやってくるだろう。
「春臣、良い事を思いついたぞ。電話じゃ、電話で助けを呼べばよい。テレビで見た。ええと、ひゃく、とーばんじゃ」
「そうか。ナイスアイデ……」
言いかけて、その提案の盲点に気がついた。
「ダメだ」
「どうしてじゃ?」
「この部屋の電話の子機の使用状況はこの部屋の真下、誰かがいる居間の親機のディスプレイ画面に表示されるんだ。俺が通話していれば、すぐにバレる」
「う……そうか。それでは無理じゃな」
不運なことに、携帯電話も階下で充電器に繋ぎっぱなしだった。これで連絡の手段は絶たれた。春臣たちは孤立無援だ。
と、すれば、こちらから打って出るか。武器になるものを持って、強盗を返り討ちにしてやろうという計画である。
しかし、それにはかなりのリスクが伴う。乱闘になれば自分が無傷で済むという可能性は極端に薄くなるだろう。下手をすれば大怪我だ。
されに、相手は堂々と民家に侵入してきている人間だ。それなりに武器となるものを所持していると考えていい。さらに言えば、相手の人数も分からない。四五人もうようよしていれば、到底春臣は太刀打ちできない状況だ。
春臣たちの状況は限りなく不利である。冗談ではなく、殺されてしまう可能性だってある。
が、ここで待っていても、事態が好転することはない。
「春臣?」
「媛子、媛子はここにいてくれ」
「な、なんでじゃ?」
男なら腹をくくれ。きっと祖父ならそう言うだろう。
「俺が下に様子を見てくる。危険だと思うから媛子はここにいてくれ」
「一人で行く気か?」
「ちょっと様子を見に行くだけだ。心配するなよ」
「何を言うておる。心配じゃ。わしも連れて行け」
彼女はいやいやと首を振る。
「それは有難いが、正直、今の媛子じゃ何も出来ないだろう? 強盗を撃退できるか?」
「そ、それは出来ぬ」
「だろ? だから、大人しくここにいてくれ。媛子を危ない目に会わせるわけにはいかないんだ」
不純物のない透明な瞳で春臣は彼女に訴えかけた。手の平は間違いなく汗ばんでいる。怖くないと言えば嘘になるが、このまま逃げ出せる状況でもない。
ならば、自分で自分に渇を入れるのだ。
「春臣……」
「俺は冗談ではなく、本気で頼んでるんだ。この家の主は俺。敵が侵入してきたら立ち向かうのが、俺の役目だ」
感情を抑えるためか、彼女は口元を服の袖で隠す。その様子には戸惑いと逡巡の影があった。
しばらくしてから、口を開いた。
「……ならぬ」
「何でだ?」
「よいから、机の上の榊の葉を取れ」
「え?」
すると。
しゅるり。
媛子は服の袖から長い紐を無造作に手繰り、取り出した。それが彼女の手に絡み、ぴんと張る。
「確かに、わしは神として本来の力を使えん。家に侵入した無法者を捕らえることは無理じゃ」
しゃりん。
今度は逆の袖から、彼女愛用の神楽鈴を取り出す。それが力強く鳴った。
「しかし、そやつがお主を攻撃をしてきたとき、一、二度は攻撃を防ぐことぐらいは出来る」
そう言う彼女の顔つきは強く引き絞られた弓のような瀬戸際の覚悟があった。くっと結んだ口元は血色がよく、つややかである。
「ほ、本当か?」
春臣は彼女に榊の葉を手渡す。そうなると、かなり心強い。
すると、彼女は手馴れた様子で、葉を背中に立てかけ、紐を回し、胸元で強く結ぶ。
きゅるり。
「緋桐乃夜叉媛は、お主とともに行く!」