3 緋色の幻
祖父の、もとい、一人暮らしの自宅に戻ると、叔父はすぐさま帰りの支度を始めた。
「もっと早く帰る予定だったからなあ」
意外にも杉下家で時間を食ってしまったために叔父はかなり慌てているようだった。
「カミサンにどやされるからなあ」
などとぼやきながら、そそくさと荷物をまとめ、軽トラックに乗り込む。はやく帰らないと晩御飯は抜き、ということだ。春臣はあまり知らないが、どうやらかなりの恐妻らしい。
「一晩くらい泊まっていってもいいんじゃないですか?」
と春臣は引き止めたが、彼は明日は仕事だからと断固として首を振った。さすがにここから仕事場に向かうには遠すぎるのだ。少々残念な気がしたが、仕方ない。
そして準備を済まし、エンジンがかかると、ヘッドライトが夕闇を照らすと、叔父は元気に、
「しっかりやれよ」
と春臣に手を振ってくれた。
「俺も時々は様子を見に来ると思うが、分からないことや困ったことがあれば、町の人たちに聞けばいいからな。もちろんあの杉下さんの家の人も頼っていいぞ」
「はい、今日は一日、ありがとうございました」
春臣はそうお辞儀をして、あっけなく消えていく叔父のトラックに手を振った。
そして、いよいよ、一人になった。
なんとも、体の支えになる杖を失ったような心地である。
家の前にしばらく名残惜しく立ち尽くしていたが、西方の山々に消え行く夕陽の残光を見ていると、とても我慢できないほどの寂しさがこみ上げてくるようで、思わず目を逸らし、家の中へと引き返した。
しかし、春臣は玄関の扉を閉めながら、叔父が最後に言っていた言葉を思い出す。
困ったら誰かを頼ればいい。
それを思い出して、とても心強い気持ちになる。
これからは、生活を一人で組み立て、確立していかなければならないが、やはり最初はそれも全てうまくいくわけではないだろう。
春臣だけではなく、それは全ての人に当てはまる事実に違いない。
しかし、そんな時に周囲の人間との繋がりというのは、ありがたい。
きっと一人暮らしで、いざという時の支えが周囲に構築されているかということも大切なことなのだ。
人はいつでも一人で生きていけるものではない。
それは間違いない。
春臣はそれを静かに確信する。
そういえば、と思い出したのは、夕食を平らげ、居間でテレビを見ているときだった。
春臣が贔屓しているチームが連続のホームランとヒットを浴び、軽い絶望感に浸りながら、ホームベースを踏む選手を眺めていると、実況中継のアナウンサーが途中で勝利の女神がどうのという表現を使ったのが耳に入った。
そう、女神。神、だ。
杉下老人が帰り際に話していたことである。
「神棚が、どうとかって言ってたな」
確か話ではあの祖父が熱心に毎日拝んでいたらしい。
祖父の考えも変えてしまうほどに、神に祈るということはそれほどすばらしいことなのだろうか。
そう思うと、春臣にうずうずとした興味が湧いた。
荷物を運び込む時には気がつかなかったのだが、いったい家のどこに設置してあるのだろう。
野球中継をしているテレビを切ると、立ち上がって、神棚のありかを探した。春臣の中で昔見た、そのイメージが蘇る。
大抵、部屋の天井近くにあるんだよな。
そう推測して、早速捜索に取り掛かる。
しかし、案外すぐには見つからなかった。
一階の居間にはないし、他の台所、風呂場、トイレ(あるとは思えないが)、玄関など見渡したが見当たらなかったのである。
となると、残るは二階だ。
階段の明りをつけ、一歩一歩上っていく。
ギシギシ。と板が軋む音。
考えてみれば二階にはタンスと勉強机を祖父が寝室に使っていた小部屋に運んだだけで、それ以来足を踏み入れていない。
あの時は重い机を落とさない集中していたせいもあり、よく見ていなかったのだろう。
小部屋でなければ、その向かいにある物置部屋だが、そんな薄暗い場所に神棚を設置するとも思えない。
電気をつけ、部屋に入ると、案の定、勉強机の真向かい側の何も無い壁の上に神棚はあった。
「これ、だな」
春臣の視線の先に、見事なお社の模型が壁に吊ってある。知識がないもので、よく分からないが、その神社を模したと思しきミニチュアには文字が書かれた三枚の御札がはめ込まれている。
そしてその手前には、円形の鏡。それから捧げ物だろうか? なにやらお皿や、花瓶のような置物、何かの木の枝が差し込まれている。
さらに社の上には神の偉大さを示すような注連縄が取り付けられていた。
全体をみると、部屋のそこだけが異空間であるような厳かで神聖な雰囲気が漂っている。
やはり神がいる場所だからだろうか。
「とりあえず、礼拝か?」
そう独り言を言って春臣はその場で正座をする。
杉下老人に言われた通りに、ここへ越してきた報告を兼ねて、これからの無事な生活を祈ることにした。
「……ええと」
何度か手を叩くのだっただろうか。逡巡する。
そこで春臣は拝み方をすっかり忘れていることに気がついた。確かそういう作法があったはずだ。
この少年、実はいつも初詣に行くときにいつも親から教えてもらっていたのだが、その度に忘れてしまうのだから、情けないことである。
適当でいいか、春臣は妥協し、二度手を叩き神棚に向かって拝んだ。
目を瞑り、初めてではあるが真剣に、心の中で神への祈りを捧げる。
そして、数秒後だった。
春臣の体に奇妙な変化が訪れる。
ふいに額に汗が流れたのを感じたのである。
あれ、今日はそんなに暑かっただろうか。
変に思い、拭おうと額に手の甲を当てると、
「冷たい……」
今度はなんと手のひらがずいぶんひんやりと冷たかったのである。まさか、と思うが引越し早々、風邪でも引いてしまったのかもしれない。
これは参った。
先が思いやられるな。
苦笑しながら目を開け、立ち上がろうとして、再び違和感に気がつく。
なんだ?
部屋が揺れている気がする。心なしか、部屋の蛍光灯の明りが弱まったようだ。
「あれ?」
そして、なぜか春臣は気持ちが意味もなくすとんと落ち込むのが分かった。
家の中にいるのに、まるで深い森の暗がりに立ち、周囲で木々がざわめいているような、言葉にしがたい漠然とした恐怖を感じていた。
それは世界中から自分以外の人間が消えてしまったような、絶対の孤独の闇に佇んでいるような、そんな心地である。
畳に肩膝を突きながら、見上げると、今度は神棚の様子がおかしい。
そこだけ、空間が歪んでしまったように、空気が揺らいでいる。ちょうど、夏の日に遠くの道路のアスファルトを見たような、あの感じ。
陽炎だ。家の中に陽炎が立ち上っている。
そして、聞こえてくるのは、
しゃりん、しゃりん、しゃりん。
鈴の音。
しゃりん、しゃりん、しゃりん。
近づいて、遠のいて。
しゃりん、しゃりん、しゃりん。
確かに、耳元に響く。
しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん、しゃりん……。
夢でも見ているような薄ぼんやりとした意識の中、春臣は見た。
目の前に蛍のように儚げな光が現れるのを。
そして、次第にその周囲の空間に何かの輪郭が浮かび上がってくる。
それは、人間。
それも少女のようだ。
古く、平安時代を髣髴とさせる、艶やかな色彩の十二単を身に纏い、優美な笑みを湛えている、少女。
薄紅の艶めいた柔らかそうな唇、白い肌の中央にすっと通った鼻筋、袖からは人形のようなか細い指先が覗いている。
それだけを見れば普通の人間だが、唯一ただものではないと感じさせ、春臣の目を引く部分があった。
その少女が簪で纏めた、繊細そうな髪の色だ。
紅い。
一目見て、春臣は心の中で、そう呟く。
そう、彼女の髪はまるで消え行く夕陽の光に浸し、染めたように、燃え盛る炎のような鮮やかな緋色をしているのである。
しかもその紅の髪は蛍光灯の光を受け、金色の煌めきを見せていた。
さながら、その髪の毛一本一本に幾ばくもの星の輝きが閉じ込められているようでもある。
春臣はその美しさに思わず、息を呑んだ。
そして、その美しい少女を見つめたまま、気がつかないうちに気を失っていた。