27 Rainy holiday
作者のヒロユキです。
今回は雨の休日をテーマに、それが持つ独特な低血圧感を書いてみました。 これは今までにないほどにゆるく、正直どうでもいい話です。
その点をご了承(するほどのこと?)の上、お読みください。
風が邪魔な雲を追い払ったように、文句なしの快晴だった前日の天気から一変、今日は空がブラインドを下ろしたような、黒い雨雲が広がっていた。
明け方から降り出した雨は、地面を叩く強さを保ったまま、庭のくぼみにいくつもの水たまりを作っている。無防備に足を突っ込んでしまえば、ずぶぬれは間違いないだろう。
まるでこの雨空は、天気の神さまが『人間たちよ、今日一日は外に出るでない』と命令しているようにも思えた。
テレビの降水確率を観れば、どこか逃げ場の無い絶望感を漂わせる100パーセント。
暇を持て余している春臣は、座布団を枕代わりに朝から代わり映えのしない外の景色をちらりと眺めた。
全く、せっかくの休日だというのにこの様だ。
そして、傍らに置いた湯気の立つコーヒーを啜ると、読みかけの漫画のページを捲った。最近読み始めた野球漫画だ。雨の中、ずぶぬれの主人公ががむしゃらにバットの素振りをしている。ライバルチームに勝つための練習だということだが、それで風邪をひき、チームに迷惑をかけることになれば、とんだ身勝手な行為だろう。
雨の日は無理をせず、大人しく家にいるに限るのだ。
春臣は漫画を読みながら、まるでそれがこの世の一つの真理であるかのように心の中で呟いた。
「それ、これが7じゃ」
すると、近くから姫子の弾んだ声が聞こえた。春臣は無意識に目を向ける。彼女は真横の卓上に乗っており、幾重かに重ねられた着物の上から紐を通し、背中に榊の葉を括り付けていた。
それは彼女が外の世界で存在するのに不可欠なもので、解けてしまえば彼女の命にも関わる事態になってしまう要の葉である。
しかし、彼女はそれを忘れているのか、危うく紐が解けてしまいそうなほど、ゆさゆさと身体を動かし、机の端から端へと歩き回っている。
テーブルの上にはばらばらに裏返されたトランプが散らばっており、今また姫子は着物の裾を払いながら小走りで移動し、一枚のトランプの上に立った。
「よし、確かこれも7じゃ」
そして自信ありげによいしょと捲ると、確かに裏返ったカードはスペードの7。
「あ、あかん。そこも取られてしもたか」
すると、彼女の向かいに座っている椿は、してやられたと額をぴしゃりと手のひらで打った。
どうやら二人はトランプの神経衰弱に興じているようである。退屈な雨の日の気ままな暇つぶしということだろう。さりげなくそれぞれが取ったカードの山を見ると、姫子が十ペアほど、椿はまだ二ペアほど。すでにかなりの差があるようである。
「ふっ、この程度か、椿。所詮、神と人とには歴然な力の差があるようじゃ。ほれ、そろそろ降参してはどうじゃ?」
優位な立場の姫子は、挑戦的に言い放つ。きっと全てのトランプが表にされた時には、さらにその口調は高圧的になっていることだろうと、春臣は思う。なぜなら姫子はこの手の勝負で対戦相手に手加減をするなどという情けを知らないのだ。
「む、うちはまだまだ負けへんで。逆境こそがうちに真の強さを与えてくれるんや。ここからが勝負どころやで」
しかし、椿はそう返すと、腕まくりをしてまだ戦意があることを見せた。
「諦めの悪いやつじゃのう。仕方ない、完膚なきまでに叩き潰してくれるわ」
冷酷なほどに抑揚の無い言葉で姫子はすぐ右の一枚を捲った。裏返るカードは、ハートの13。姫子の長い眉がぴくりと動く。
「外せぇ、外せぇ……」
怨霊のような椿の声が響く中、彼女は緩慢な動きで、迷う事無く、左斜め後方の一枚の数歩前で歩みを止める。そして、カードに手を触れるのかと思いきや、片手の手の平を口元まで持ってきたかと思うと、ふっと軽く息を吹きかけた。
すると、見えない手が伏せられたカードを持ち上げるようにそれが宙で回転し、くるりと腹を見せて寝そべる。
「嘘や……は、ハートの13」
目を何度も擦った後で椿が奇跡が起こったかのようにそう言った。
「ば、ばたんきゅーや」
机上に倒れ伏し、椿が降参の言葉を口にするまで、ものの五分もかからなかった。
姫子の側には厚みのあるトランプの山が築かれており、彼女は王座に座る王女のようにその上に腰掛け、勝者の笑みを湛えている。
春臣はしばし漫画のことを忘れて、その勝負を見ていたのだが、ほとんど椿が手を動かさないまま、姫子が机の上を走り回っていた印象しかなかった。予想していたとはいえ、ここまでコテンパンにするとは、神様も酷なものだ。
「口ほどにもないやつじゃ。豆腐のほうがよっぽど歯ごたえがあるぞ」
さらなる姫子の言葉に椿は恨めしそうに机の端に顎を乗せ、ため息をついた。
「姫子ちゃんにこんなに圧勝されるなんて、さっきルール教えたばっかやのに」
「そんなことは関係ないぞ」
ふふんと姫子は鼻をならす。
「お主とは基本的な能力に差があるのじゃ」
「の、能力の差?」
「わしは一度でも表にされたカードの九割は即座に暗記できる。同じカードを捲るという単純なルールの上で重要になるのは、何戦を戦い抜いてきたかという経験ではなく、ただ瞬間的に数と配置をどこまで記憶できるかという能力じゃろう」
神経衰弱の本質はすでに見抜いたと姫子はカードの王座から飛び降りる。胸元に括った紐を微調整し、さて、と言うと居間の時計を見上げた。
祖父が使っていたその古いハト時計は、木の葉を模した振り子が揺れ、細かく木目が掘り込まれた丁寧な作りの一品で、一時間ごとにに鳥のさえずりが聞こえる機能は故障してしまっていたが、時刻を示す針は狂うことなく動き続けている。
「いつの間にか、昼の一時か」
彼女は目を細めながら長針を読む。朝から薄暗いだけの外の様子は、こうしてたまに時刻を確認しなければ、時間の経過を忘れさせる。
春臣もそれを確認してから、もうそんな時間かと思った後で、まだそんな時間かと思った。
そう言えば、昼食も食べていない。家の中に居て、ろくに活動していないせいか、腹の減りも鈍足なようだ。
「二人とも、何か食べるか?」
春臣は聞きながら、脳内で冷蔵庫の中身を確認する。しかし、大した戦力にならないものしかないような気がした。スーパーで購入したポテトサラダの余りと、料理本を見ながら悪戦苦闘して作った肉じゃがだ。
少々豪華な猫のえさといったところか。春臣は自嘲気味にそう思う。
「……インスタントのラーメンでもいいか?」
残された選択肢を口にすると、姫子は案の定渋った。
「ううむ。もっと食欲をそそるものはないのか?」
「残念ながら、ない」
「では用意して来い」
ほぼ即答で姫子が言い返す。
「無理言うなよ。こんな天気じゃ、外に出る気分も失せるんだよ」
やる気のない春臣は、脱力した半眼でそう言った。昼飯のために服を濡らすのはわずらわしかった。
すると、弾けるように立ち上がったのは椿だ。
「よっしゃ、ここはうちに任しとき」
ぽんと胸を叩く。
「青山、何か案があるのか?」
春臣が訊くと、彼女は部屋の隅に置いていた自身のリュックからいくつかの布に包まれた弁当箱を取り出した。机の上にひょいとならべ、へへえ、と笑ってみせる。
「椿、なんじゃそれは」
興味津々の姫子は早速その包みを解こうと、よじ登ろうとしていた。
「サンドイッチやで。今日の朝、早起きして作ったんや」
「作ったって……これ、一人で食うには多すぎないか?」
包みは全部で三つあり、彼女の胃袋に納まるには明らかに充分すぎるほどの量だ。
「ちゃうちゃう、皆で食べようと思たんや」
「皆で?」
「ほんまは今日、皆でピクニックに行こうと思てたから、これを準備したんよ」
「ピクニックって、この雨だぞ」
素っ頓狂なことを言い始めた椿に、春臣は窓の外を指差しながら言う。
「そうやんなあ、サンドイッチよりもてるてる坊主をぎょうさん作らなあかんかったわ。失敗やわ」
「いや、仮にそうしたとしてもそう思い通りに解決しねえよ。天気予報を見れば分かるだろ、降水確率は100パーセントだ」
雨だというのに、朝早くから椿が来たわけはこういうことだったのか。春臣はそう思って、肩を落とした。
「……それで重そうなリュックを持ってきていたのか」
「えへへ、コーヒーもあるで」
そう言って、彼女は魔法瓶を取り出す。その蓋を外すと、香ばしい匂いが辺りに漂った。
「ほら、榊君も座りぃな」
「……そうだな。せっかく青山が作ってきてくれたんだ。有難く食べさせてもらうか」
座布団に座ると、椿はすぐに弁当箱の包みを解いて、三人の前に一つずつ置いた。小さな姫子に一人分の弁当箱は、明らかに多すぎるが、彼女は嬉しそうに鼻歌を歌っている。飲み物が全員に行き渡ると、椿が音頭をとった。
「ほな、食べようか」
ぱらぱらと拍手が起こり、少しの遅めの小さな昼食会が始まった。
春臣は、弁当箱の蓋を開ける。いったいどんなものだろうと、半ば恐る恐る中身を覗いたのだが、至って内容はシンプルだ。
柔らかそうな食パンに、新鮮そうなレタスとたまご、ベーコンなどが挟まっている。見るからにおいしそうである。
「おお、うまそうじゃのう」
きゃいきゃいと姫子ははしゃいだ。
「い、意外だ」
「何がやの? 榊君」
つい、口元からこぼれた言葉を椿は聞き逃さなかったようだ。追求の矢が間髪入れず、飛んでくる。
「えっと、青山のことだから、もっと珍妙な具を入れてるのかと思ってたけど」
「ちんみょうな、具?」
「たこやきとか、納豆とか、イナゴの佃煮とかさあ。そういう類だよ」
「な、なんやのそれ、うちはそんなもん入れたりせんで」
全くもって心外だ、と椿は怒ってしまったようで、ぷいっとそっぽを向く。これは迂闊な発言をしてしまったと、ばつが悪くなり、春臣はすぐに謝った。
「ごめん。ちょっとした単なる冗談だよ」
「さっきの目ぇは、マジやったと思うけど」
春臣はさらに批難の追い討ちをかけられてはたまらんと、すぐにサンドイッチを口に入れる。
「ああ、旨い。すごくうまい。こんなサンドイッチ人生で初めてだ。いやあ、おいしいもの食べると心が豊かになるよねえ」
我ながら白々しいものだ、と苦笑しながらも、口に押し込みながらの棒読みの絶賛。しかし、これは……。春臣の手が止まる。
「もう、そうやってごまかすんやね」
「そうじゃないよ。本当においしいって。これならいくらでもいける気がする」
「うむ、まことに美味なるぞ。椿」
姫子はサンドイッチの端から齧りついている。
「ほ、ほんま?」
椿は目を丸くする。
「本当だって」
「本当じゃ」
もちろん、春臣たちの言葉に偽りはなかった。それを聞いた椿も一切れを手に取り、ぱくりと一口。
「……おいしい」
「じゃろ?」
しかし、なぜか椿は浮かない表情で頷く。
「どうした?」
「……こんなおいしいんなら、外で食べたかったなあ」
「……」
「ピクニック行きたいなあ」
「ああ、残念だよな。でも、この雨だし」
「うーん。てるてる坊主、今から百個作ったら間に合わんやろか?」
そう言ってさりげに横目で姫子と春臣を見る。すかさず春臣は、彼女から次の言葉が出る前に牽制した。
「言っておくが、やるなら一人で頼む」
いかがでしょうか。
読者の方が口々に「どうでもいい」とこぼしている様子が目に浮かぶようです。
すいません、この話、まだ続きます。