24 つばき、憂鬱フォンコール 2
うちはしばらくそのまま、ランチのオムライスのことをすっかり失念しまして、呆然と榊君の携帯電話を見つめておりました。
メタリックな黒いボディでつやつやと光る、近未来の車を連想させるような携帯電話です。
そして、これがあの、人の秘密を溜め込むことで有名な機械です。
人には他人に知られたくないいくつもの隠し事、秘密がありますが、これだけ世界に普及し、いつでも持ち歩け、お財布に次いで個人情報の漏洩の危険のある代物はそうそうあるものではありません。自分の情報はもちろんのこと、家族、友人関係まで知ることができ、充分悪事に利用できます。大変危険な物と言えます。
それはさておき、うちは一応常識人です。
この場合、行うべき処置としては誰かに持ち去られてしまう前に携帯電話を安全に保護し、速やかに持ち主に返すこと。それが常識です。うちの良心だって、それが一番だと申しております。
なのになぜなぜ、それをためらっているうちがいました。
どうしてかと申しますと。
つまり、今、うちがその携帯のボタンとちょちょいといじれば、榊君がつい今しがた通話していた人物の情報が得られるわけです。その気になれば、ものの五秒もかからないでしょう。リモコンでテレビを点けることに匹敵する手軽さです。
その絶好のチャンスをうちは有しているわけです。これを逃せば、チャンスは時の気まぐれ、いつ機会が巡ってくるか定かではありません。
ただボタンを押す。それだけならば、特に証拠も残りませんし、彼に悟られることもありません。
彼がいつも誰と電話をしているのか、うちはずっと気になっていましたが、彼はいつもはぐらかすばかりでこちらの我慢も限界があります。当然、知りたいという好奇心が沸き立ちます。うちとしては延々とご飯をおあずけにされた犬の気分でした。
このため、うちにはその行為を正当化できる理由があると思われます。
しかし、その誘惑に駆られながらも、うちは必死で抵抗しました。さすがにそれは人としてあかんこと、榊君の信頼を裏切る行為です。
たとえ、彼が気がつかず、そのまま事無く過ぎ去ったとしても、うちは十字架を背負い坂を上る奴隷のごとき、死ぬまでの長き苦痛を味わいながら生きることでしょう。
と、これはあまりにも大げさかもしれませんが、隠し事は後味のいい行為ではありません。そんなことをしてしまえば、ランチの味もまずくなるというものです。
よっしゃ。
うちは決心します。
自分の良心に従って、榊君にお届けすることにしました。決心が鈍らないように、即、行動です。
しかし、後ろを振り返ってはっとします。もちろん、彼の姿はもう影も形もありません。彼の話から推測するに、食堂に向かったのでしょうが、昼時の込み合う食堂内ではお互いどこにいるのか、きっと分かりません。
頼みの綱である連絡手段の携帯電話はうちの手の中にあるので、それも使えないとなると、出会えるであろう天の運命にかけるか、午後の講義の時に返すしかありません。
その前に榊君本人が無くした事に気づき、取り戻しにきてもらえればいいのですが、うちとしても、それまでここで待つというわけにもいきません。
どうしようかと腕組みし、思案している内に予想外のことが起こりました。
携帯電話が着信をしたのです。緑色の光が点滅し、振動が低い唸り声で持ち主である榊君を呼んでいます。
あ、あかん。どないしよ。
しかも、突然の事態に驚いたうちは、あろうことか、電話を取り落としそうになり、手の上で少々お手玉した後、その拍子に通話ボタンを押してしまいました。プツリ、と僅かな接続音がしました。
全くなんたる失態でしょうか。
「おーい、春臣か?」
間髪入れず、受話口から女性の声が聞こえます。こうなると後には引けません。意を決したうちは、何を思ったか、咄嗟に声を低くして返事をしました。
「も、もしもし」
「春臣か?」
「そ、そうや」
「今の話の続きじゃがな、言い忘れたことがあっての……」
今の話の続き?
うちはその言葉にピンときました。
そうです。この人物こそが彼、榊君の親しげに話している謎の女性らしいのです。なんという不運でしょうか。うちとしてはこんなにも唐突で、虚を衝かれた出会い方をしたいとは望んでいませんでした。
しかも声だけ。
その上、血迷ったうちが榊君の振りをしているという、異常な状況です。
この世に神様がいるとしたら、なんと酷なことをなさるのでしょうか。うちの日ごろの行いが悪いのでしょうか。出来ることなら是非、異議申し立てをしたいと思います。
「……うん? お主、本当に春臣か?」
すると、早くも電話の向こう側はうちの声の違和感に気がついたようです。
「そ、そやけど。どないした?」
必死に冷静を装いますが、その女性は言葉に疑いの色を濃く漂わせます。
「ずいぶん、声が高くなったのじゃな。それに、話し方も変わったような」
そこでうちははっとします。そうや、うちは生粋の大阪弁。榊君なら、標準語で話さないとあきません。すぐさま、脳内の小人がスイッチを切り替えます。
「そうか? そんなことはないと思うけど」
「……? まあ、よいか」
女性はそう言ってとりあえず溜飲を下げたようでした。
「話の続きって何のことだよ?」
「そうじゃそうじゃ、お主に言い忘れたことがあっての。お願いがあるのじゃ」
「お願いって?」
「ほれ、今日は水曜日、三丁目の洋菓子店の特売日じゃろう?」
「ケーキの特売!」
これにはうちも黙っておけません。女子たるもの、甘いものには目がないものです。そんな耳よりな情報は聞き逃せません。
うちは即断即答します。
「買う!」
「へ?」
「絶対、買いに行く!」
「あ、た、頼むぞ……しかし、今日は妙に聞き分けがよいの。気持ちが悪い」
女性の声が明らかに受話器を遠ざけたようで、小さくなります。
「心配しないで待っていて欲しい」
「そうか、それじゃあ、楽しみに待っておるぞ」
それで通話は切れました。
ここまで来れば、もう後戻りは出来ません。榊君に成りすましてしまった以上、目的を果たさなければなりません。もちろん、ケーキを買いに行くのです。
しかし、そこでうちは妙なことに気がつきました。着信相手は「自宅」とあります。
そうなのです。そうでなければ榊君に三丁目の洋菓子屋のお遣いを頼むはずがありません。
「榊君、一人暮らしやって言うとったのに……」
これは由々しき事態です。事態はうちが思う以上に進展していたようです。
同棲です。榊君はうちが思うている以上に大人な人なのかもしれません。一人暮らしの家から女性から電話が掛かってくるなどそれくらいしか思いつきません。
声の様子ではかなり若い女の人の風でしたので、まさか母親ではないでしょう。
そうなると、やはり導き出されるのは……同棲。
女性と、同棲。
うちが男の人と、同棲……。
とても想像なんてできません。それだけでほっぺが熱くなりました。却下です。
しかし、それにしても妙だったのは、その女性の話し方です。うちも大阪弁を指摘されましたが、彼女の話し方は現代人ではないというか、平安時代の貴族のような、とても古風なものでした。女性で語尾に「ぞ」や「じゃ」をつける人物など、うちは生まれてこの方お目にかかったことがありません。
いったい榊君と同棲しているらしいこの女性は何者なのでしょう。ますます興味が湧いてきました。
「おーい」
すると、急に背後から声をかけられました。
「ふへ?」
「それ、俺の携帯だよな」
気の抜けた返事をし、振り返ると、榊君が立っていました。うちは立て続けに起こる想定外の事態に、思わずどぎまぎしてしまいまいます。呂律がうまく回りません。
「あ、ああ。せやねん。榊君が落としてたから、渡しに行こうと思ててん」
「その割には大事そうに握ってさ、中身を覗こうとしてたようにも見えたんだけど」
「ちゃ、ちゃうねん。これはそうやないねん。別に着信履歴を見ようととか、そんなこと……」
うちは掘った墓穴を咄嗟にごまかそうと口の中でもごもごとしてしまいます。
「はあ?」
「と、とにかく返すわ。大事なもんは落としたらあかん。ええか? ちゃんとポケットに入れておくんや」
「ああ。分かったよ。拾ってくれてサンキューな」
「礼はいらへんよ。これくらい大したことやない」
うちは首をぶんぶんと振ります。でも、そこでふいに名案を思いつきます。
「せや、ついでといったらなんやけど。榊君にお願いがあるんや」
「お願い?」
「今日、榊君の家に行ってもええか?」
「お、俺の家に?」
彼の表情が一瞬歪み、動揺するのが手に取るように分かりました。うちは内心にやりと笑います。
当然です。誰か女性と同棲しているなら、他の女を家にあげたくないに決まっています。
「ど、どうして? 突然……」
うちはここぞとばかりに寂しげな表情でいじけた風に言いました。
「え、駄目やの? つれへんなあ。別にそんな長居するつもりはないって。近所やし、ほんのちょっと家にあげてくれるだけでええねん」
「ほんの少し?」
「そうや、ほんのちょっぴりや。榊君がどんなとこで生活してんのか知りたいんや。それとも、うちが行ったらそんなに迷惑なん?」
「……そんなことは、ないけど。まあ、いいよ」
この返答は意外です。
もし同棲相手がいるとすると、それを知られまいと頑なに拒み続けるに違いないと思ったのですが、彼はそうではないようです。秘密を隠し通す自信があるのか、それとも、この機会にうちに紹介するつもりなのかもしれません。
それならそうで、うちも覚悟を決めます。
「ほんなら、今日、午後の授業が終わったらな」
「ああ、分かったよ」
彼は携帯電話を見つめながら、どこか思案顔のまま了解しました。
まだ見ぬ榊君の同棲相手。
その顔をうちは想像しながら、落ち着かない胸の内を軽い微笑みで隠し榊君の脇をすり抜けて、待ち遠しいランチに直行することにします。