22 神の一葉、花の宴 2
姫子は榊の葉を足元に絨毯のように敷き、その上にとてん、と座っていた。生き物の気配が皆無な夜の縁際で、初めてじっくりと眺める外の景色を堪能しているようである。
と言っても、周囲の林は闇に沈んでおり、目に映るものと言えば庭にある枯れた木ぐらいだった。水が蒸発し干からびてしまったように、その木の幹は乾いてひび割れている。知識のない春臣には何の木かさえ分からない。
一度だけ、遠くのあぜ道を原付自転車が通り抜け、姫子が物珍しそうに目を向けていた。
「せっかくの祝いの夜じゃというのに、世の中は静かじゃのう」
「そりゃ、もう深夜だし。皆眠ってるのさ」
春臣はそう言った後で大あくびをする。時計の針は日付を越えたところだ。夜更かしは翌日の講義の大敵だが、もう少しだけ彼女に付き合ってやることにした。
窓に寄りかかり、裸足の足を片方だけ縁側からぶらぶらとふらつかせ、読みかけの本のページを開いている。
「空には月も出ておらぬ。せっかくの春の宵じゃというのに」
「残念だな。満月でも拝めれば、中々いい気分になれるだろうに」
姫子はしんみりとした物憂げ顔で空を仰ぐ。
「何か飲みたいのう」
「喉が渇いてるのか」
「そりゃ、あんな賭けをした後じゃしの。心を落ち着けたいのじゃ」
「いいぜ。何が飲みたいんだ?」
春臣は冷蔵庫から何かを持ってこようと腰を上げる。確か1リットルほどのコーラがあったはずだ。以前それを飲んだ姫子は炭酸飲料の刺激的な喉越しが珍しいらしく、かなり気に入っていたのだ。
てっきり、それを頼むのだろうと思っていたが、彼女から出た注文は予想と違うものだった。
「酒じゃ」
「は?」
「酒が飲みたいのう」
まるで詩を詠むように彼女は言う。
「酒って、俺はまだ未成年だ。そんなものあるわけないだろう? それとも、買って来いってのか?」
すると彼女は空を見上げたまま、ちらりと横目で春臣を見た。
「とぼけたことを」
「はあ?」
「むふん、わしは知っておるのじゃぞ」
「な、何のことだ?」
春臣は心の内を透かし見られているようで、動揺する。というのも、もちろん心当たりがあるからだ。
姫子が薄ら笑いを浮かべ、春臣の図星を言い当てる。
「お主の叔父の、ほれ、楠と申したか? あの男がビールとやらを持ってきておったのを知っておるのじゃ」
やはり、すっかり聞かれていたのか。
春臣は唸りながら俯いた。
数日前のことだ。一人暮らしをしている自分の様子を見に来たという叔父は、なぜか話しをするついでに缶ビールを1ケース抱えて玄関に現れた。
『なあに、気が向いたら何度か来ようと思うから、買い忘れることがないようにあらかじめここに置いておくのさ』
と言いながら、早速一缶のタブを開けた叔父は、春臣も勝手に飲んでもいいから、と強引に冷蔵庫にビールを放り込んだのだ。もちろん、これは明白なことだが、毎日仕事のある叔父がビールケースを用意するほど頻繁に訪れるはずはない。
つまりは、もうすぐ成人する春臣に大人の味に慣れさせたいという遠まわしの計らいがあるのだろう。
と、こういうわけで現在、この家の冷蔵庫では春臣が充分泥酔できるだけのたっぷりのビールが貯蔵されているわけである。
春臣は、やりとりがずっと階下で行われていたため、姫子には聞かれていないと思っていたのだが、さすがは神だ。全く侮れない。
「そんなに酒が欲しいのか?」
まるで問題児を前にしているような目つきで見ると、彼女は口を尖らせた。
「こんなときぐらい、わがままを聞いてくれてもよいのではないのか?」
「何寝ぼけたこと言ってるんだよ。いつだってわがまま三昧じゃねえか」
「細かいことは気にするな、じゃぞ。さもなくば神の世に戻ったとき、お主に天罰を下す」
「ったく、調子のいい神様だ」
しぶしぶながら承諾した春臣だったが、こんな日くらい酒を飲ませても悪くはないだろうと思っていた。祝い酒という趣向は別に嫌いではない。
いつものように、彼女専用のちょこに、今日は泡が盛るビールを注いでやる。
「おう、これがビールというものか」
姫子が待ちきれず、感嘆の声を上げる。
「泡に顔を突っ込むなよ」
「分かっておる。わしはそんなみっともないことはせん」
そして、ちょこを持ち上げると、榊の葉の上で春臣を見上げた。どこか寂しげな顔つきで、何か言いたげである。春臣は春臣でグラスに注いだコーラに口をつけようとしているところだった。
「どうした?」
「その、乾杯をせぬか? わしが外に出られた記念すべき夜じゃ」
「……それもそうだな」
春臣は彼女の申し出を快諾する。
小さくカツン、と音がして、
「乾杯」
「乾杯じゃ」
二人分の声が重なった。
いつになく嬉しそうな彼女の顔を見ながら春臣はコーラを口に含む。じわりとした炭酸の刺激が喉を通り越していった。
伸ばした足がひんやりとした地面に触れ、思わず引っ込める。あぐらをかいて座りなおし、もう一度コーラを飲んだ。
ぷはっ。
姫子が至福の表情でちょこのビールを飲み干し、それを見て何も言わず、再びビールを注いでやる。
彼女の頬に心なしか、赤みが差してきたようだ。どうやら酔いが回ってきたらしい。
「旨いのう。酒はやはりいい。神の世であっても、人の世であっても、酒は旨い」
ふいに何気なく彼女が口にした言葉が春臣の心の水面を震わせた。
神の世、か。
今日は彼女が部屋を出ることができ、新たな発見があった。これは素直に嬉しい出来事だ。
そうすると、春臣の思いが夜を越えていくように、すっと時間を飛び越えていく。
きっとこれからも、こんな小さな前進を繰り返して、彼女は元の力を取り戻していくのだろうか。
そして、いつの日か。遠くない未来、彼女はきっと神の世に戻っていくのだろう。
間違いない。それは、間違いないことなのだ。
それは嬉しいことのはずなのに。
なぜか、それを思って春臣は胸の奥が微かな寂しさを感じた。
なんだろう、これは。
紛らわすように、春臣は訊いた。
「……寒くないか、姫子」
「ああ、大丈夫じゃ」
酔っているのか、恍惚とした彼女は頬にビールの泡がついているのに気がついていないようだ。
「……うむ。やはり、必要じゃな」
と突然独り言を言う。
「何がだ?」
春臣の問いに答えることもない彼女は、ちょこを置き、立ち上がると、重そうな服の袖の辺りから、何かをそっと抜き出した。
しゃりりん、と鳴った。
いつかの神楽鈴だ。
「今こそ、わしの力も使えるじゃろう」
ぐい、と口元を拭う。
「力?」
「まあ、見ておれ」
そう言っていつかと同じように自信満々に鈴を頭に掲げると、まるで天をかき回すように、揺り動かし始めた。
すると、陽炎が立ち上るように彼女の周囲の空気が波打ち始める。彼女の赤い髪が風もないのにそよいでいた。
鈴の音に隠れるように、彼女は聞き取れないほどの声で何かを囁いている。
ほどなく、春臣の鼻先にそっと触るものがあった。
「うん?」
その小さなものを指を摘んでみると、なんと、花びらだ。
いったいどこから舞い落ちてきたのかと、空を仰ぎ見て、あっと息を呑んだ。
桜だ。
紛れもない、桜だ。
庭の枯れ木に、桜の花が咲いていたのだ。
まるで、春臣たちを見下ろすかのように、縦横に枝を張り巡らせ、幾千もの薄紅の花弁を身にまとった大木がせせり立っている。
春の夜に桜あり。
全てが、この言葉だけで芸術となってしまいそうな風景だ。
春臣が生きてきた中でも、これほど立派な満開の桜を眺めたことが果たしてあっただろうか。
その見事さは有無を言わせず鳥肌が立つほどで、微風に吹かれて舞い降りる花弁は僅かな光さえ放っているようだった。
「ひ、めこ……」
「どうじゃ、なかなかのものじゃろう?」
彼女は自身の仕事に満足しているようだ。うっとりと桜を眺めている。
「すごい、な。申し訳ないけど、俺にはそれくらいしか言えない……」
「それだけでも、今は十分じゃ」
春臣は再び、それを見上げ目が離せなくなるのを感じた。
「姫子は、やっぱり神様なんだな」
「そうじゃ、わしは神様じゃ。今日はこの榊の葉で力を使うことが出来たが、普段のわしなら、これくらいのこと造作ないことじゃ」
そう言って彼女は再び酒を飲み始める。夜桜を眺めながら、贅沢なものだ。
しかしまさか、彼女のおかげで、こんな夜に花見が出来るとは予想もしていなかったことだ。
考えてみれば、当分家族とも花見などしていない。誰かと一緒に花を見る機会もなかった気がする。そのせいか、春臣は痛く感動した。
久しぶりに見るその桜は木全体が夜を包み込むように淡く、薄く、優しさに溢れていて、どっしりとしている。
文句なしの、お花見だな。春臣は胸中で呟く。
「忘れねえよ」
「何がじゃ?」
「姫子と見た、この夜の桜だよ」
「……春臣?」
不思議そうに首を傾げる彼女を見ることもなく、春臣は静かに香りを吸い込むように目を閉じた。
「絶対な……」
短い言葉が宙に消えていった。
そして、物言わぬ春の夜はひっそりと更けていく。