20 神様電話 3
春臣が危惧した通り、やはり、媛子からの電話は鳴ってきた。
仏頂面した教師が、あれこれととりとめのない、催眠効果抜群の説明を延々と続けている中、媛子からの電話は何度も掛かってきたのだ。
春臣は、その度にわざわざ席を立ち、教室から出て、その応対を迫られている。周囲からは嫌な目で見られてしまうし、椿は心配そうだった。
しかし、まさか春臣が聞くに耐えない下らない要望のために席を立っているとは誰も思わなかっただろう。
その会話の一部を例として挙げるならば、
「いったい何だ? 何の用だ?」
「むふふ、実はの、今、テレビを見ておったのじゃが。とんでもないものを発見してしまっての!」
「とんでもないもの?」
「そうじゃ! こんな一大事、お主に報告せぬわけにはいかぬじゃろうて」
「それで、何を見たんだ?」
「ケーキじゃ、ケーキの安売りじゃ、せーるせーる!」
「……切るからな」
「何を言っておる。わしはケーキを食べたくなったのじゃ! ああ、体に糖分が足りぬ。このままでは死んでしまうかもしれん」
「朝っぱら羊かん食ってたやつが何を言ってるんだ」
とこんな具合だったり、
「今度は本当に緊急事態か?」
「何を言う。わしはさっきから緊急事態じゃ」
「それで、何が緊急事態なんだ?」
「眠い」
「はあ?」
「先ほどからもう眠くて眠くてたまらぬのじゃ。わしの寝床はどこに用意してある?」
「してねえよ」
「おい、ではわしはどこで眠ればよいのじゃ?」
「そんなもの、座布団の上で眠ればいいだろ」
「そんなことは出来ぬ。わしはちゃんとした寝床で眠りたいのじゃ! ふかふかのベッドとやらをわしに用意せい!」
「知ったことか! 今まで普通に座布団によだれたらして寝てたことがあったくせに、何がベッドだ」
「一度でいいからそのようなもので寝てみたい」
「そんな媛子の願望に付き合ってる暇はないね」
とそんな感じだったりする。
授業の内容がさっぱり春臣の頭の中に入ってこなかったのは、睡魔だけではないことが分かっていただけるだろう。
いっそのこと電源をオフにしてしまおうかと思ったが、それは止めた。他に大事な用件の電話が入るかもしれないし、もしも、本当に彼女に何か一大事が起きることだってあるだろう。
それに、初めてのものに興奮し、何度も試したくなるような心境を春臣は全く理解していないわけでもなかった。
だが、本当に子供のような神様である。精神年齢が低いというか。とても、神だとは思えない。
しかし、子供というものはそうやっていろいろなものに興味が向けられる反面、簡単に興味の対象を変えてしまい易いという習性がある。
春臣としてはそう考えて、どうせ、すぐに飽きるだろうと高をくくっていた。
だが、意外にも彼女の興味は粘りを見せていた。
気がつけば、昼食時までに掛かってきた件数は二十件を越えていたのだ。
予想外だった。
「なあ、榊君。その……」
「うん?」
恨めしそうに携帯電話を見つめながら、チャーハンを口に運んでいた春臣は、スプーンを置く。
午前中の講義が終わり、椿と共に昼食をとっている最中だった。
「あんまり人の電話相手のことについて、とやかく言うのはなんやと思うけど。その、何度も電話を掛けてくること、はっきり嫌やっていうことは言えへんの?」
向かいの席に座った椿はそう言って、プチトマトをおいしそうに頬張る。
「それは、言っているつもりなんだけど。ちょっと事情があるんだよ」
何しろ、神様だし。
「向こうもきっと暇を持て余してるんだろうからさ。話くらいは一応してやろうかと」
「ええ! 向こうの人、暇やから電話してきてんの? それはますますあかんやん。はっきり迷惑やって言うたらな」
「そ、それはそうなんだけど。まあ、おそらくこんなに電話してくるのは今日くらいだろうから。別にいいんだよ」
「でも……」
椿は何かまだ言いたげに視線をきょろきょろと動かしていが、
「今日だけ、なんよね」
と確かめるようにそれだけ言った。
「ああ、多分。青山が心配してくれてるのはうれしいけどさ。大丈夫だから」
しかし、そう言ったものの、午後からも媛子からの電話は途切れることはなかった。
一時間にもれなく三度は電話を掛けてくる。
そして、どうにもならないことにだだをこねたり、テレビで得たどうでもいい情報を逐一報告されるのである。
そのため、もうさすがに途中からは春臣も電話には出ないことにした。
要は、彼女の電話に応じるから彼女は掛けてくるのであって、電話に出なければ彼女もそのうち諦めると思ったのである。
第一、これまで緊急事態らしきことがそうそう起こらなかったのだから、多少放っておいても問題はないだろう。媛子にも他人が迷惑をしているということを知ってもらわなければならない。
しかし。
春臣は教授の言葉に耳を傾けながら思う。
しかし、それにしても彼女からの電話というのは、本当に自分本位ものばかりだ。自分がこうしたい、ああしたい。これが欲しい、これがいらない。
どこまでも、自らのエゴに忠実な言葉で電話をしてくる。
そこに、春臣がどう思っているかなんて考えは全くといっていいほどない。神であるから、そんなことは関係ないと言わんばかりの権柄ずくな態度である。
電話の向こう側の人間に、自分の望みを言うだけなど、完全に間違っている。
そう思うと春臣の中で怒りがたまってきた。
大学の講義も終わり、いよいよ帰宅をしようかという時になって携帯を見ると、不在着信は十件以上もあった。
全て自宅の電話からである。
こんなことなら、彼女に電話の使い方など教えるのではなかった。家に帰ったら、きつく灸を据えておかなければいけない。
そして青山と別れ、自宅の方に戻る道を歩いていると、再び携帯電話が鳴った。
またか。
うんざりしながらも、今度はがつんと言わねばと、春臣は通話ボタンを押す。
「春臣?」
「あのな! もういい加減にし……」
その声を聞いて、怒鳴りかけた春臣ははっとした。
媛子、じゃない。
「怒ってるの?」
「かあ、さん? ごめん。違う。母さんのことを怒ってるんじゃなくて、他の奴から何度も電話がきたからイラついてたんだ。それで、またそいつかと」
「そう、お母さんのこと怒ってたんじゃないのね」
「ああ、うん。それで、何か用?」
「今朝のこと……」
母の声が気まずそうに小さくなる。
「え?」
「今朝、あなたになんだか鬱陶しいこといろいろ言ったかなって。そう思って、謝ろうと思って、電話したの」
「なんだ、そのことか」
そんなことなど、まるで遠い昔のことに忘れていた春臣は、そのとき抱いた腹立ちなどもう思い出せなかった。
そんなこともあったなあ、と思う程度である。
「あんな風に切られちゃったから……そのことは、もう怒ってない?」
しかし、母の声は大げさなほど、深刻そうだった。
「うん、もうどうでもよくなってる。その、こっちこそごめん。母さんの電話、あんな切り方して」
「いいのよ。あなたのことがいろいろと心配だったのだけど、あんな風に矢継ぎ早に言ったんじゃ、駄目よね。せっかく一人暮らしを始めたあなたのことを考えてあげられてなかった」
いつになく、優しく耳に残る母親の声は、春臣をそっと心地よくさせてくれた。それで分かった。母は、自分本位でものを言っていない。
春臣のことを思って、それが気にかかって、止むに止まれず電話を掛けてきたのだろう。
それに今朝の自分は気づいていなかった。
そう思うと、少し申し訳なくなる。
「時間を長く感じるものなのよ」
唐突に母は言う。
「へ?」
「あなたが居なくなった家にいると、ね」
「……」
「以前までは春臣がそこにいて当たり前の生活をしていたから、思わなかったけれど。時間の流れというものは時にこんなにもスローダウンしてしまうものなのね。あなたがいないということが、新鮮で、こんな風に感じるのよ」
母は寂しさを募らせた声でそう囁いた。
そうだ。
春臣自身も、この一週間何かと新しいことが続き、時間を長く感じていた。しかし、時間の流れを長く感じてしまうのは、何も初めて一人暮らしを始めた春臣だけではない。
実家で暮らしている両親だって、同じなのだ。
息子のいない、新しい生活が始まっている。それまでの馴染んだ空気がどこか北風か何かに飛ばされたように、家の中がひんやりと感じるのかもしれない。
そこにあるべき、春臣という人間が欠落しているために。
「寂しいのよ。春臣がいないと」
「そうなんだ、分かったよ」
「フフ、私、恋人みたいなこと言ったわね」
春臣が怒っていないことを知り、安心したのか、母はそんなことを言った後で馬鹿みたいねと笑う。
「でも、心配してくれてるのはありがとう」
素直に、春臣はそう言えた。
「そう、それならよかったわ。用件は、特にこれだけなの。変なタイミングで掛けてごめんなさいね。それじゃあ、また電話するわね」
「分かった。今度電話が掛かってくるときまでには、さ。何か質問を考えておく」
「質問?」
「一人暮らしは、分からないことだらけだから。母さんに聞くことがあると思うから」
そう言うと、母は受話器の向こうで微笑んだようだった。
「そうね、私に分かることなら何でも答えてあげるわ。簡単なことだしね」
「うん、それじゃあね」
「じゃあね」
そして穏やかに、電話は切れた。
ゆっくりと息を吐き出して、春臣は帰り道を再び歩き出す。
今日は一日中、何かと苛立っていたが、ようやく優しい気持ちになれたようだった。
媛子はどんな顔をして待っているだろう?
きっと途中から電話に出なくなった自分に腹を立てているだろうか。
そうだとしたら、言い返してやろう。
でも、少しだけ感謝をしよう。
親というものは、彼女の言うとおり大切なものだと実感できたのだ。
足が少しだけ駆け足になる。
家まで、もう少しの距離しかなかった。