2 なぞの老人
荷下ろしは、それほどかからず、夕方には終わった。
たった二人での作業とは言えど、たかだか一人分の荷物であるので大した苦労もなく、難なく終了した。
そこで、康夫が一休みしようと提案し、ダンボールに占領された居間で、春臣とその叔父は淹れたばかりのお茶を啜る。
春臣は荷物から、出発する前に母が持たせてくれた羊かんも少しばかり切り分け、皿に並べた。
「これは美味いな」
叔父はその羊かんを口に運びながら、嬉々としてそう漏らした。
「何でも、家の近くにある老舗の和菓子屋さんで買ってきたらしいです。時々テレビでも紹介されるくらい人気の品らしくて」
春臣は今朝母が言っていたことをそのまま話した。そして、自分も爪楊枝で一欠けらを口に放り込む。
うん、なるほど確かにおいしい。
和菓子などそれほど興味があるわけではないが、甘すぎず、ほどよい苦味もあり、知らず口の中で解けるように消えていく感覚は、美味と賞賛するに相応しいものだと思った。
こんなことを言うと大げさかもしれないが、これから自分が目標にすべき一人前の人物像とはこんな感じの人間なのかもしれないと、春臣は考える。
手持ち無沙汰にテレビをつけると、見たことも無いローカルのニュース番組が放送中だった。
レポーターがマイクを片手に農作業中と思しき老人に話しかけている。最近の農作物の出来を訊ねているらしい。
それを見ていると、何を思い出したのか急に隣で見ていた康夫が手を叩いた。
「そうだ、忘れとった」
あまりに唐突であったため、むせながら春臣が聞き返す。
「はい? なんです?」
「いやね、この町に親父が生きていたころに世話になった人がいるんだがな、その人のところに挨拶をしにいかなければならないことを思い出してな」
「世話になった人?」
きょとんとしている春臣はそのことを全く知らなかった。
「ああ、親父がここに引っ越してきたときに何かと世話をしてくれた人でな。杉下さんという人なんだ」
「へえ、そうだったんですか」
「そうそう、親父が死んだ後もこの家のことを今日まで管理してもらっていてな。全く頭が上がらないくらいの御仁だぞ。暗くならない内にちょっと挨拶に行こうか。春臣のことも紹介しないといかんし」
祖父がそれほどお世話になっているとなれば、自分もこれから何かと厄介になることが多いかもしれないと考え、先ほど食べていた羊かんの一箱を抱え、康夫と共に春臣はトラックに乗り込んだ。今のうちから人間関係の基礎を作っておくことは悪いことではない。
陽が傾いた空の下、一台の軽トラックが田んぼの間を走っていく。電信柱などを除けば、これといった障害物もなく、歩いている人影も皆無だ。物寂しい、田舎道。
そんな道のりを車に揺られること数十分、その杉下という人の家に到着した。
車を降り、その邸宅を一目見た春臣からは思わず、「うへえ」と声が漏れた。
おそらくこの辺りでは有名な地主と言われても驚かないくらい立派な日本家屋が建っている。
「驚いたか?」
にやりと口の端を吊り上げ、康夫が訊く。
「ええ、ずいぶん大きなお宅ですね。俺、こんな家、歴史の教科書でしかみたことありませんよ」
「ハハ、確かに教科書に載ってもおかしくないくらい、歴史のある建物には違いない。俺もはじめて見た時には目を剥いたもんさ」
「お金持ちの方なんですか?」
恐る恐るという感じで春臣が訊く。
「俺も詳しくは知らないが、なんでも杉下家っていうのはこの辺りじゃかなり顔が利く地元の名士って話だ。昔この辺りで権勢を奮っていた武将の一族らしいぞ」
叔父は軽い調子で春臣の緊張を助長させるようなこと言うと、先に中に入っていってしまった。
慌ててその後を追い、古めかしい門を通ると、すぐ目の前、綺麗に隅々まで手入れが行き届いた庭があった。そこには鯉が泳ぐ池があり、見事に形を整えられた松などがなんとも言えない風情を醸しだしている。
それらはまるで、ここに住んでいるのはただ者ではないぞ、と警告してきているようで、春臣は再び緊張で身震いした。
呼び鈴を鳴らし、玄関の三和土で康夫と共に待っていると、奥の方から在りし日の祖父を彷彿とさせるような、白髪のほっそりとした老人が歩いてきた。
どうやら、その人物こそが祖父が生前に世話になっていたという杉下老人らしい。
長い年月の積み重なりが目に映る形で現れたかのように、老人の顔には深い皺が刻まれている。その表情が叔父の顔を見て、ふっとほころんだ。
「おう、楠君か、そろそろ来ると思うとったよ」
視覚情報を基に分析すると、相当な高齢者であるように見えるのだが、春臣に彼の言葉が想像以上に明朗で歯切れのいい発音で届いた。
そこからは目で見える以上に、若者のような溌剌とした生命力を感じる。
「よう来たな。ささ、上がりなさい」
挨拶もそこそこに、その老人は歯の抜けた笑顔で手招きしながら、頭を下げる二人を家の中に案内した。春臣は靴を脱ぐと、叔父と共にその老人の後についていった。
案内されたのは、障子に囲まれた座敷だった。
職人が貼り付けたのだろうか、その障子には貼り付けられた金箔と墨の色で龍の絵が一面に描かれていた。
どこを向くわけでもなくちらちらと見ていると、その龍と目が合ってしまい、どきりとした。
まるで睨まれているような気がしたのである。どうにも居心地が悪い。
春臣はそんな厳かな雰囲気のある場所にくることは皆無だったので、さらに緊張の度合いが増してしまう。すると不安そうな面持ちの春臣を見て慮ったのか、杉下老人が話しかけてきた。
「坊主、こんなところに来るのは初めてか?」
「は、はい。俺の、実家の近くにはこんな立派な家はありませんから」
「そうか、そうか。今ではこんな家屋もその辺の都会じゃとんと見かけんからの。今の若い者には、そりゃあ珍しかろうて」
そして、すっかり髪の薄くなった後頭部の辺りを指でぼりぼりと掻くとこう言った。
「なんでも、あの哲夫の孫ということじゃったな」
哲夫というのは、祖父の名前である。
「そうです。榊 春臣と言います」
緊張の面持ちでお辞儀をした。
「春臣、君か」
老人の皺がゆっくりと動く。
「はい。今年で大学に入学しまして、あの祖父の家でこれから一人暮らしを始めることになりました。俺、まだ慣れないことばかりで、その、もしかするとこれから何かとお世話になるかもしれないと思いますので、あの、どうかよろしくお願いします」
なんとかそれだけ言って再びぎこちなく春臣は頭を下げる。それを聞いた杉下老人はふむふむと何度か頷き、
「そうか、なるほど。確かにそう聞いておったよ。哲夫も時々、自慢の孫じゃと話をしておったな。中々頭のいい子じゃとな」
と嬉しそうに話した。
「頭がいいなんて、そんな……俺は」
そう言い掛けた瞬間、今度は杉下老人と目が合った。
ぐっと息が詰まる。
なぜか、射竦められるというか、貫かれるような視線で見られた気がして、春臣はたじろいだのだ。
なぜかは分からないが、そう感じた。
「いやいや、謙遜せずともよい。わしはその眼を見たときから分かったよ、一点の曇りなき聡明そうな眼をしておる」
再び、老人の口が静かに動く。
春臣はそんなことを言われたことは全く初めてのことで、いますぐ自分がどんな目をしているのか鏡で確認したい気持ちに駆られた。
猛烈に買い被られている気がして、冷や汗が垂れる。
すると、白い髭をたくわえた杉下老人の優しそうな顔になった。
「大丈夫じゃ。心配せずとも春臣君ならの、一人暮らしもそれほど苦労せずにやっていけるじゃろう」
その言葉は物事を看破する、老成された深みを帯びているように聞こえる。
しかし、春臣はいまいち信用が出来なかった。
自分にそれほど力があるとは思えなかったのである。
本当かよ。適当なこと、言ってないですよね。とつっこみたくなった。
妙に悟ったような言い方をして、若者をその気にさせるのは年老いた者の特権にも思えた。
それから後は叔父と杉下老人が世間話をはじめた。春臣が口を挟むことのできない、祖父との思い出話や、祖父の家を管理してもらっていたこともろもろについてである。
いつの間にか時が過ぎ、春臣が出しそびれていた羊かんの箱を手渡すと、そろそろお暇しようということで立ち上がった。杉下老人はそれを引きとめようとしたが、叔父が早く帰らなければいけないこともあり、丁重に断わった。
そして玄関まで歩き、いよいよ別れの挨拶をしようというときになって、再び、杉下老人が春臣に話しかけた。
横に伸びた白髭を丸めるようにいじりながら、
「君は……」
と何かを言いかける。
「はい?」
ふいを衝かれて気の抜けた返事をすると、何を思ってか、老人は何の脈略もなくこんなことを訊いた。
「君は、神様を信じているかね」
あまりの唐突さに、春臣はおいおい、新手の宗教勧誘ですか、と疑いたくなる。しかし、仮にそうだとすればあまりにも直球で滑稽なほどだ。
「神様ですか?」
「そうじゃ、日本には昔から八百万の神がおるというのは知っておるじゃろう?」
やおよろず?
はて? なんのことやら。
「ああ、は、はい」
つい知ったかぶって春臣は肯定の返事をする。
というよりも老人から、当然知っておろうな、という無言のプレッシャーを感じ取ったため、否定の選択肢は取れなかったのだが。
「神を敬い、日々の健康と未来の繁栄を願うことは尊きことじゃ」
杉下老人はまるで今この近くに神がいるかのように僅かに横に視線を向けながらそう言う。
しかし、春臣はそう言われて、目を伏せて辟易した。
尊きこと、か。
そもそも神の存在などどうでもいい春臣にとっては、そんな彼自身の価値観を目の前に突き出されることなど、うんざりするだけなのだ。
長話になれば面倒だな、と心の中で舌打ちする。
すると、老人が意外なことを口にした。
「君がこれから暮らすというあの家、哲夫のやつが祀っておったぞ」
「祀る、何をです?」
「だから、神棚じゃよ。神への祈りを捧げるあの神棚じゃ」
そう言われて、春臣の脳内に神社のミニチュアが思い浮かぶ。確か、あんなものを飾っている家があった。
神棚、と言えばそのことだろう。
「そんなものがあったんですか?」
先ほど家に入ったときには見当たらなかった気がする。
それに祖父がそんなものを祀っていたなど、まったく知りもしなかった。
春臣が知る限り、祖父はそんなことをするような人間には見えなかった。
もっと、自分の足で道を切り開くことを望むような開拓の生き方を選びそうな人間だったのである。自らの命が神に握られているなどと誰かから教えられれば、むしろ拳を振りかざし、反駁するかもしれない。
そんな祖父だった。
「ああ、ほれほど高価でもない神棚じゃったが、熱心に拝んでおったようだったの」
そう言われたが、にわかには信じがたい。
「春臣君もそうするがよい。勉学がはかどるように毎日祈ることは善いことじゃからの」
「は、はあ……」
「家に帰ったらさっそく礼拝するといい。引っ越してきた報告をするためにもな」
「分かりました。早速、そうしてみます」
そうは言ったものの、これといって春臣は神への信仰心など持ち合わせていない。
当然のことながらこれから毎日欠かさず神への祈りするとは到底思えなかったが、ともかく愛想よくお辞儀をして、その場を後にした。まさかあの老人が毎日春臣の行動を見張るわけではあるまいし、そう答えておくのが一つの礼儀であると思ったのである。
見送りに手を振りながら、春臣と康夫は軽トラックに乗り込み、豪勢な杉木家を後にする。
帰り道の車中の中では康夫が春臣にいろいろと今日のことを話しかけてきたが、春臣はどこか上の空という感じで適当に返事をしながら、頭では先ほどの杉下老人のことが浮かんでいた。
なんだか、妙な老人だったな。
春臣の中にはそんな、苦味にも似た印象が残っていた。