171 新世界へ ~The kind color~ 2 (完結)
まるで水底に宝石を敷き詰めたように真夏の光をきらきらと照り返している楡川。
その穏やかな流れの上へ架かる橋に、一人の少女の姿があった。
僅かなそよ風に、その自慢の赤い髪をゆさゆさなびかせて、麦わら帽子を被って歩いていく。
彼女は――。
神の世界からやって来た少女、緋桐乃夜叉媛である。
彼女は出かけた先から戻る途中のようで、喉元を伝う汗をぬぐいつつ、蒸し暑く気だるい午後の風が吹き抜ける道を、春臣の家に向かっていた。
何か買い物をした後で、さぞ上機嫌かと思いきや、
「ふう……」
と夜叉媛は、手に持っていたコンビニのビニール袋を不機嫌そうに揺らした。
「どうしてじゃ」
と悲しげに呟く。
「どうして、わしがこんなことをせねばならぬことになったのじゃ?」
そして、どこまでも広がる青い空を見上げ、それを恨めしそうに目を細めながら睨んで、顔を落とした。
「うむう、このクソ暑い中、あんな遠いコンビニまで歩かせおって、春臣の奴、わしになんの恨みがあるんじゃ?」
小石を蹴飛ばし、頬をふくらませる。
そして、今度は虚しくため息をつくと、コンビニ袋の中身を見た。そこには、現在、春臣の家に集まっている人数分のおいしそうなアイスクリームが入っている。
なぜ、夜叉媛がこんなことをしているのか、その理由は数十分前に遡る。
大学の夏休み期間中であるこの日、春臣の家には、いつものメンバーが揃っていた。そのメンバーとは、青山椿に、瀬戸さつき、暮野木犀に、時雨川ゆずりの四人である。
彼らは、春臣の呼びかけに応じ、集まったのだが、なぜ、彼がそんな呼集をかけたかというと、先日、巫女である瀬戸さつきが使用した神の風の力によって、壊れた家の修復作業を行うためであった。この作業は数日前から数回に分け実施されているのだが、それほどまでに、先日の事件で負った家へのダメージは大きかったのである。
夜叉媛はさつきが使う神の力を、直接見たわけではない。
しかし、それが相当の威力であったことは、その後の惨状を見れば、大体予想がついた。
なにしろ、床の板は跳ね上がり、両側の壁はボロボロで、冷蔵庫は倒れかけ、扉は閉じることが出来ず、天井には到底覆い隠すことの出来ない大穴が開いているという、散々たる状況だったのである。
いくらなんでも、これを無視して生活など出来るわけがない。毎日大量の埃を被った白飯を食うなど、断固拒否する。
という具合いで、今日もその修復のための作業が行われることにあいなったわけであるが、これが炎天下の元で行われるため、夜叉媛は、作業の休憩に差し入れということで、アイスクリームを近くのコンビニから買ってくるように指示されたのである。
しかし、夜叉媛は最初、その春臣からの指示に疑問を持った。なぜなら、まだこの辺りの土地勘に自信のない夜叉媛にそんなことをさせるのは、少々危険に感じたからである。それならば、天才的な方向音痴の才能を有する椿は除くとして、木犀かさつき、もしくは春臣自身が適任となるのではないだろうか。通常ならば、そう判断するはずである。
だが、そう反論しても尚、春臣は言葉を変えることはなかった。お願いだから、と半分懇願するようなことまでして、わざわざパソコンで入力した細かい土地の地図(明らかな計画性を感じる)をプリントアウトして渡し、夜叉媛をコンビニに向かわせたのである。
そこまでされるには、よっぽどの理由でもあるのかもしれない。そう考えた夜叉媛は渋々ながら了解し、こうして真夏の田舎道を歩いているのだ。
しかし、一度了承したこととはいえ、夜叉媛は不満だった。
「全く、わしが炎の中から生まれたといっても、熱に対して耐性があるわけではないのじゃぞ!」
そう空に叫んで、口を尖らせる。
「はっ! もしかすると、あやつ、神社の森で散々ビンタしたことを、根に持っているのじゃろうか?」
夜叉媛は思い出す。
あの夜叉媛が疾走した事件の後、彼の頬は散々夜叉媛に平手打ちをされたせいか、しばらくの間、かなり腫れていたのだ。
彼はその点に関して、夜叉媛に文句を垂れることはなかったものの、夜叉媛に隠れるような形で彼が何度も頬を痛そうにさすっていた。
その時にはそれほど気にすることもなかったが、彼には相当ストレスに感じていたのかもしれない。
「まさか、まだあのことを怒っておって、それで、わしにこんな嫌がらせを……」
だが、そこで夜叉媛は考え直す。
違う。それは、ない。
もし、この茹だるような猛暑の中、夜叉媛に不慣れな道を歩かせることが嫌がらせだと言うのならば、この間、外で家の修復作業を行っている春臣たちもそれと同じような辛さを味わっているのではないだろうか。
むしろ、ただ歩いているよりも、体を動かして作業をしている方が、何倍か大変だ。
ううむ。そう考えると、これが春臣からの嫌がらせだという推理の成立は困難になる。
「……そうなると、どうしてわしに……」
それがまた、分からなくなる。
再び考えようとするが、暑い日差しが、むわりと吹いた熱い風が、夜叉媛の集中力を削いだ。同時に、考える気力も萎えていく。
「ああ、暑い暑い」
恨めしく、言葉を繰り返す。手をうちわにして、パタパタと扇いだ。しかし、風は僅かばかりで、夜叉媛にはかえって余計に暑くなった気がした。
「ふう……」
待てよ。
そこで、夜叉媛の前にある少女の顔が浮かんだ。
そもそも、じゃ。
そもそも、あの巫女の娘が春臣の家に風を吹かせ、内部をバラバラにしなければ、こんなことにはならなかったのじゃ。
この暑い中、春臣たちが外で作業することもなく、わしがこうして、苦労の上、アイスを買いに行くこともなかったはずではないのか。
夜叉媛は事件の後、彼女が言っていたことを思い出す。
「確か、悪者たちを追い払うために仕方なく力を使ったと言っておったが……しかし、それでも場所と加減は慎重に考えて欲しかったのう」
夜叉媛は思う。
そのせいで、春臣たちはここ数日、壊れた一階部分の修理に明け暮れることになったのだ。一体それが、どれほど大変だったことか。
「しかし、『あの男』は相変わらずお人好しで、あの巫女の娘から一銭も金は取らぬと言うし」
全く……あやつときたら。
しかし、言葉とは裏腹に、夜叉媛は嬉しそうに微笑んでいた。
「いつか思いもよらぬ大損をしても、わしは知らぬぞ」
ふふ、と笑う。
と――。
そこで、道の向こうに、ようやく帰宅すべき家が見えてくるのが分かった。あの、竹やぶの近くの小さな青い屋根の家だ。
しかし、
「あれ?」
思わず、驚きで夜叉媛は手にしていた袋を取り落としそうになってしまう。口をあんぐりと開けて、棒立ちになった。
「あれは、『緋桐の花』じゃ……」
なんと、道から見える家の白い壁に大きくその花の絵が描かれているのだ。
それは、太陽の光を浴びて、生き生きと輝いているように見えた。綺麗な赤い花びらが風に揺れているように描かれている。
「一体、これは……」
何度か目をこすってみる。
すると、
「おお、媛子、帰ったか」
誰かが近くに駆け寄ってくる声がした。夜叉媛はその声の主がすぐに春臣であると気づく。
そして、振り向いて、
「は、春臣、これは……」
問いかけ、その途中で――。
「って、なんじゃその格好は!!」
夜叉媛は絶叫する。
無理もない。なにしろ、夜叉媛に近づいてきた春臣は何と全身真っ赤に染まっていたのである。頭の髪の毛も、頬も、シャツもズボンも、靴まで真っ赤だ。
夜叉媛にすぐに彼と判断は出来たものの、もしももう少し遠目に見ていれば、何者かを判断することは難しいことだろう。返り血を浴びた血まみれの殺人鬼にでも勘違いするかも知れない。
「一体、何が……!」
起きたのじゃ!
「ああ、これさ、事故でペンキの缶がひっくり返っちまって」
ハハハ、と笑う彼は鼻の頭を手の甲でこする。すると、そこにもまた赤いペンキがついた。これではまるでサーカスのピエロである。
「……このザマさ」
「このザマ、とな……」
夜叉媛は唖然として肩を落とし、彼の背後を指差す。
「もしや、あやつらも……」
「ああ、みんな綺麗に真っ赤なペンキを被っちまったよ」
すっかり一色に染まってしまっている彼らは、遠くでベタベタのそれをぬぐいながら、夜叉媛が来るのを待っているようだった。
青山椿は、相変わらずの無邪気な笑みを浮かべ、
瀬戸さつきは、なぜか隣の木犀をちらちらと見ながら頬を染め、
一方、彼女に見つめられている木犀は、にやにやしながら、夜叉媛たちを眺め、
さらに、もう一人、自称お守り商人の時雨川ゆずりは、何やら一升瓶を片手に虚ろな目をしてその場に座り込んでいる。
そして、その全員がもれなく真っ赤にペンキの色を被っているのである。
何と、滑稽なのだろう。
夜叉媛はそんな彼らを呆れると共に、新たな疑問が湧いてきて、春臣を見た。
「春臣、どうして、こんなことを?」
今度は家の壁の方を指さす。
「何だよ、変な質問する奴だな」
すると、春臣は怪訝そうに眉をひそめた。
「決まってるだろ。お前がちゃんと俺たちの元に戻ってきたことをお祝いするためだ。俺はこれを準備するための時間を確保するために、お前に買い物を頼んだんだよ。どうだ、驚いたろう?」
「それで、あの、花を……」
言いかけて、途端に、きゅっと胸が締め付けられた。
なにしろ、数週間前、春臣が作ってくれた緋桐の刺繍の入ったお守りを夜叉媛は川に投げ捨てたいたのだ。
自分の覚悟を示すためとはいえ、彼との思い出の品に、酷いことをしたものだと、夜叉媛は未だに後悔していたのである。
春臣を、深く傷つけてしまったのではないか、と。
しかし、彼はあっけらかんとして、
「ああ。いくらなんでもあれはもう放れないだろ?」
そう言って、ハハハと明朗に笑う。
そんな明るい彼の姿が、ずんと胸に刺さった。
「はる、おみ」
すまぬ……。
夜叉媛の中に何か熱い物が込み上げてくる。すると、そんな夜叉媛を彼は小突いた。
「馬鹿野郎。辛気臭く謝ってんじゃねえよ。せっかくこれからが始まりだってのに」
「は、始まり?」
「そうだよ。家が元通りになって、お前も戻ってきた。俺も本当の自分を取り戻したし、失いたくない大事な仲間たちもこの通り、全員無事で生きている」
俺達は困難をまたひとつ乗り越えたんだ。
彼はそう、力強く宣言するように言った。
それは、また新しいスタートに立ったってことさ。
「そして、これからは、お前が言っていた新世界が始まるんだろ?」
「う、うむ」
「だったら尚更、この始まりを祝わないといけないって」
そうして、春臣は何の躊躇いもなく夜叉媛をふわりと抱きしめた。それがあまりにも自然な動きで、夜叉媛は、何の抵抗をする暇もなく、彼に包まれていた。
「お、おい……」
声が、漏れる。
すると、背後でその様子を見ていた仲間たちに、おお、とどよめきが走り、何人かが息を飲み、何人かがやいやいとはやし立てた。
あやつらに、み、見られておる。
それを意識すると、夜叉媛は急速に耳が火照るのを感じた。
ああ、誰とも目を合わせたくない。
一刻も早く彼の腕から抜けださなくては。
この状況を打開するために夜叉媛はそう考えるが、なぜか、抵抗する力が生まれなかった。そうしているうちに、春臣と頬が触れ合い、彼についていたペンキの赤色が映るのを感じる。
ああ、もう、何もかもがじれったくて、くすぐったい。
「や、止めぬか、春臣」
夜叉媛は戸惑いが隠せない。
「どうした?」
「は、恥ずかしいであろう」
と、腕でもがく。
「構わねえだろ、今更そんなこと」
「し、しかし」
すると、彼は急に夜叉媛をまじまじと見つめ、少し悲しげな表情でこう言った。
「もしかして媛子、俺にこうされるの、嫌いなのか?」
「う、む、むう……」
こやつ、卑怯な言い方を覚えおって。
そう言われれば反撃が出来ぬではないか。
そのまま何も言えなくなり、夜叉媛は、力を抜いた。しかし、成されるがままというのも癪なので、些細な仕返しとして、夜叉媛の方からもぎゅっと彼を抱きしめ返すことにした。
そうして、どれくらい経ったか――。
しばらく抱きしめられた後で、彼は耳元で静かに囁いた。
「この赤はよ、始まりの色だよな」
「始まり、の?」
「そうだよ。俺はあの日見た炎の色をまだ覚えている。黎明の炎の色だ」
そう、それは世界の理をつむぐ、永遠なる炎。彼は言う。
「俺はな、あの炎をさ、『世界一優しい炎』だと思うんだ」
「それは、どういう意味じゃ?」
それはな……。
彼は続ける。
「炎ってのは、普通、何かを焼き尽くすものだろう」
「え?」
「何かを燃やして灰にして、その後には何も残らない。全てを粉々の塵に葬っちまうものが炎だ。人々にとっては便利な道具でもある反面、自らの命を奪ってしまいかねない恐怖の存在でもある。それが炎、それが普通なんだ。けれどな――」
けれどな。
彼は力を込めて、繰り返す。
「あの炎は違う。あれは何かを亡き者にするのではなく、何かを、ここにはない物を、生み出すための炎だ」
「……」
「世界の理を生み出し、全ての生みの親となる、母なる炎さ。そして――」
媛子、お前の髪の色は、世界一、優しさに満ち溢れた炎の色さ。
彼は抱きしめた夜叉媛の髪を愛おしそうに撫でながら、言う。
俺達はこれからその世界一尊い炎の色を守り続けなくちゃいけない。
何があっても。
あの黎明の炎が照らし出してくれる未来を、守らなくちゃいけない。
力強く、繰り返す。
「そうか……わしの髪は、世界一、優しいのじゃな」
夜叉媛はその彼の言葉に、自身が心底安心したのが分かった。それは、何か空っぽだったものに、波波と希望が注がれていくような、そんな高揚感にも似ているものだった。
そして、夜叉媛は、彼に甘えるように、子猫のような頬ずりをしてみた。
「では、存分に守っておくれ。お主よ」
それに応じて、彼が頷いた時、今までのぬるい空気が嘘のように、新鮮で爽やかな一陣の風が辺りを吹き抜けたのが分かった。
それは、さらりと、肌を馴染む、鮮やかな風だった。
きっと、
きっと、あの風は、今、この世に生まれたに違いない。
夜叉媛はなぜかそう確信した。理由はないが、確かにそう思ったのである。
願わくば、
そう、願わくば、
もっと吹け、生まれたばかりの風よ。もっともっと強く、吹け。
夜叉媛は念じる。
そして、この胸の中で燃え盛る炎を、空まで飛ばしてくれ。どんどん飛ばしてくれ。
この世界中に運んでくれ。
見渡すかぎり、遠くまで。
そう、どこまでも、遠くへ。どうか……。
そう願う夜叉媛の目には、緋桐の赤い花が映っていた。その可憐な赤い花は、いつまでも、いつまでも、夜叉媛の瞳の中で、静かに揺れていた。
どうもヒロユキです。
いつか来ると思っていましたが、ようやく物語が完結いたしました。長いようで短い二年。読者の方々には、こんなにも長期に渡り、お付き合いいただき、本当に言葉もありません。僕個人の気持ちとしては、ここでこの作品に対する考えや想いをいろいろと書き連ねていきたいのですが、いかんせん、本編の後のため、そこまで書く余裕がありません。なので、とりあえずは物語を完結とさせていただいた後で、後日、あとがきとして、一話分を小説の最後に追加させてもらおうと思います(あくまで予定なので、更新しなかったらごめんなさい)。興味がおありな方はぜひともお読みになり、貴重な人生の時間を僕の馬鹿げた幼稚な文章で存分に浪費されるとよろしいかと思います、はい。
さてさて、名残り惜しくはありますが、早速お別れの時間でございます。悲しいですね。こんなふざけた文章を書きながら何をアホなと思われるかもしれませんが、これで結構僕の心はじゅんと来てます。とっても寂しいのです。まるで、長い長い夏休みが終わってしまうような、そんなどうにもならない切ない感じがあります。登場人物たちが実在しているのであれば、ここで「お疲れ」の一言くらいかけてやれるのですが、残念ながら、彼らは僕の妄想の産物。手と手を合わせて握手、なんてことすら出来ない。ああ、センチメンタル。
しかし、そんな気分にいつまでも浸っているわけにはいきません。なぜなら、僕は早速次なる作品にとりかからなくてはならないからです。この作品については、まだ計画の段階なので、連載の開始はいつになるのか分かりませんが、早ければ、8月中に始めることが出来るかもしれません。ご興味がおありの方はぜひ、お読みください。僕が血の涙を流して喜びます。
最後に、こんな下らない後書きを最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます。小説書きとしてとことん未熟な私ですが、これからも性懲りも無くまだまだ文章修行にこの身を投じていく所存であります。そんな阿呆な僕を、不幸にもまた見かけるようなことがあれば、読者の方は「またお前か」と文章を指差し、呆れたため息を一つ吐いてくださいね。よろしくお願いします。
それでは、長くなりましたが、そろそろ店じまいです。明かりを消して、暖簾を下ろします。もう何も言い残すことはありません。読者の方、また会う日まで、どうかお元気で。作者のヒロユキでした。