164 黎明の炎 3
「多めに見積もって、ざっと二、三十分というところか」
彼女は暗闇の色が溶けたような虚ろな瞳で言った。
「わしの『残り時間』は……」
すると、彼女の体から、きらきらと僅かに火の粉のような光が空を目指すようにして、舞い始める。彼女の全身をぼんやりと光が包みこんでいた。
きっとあれが、彼女の内部から具現化した、存在の源なのだろう。
それはチラチラと、ホロホロと、仄かに舞い散っていく、命。止まることなく、少しづつ、少しづつ、ほころびていく、魂の火。
あれを、どうにかして止めなくては。
そう思った春臣は彼女にそろそろと歩み寄る。目指すは、彼女の足元に落下した物である。
あの緋桐の刺繍が入ったお守りさえ手に入れることが出来れば、まだ彼女を救える可能性を少しでも多く残しておけると思ったのである。
が、彼女はその春臣の思惑に気がついたのか、じり、と後退しつつ、草むらに手を入れた。
「あ!」
そして、落としたお守りを掴むと躊躇なく背後に放り投げた。
「止めろ!」
しかし、そんな春臣の叫びは虚しく、彼女が放ったそれは放物線を描いて、近くを流れていた小川に落ちる。小さく水しぶきが上がり、そのまま流れに乗って下流に消えていく。
あっという間に見えなくなってしまった。
「春臣、言ったはずだ」
と、くっと強く引き締められた媛子の口元が動く。
「わしには覚悟があると」
やはり、彼女の決意は揺るぎないのだ。
春臣は思わず膝から崩れ落ちてしまいそうな喪失感を感じた。落ちれば最後、何も受け止める物のない、谷底を覗いているような心地である。
嘘だろ。
嘘だと言ってくれ。
春臣は、両手を握って、そう懇願しそうになる。
本当に、これで、彼女を救う方法は無くなってしまったのか?
つまり、それは、自分のここまでの行動が無意味だったということなのか?
自分は、彼女の命が目の前で潰えていくのを、眺めているだけしかないのか?
ただ、この絶望に打ちひしがれる瞬間を味わうしか……俺は、このために……。
首を横に振りたいが、春臣にはその力がない。
「もはや、手立ては無くなったな、春臣」
彼女の言葉は、まるで、意気消沈した春臣の頭にさらに冷たい水を浴びせかけるようだった。
「わしは、このまま一方通行の道を進むだけだ。後戻りはない。そして、もはや、未来への前進もない」
停止も、巻き戻しもない。
彼女は言う。
「そう、もはや、為す術がない。わしが生き残る方法はない。運命は決まったのだ。後は消えいくのみよ」
「そんな、嫌だ。俺は……嫌だ……お前が消えるなんて……」
か細い声でそう口にしてから、春臣は後悔する。
何だよ、これ。
我ながら、母親にすがる三歳児のような、女々しくて、情けない声だな。
すると、そんな春臣を媛子はせせら笑う。
「本当に、馬鹿な男じゃ。ここまで来ると、いっそ滑稽じゃな。最初から何度も希望などないと言うておるのに」
「……」
「そもそもだ、春臣。そもそも、こんなわしなどを救って、一体何の意味があるというのだ?」
生きる価値などない、わしなどを救って。
「第一に、わしは……わしは、そんなにお前にとって、魅力的な存在だったのか?」
ふいに、彼女の瞳に、深い疑問の色が差す。その変化を春臣は見逃さなかった。
彼女の考えが急にかき乱されるのが分かる。
「わ、わしは、いつだって、この上ないほどに醜く、わがままで、馬鹿な奴だった」
「媛子……」
「お前に初めて会ったとき……お主は、知っておるか? わしは、人の上に立つ存在を気取ってみたくて、神と名乗ってお前を騙したのだ」
「……」
「わしは、とんだ詐欺師じゃ。その上、度々、どうしようもない不安と望郷の念に駆られて、惨めに泣いたこともあった」
彼女はしゃくり上げるように言葉を継ぎ足していく。次々と上塗りしていく。
「そして、挙句に、いつも優しいお前に恋をして、またお前を散々困らせて、お前に嫌われるのが怖くて、重ね続けた嘘を明かせないまま、神の世に去ろうとして、お前をこれでもかと失望させた……」
一体、一体、どこが――。
「一体、お前は、こんな可愛くないわしの、どこが好きなのだ?」
わしには、皆目、分からん。
そう言われて、夜彦は頭を揺さぶられた気がした。雷に打たれたような衝撃に、意識が覚醒した。大げさにもそのまま後ろ様に倒れてしまうかと思った。
そうだ、言われてみれば……。
俺は、一体、彼女のどこが好きなんだ?
そもそも、好きなのか? 嫌いなのか?
いや、
いや、好きだ。全身全霊をかけて、大好きだ。
声の続く限り、何度でも、愛していると叫べるほどに。
その感情に疑い余地は、一切ない。
だが、いざその理由を問われると、途端に、行き止まりに突き当たる。思考が停止する。脳内のエンジンが空転する。
俺は、俺は、彼女の、何が好きなのだ?
漠然とした気持ちが春臣に押し寄せる。
分からない、分からない、分からない、分からない……くそう!
歯がゆい思いが春臣の内部を駆け抜け、手足にしびれが生じた。
ふいに、
でも、
と、心の声がする。
でも、
たった今、一つだけ分かることがある。
無言で、春臣は頷く。そう、今だけは分かること。
春臣にとって、今の彼女は、
「……嫌いだ……」
「何だ?」
「少なくとも分かることさ。俺は、今のお前が、大嫌いだ」
拳を強く握りしめつつ、春臣は言い放つ。
「な、何だと?」
「亡者の目になって、ひたすらに卑屈になって、自分の全てをことごとく否定して、生きることを放棄しようとしている、お前が大嫌いだ」
そうだ、そして俺が好きな、媛子は――。
「泣いて、笑って、怒ってる、いつものお前が好きなんだ。お前が、神だろうと、ホカノだろうと、悪魔だろうと何者でも関係ない。本当に『生きている』お前が好きなんだ。俺は今、そう自信を持って言えるぜ」
「生きている、わし、が……?」
「ああ、いつもの元気で明るいお前となら、俺はこれからも一緒に暮らして生きたいと思ってる。でも、今のお前はダメだ。大嫌いだ」
そして、
そして、そんなお前は、今朝の俺にそっくりだ。言葉にはしないものの、春臣は思う。
ただ、孤独を背負い、貪りつき、他者を退け、自分一人で勝手に背を向けて消えていこうとしているお前は……俺と瓜二つだ。
ただ、孤独という悪魔に取り憑かれているだけなんだ。目を塞がれて、毒の匂いをかがされて、体の自由を奪われている。
そう、それならば。
春臣は確信する。
それさえ振りきれば、また、前に踏み出せるはずだ。この俺と同じように。
「媛子!!」
そこで、春臣は唐突に彼女の名前を大声で叫んだ。こんなにも至近距離にいるのだから、そこまで大声で言う必要はないのだが、春臣は、目一杯の大音声を出した。
当然、彼女は、意味不明な春臣の行動に、一瞬、目を白黒させて、
「な、何だ?」
と、返事をした。
返事、を、した、のだ。
その瞬間、彼女に見出した僅かな隙に、春臣はにやりと笑う。
ようやく、見つけた。
これだぜ、これ。