163 黎明の炎 2
間に合った!
媛子の細い華奢な腕をしっかりと握りながら、春臣は深い安堵を感じていた。
良かった、彼女はまだ消えていなかった。
まだ、存在ていた。
その事実が胸の底を新たな希望で揺さぶっている。
春臣は走り回っていた間の荒い呼吸のままだった。
昼間に神社を飛び出し、森の中に走り去った彼女を探し始めて、いったいどれほどの時間が経ったのか、もう春臣は覚えていない。
右の繁みを駆け抜け、左の斜面を上り、いくつかの小川を飛び越え、飛び越え損ねて落ちているうちに、すっかり太陽は傾いていた。
その間、春臣は疲労にふらつきながらも、必死に媛子の姿を探していたのだが、彼女の通った痕跡らしい痕跡も見当たらず、さすがに絶望の色が濃くなるのを感じざるを得なかった。
それほどまでに、神社の森は深い。
どこまでも、深く、深く、深々と、深い――。
まるで、神の存在の巨大さを投影しているような、その広大な懐に潜り込んでいる気さえ、春臣は感じた。西に向かえば、ひたすら西に広がり、東に向かえば、ひたすら東に長い。終りが見えない……。
途方もなく、ひたすらに、無限。
媛子一人を覆い隠すには、十分過ぎるほどの広さである。誰もが、その困難さに匙を投げるほどの……。
しかし、
しかし、春臣は、ついに見つけたのだ。
草むらの中で腰を落とし、自身の長い髪に石を振り下ろそうとしている媛子を。
それを見た瞬間に、春臣の中にあった疲労感や、転げ回った怪我からくる痛みなどは一気に雲散霧消してしまった。
新たな感情が湧き上がるのを感じ、それが春臣の中に確かな決意を抱かせた。
彼女の腕を掴み、
「もう、逃がさないからな!」
そう、叫んだ。もう決して、永遠に。
そして、今。
その感動の前に、涙さえ零れ落ちてしまいそうになりながら、春臣は彼女の顔をしっかり見据えた。
すると、彼女の表情にも、驚きと共に、溢れ出してしまいそうな喜びがあるのが分かった。
「はる、おみ……」
だが、それは一瞬のことで、彼女のそれはさっとすぐに冷徹なものに変わった。
そこには春臣と再び相対したことに対する、戸惑いや恐怖、怒りのような負の感情が入り交じり、歪な形となっているようだった。
そして、その途端、春臣は彼女を掴んだ手が一気に凍りつくような感覚に襲われた。まるで魂を抜かれるような背骨を駆け上がる怖気を感じる。その、弾かれるような、衝動。
彼女が何かをしたのではない。
アレだ!
春臣は直感した。
くそっ、やっぱり、消えているわけがないか。
自身の中に巣食う、媛子を拒絶する黒い力は――。
じわり、と嫌な汗が額に滲むのを感じる。胸の底に仄暗い水がじわじわ噴き出すのが分かった。思わず、気持ちが暴発しそうになる、足を挫いてしまいそうになる。
が、そんなことに気を取られている暇も春臣にはなかった。
次の瞬間には、媛子から思わぬ殺気が春臣に飛んできていたのである。思わず、春臣は身構え、背後に数歩飛びすさった。半分ふらつきながら、である。
すると、一瞬前まで春臣のいた空間に、彼女の掴まれていない、もう片方の腕が通過する。
その手には、重たい石が掴まれていた。刹那、それを確認して、ひやりとする。
もし少しでも反応が遅れ、それが春臣の脇腹に直撃していれば、さすがに数秒間起き上がれなかったかもしれない。
媛子が凶悪に春臣を睨んだ。
「しつこい奴じゃ」
それは、とても彼女から発せられたとは思えないほどに、どす黒く低い声だった。
「まだ……追ってくるのか」
ふうふう、と息切れをしている。興奮しているのだろう。
どうやら、彼女はこの期に及んで自分の邪魔をされたくないらしい。春臣には分かる。
彼女は今、心底必死なのだ。突如現れた、追跡者である自分から、完璧に逃げきるために。
しかし、それでも春臣は彼女の好きにさせるつもりはなかった。
「ああ、俺の気持ちが折れない限りな」
と、毅然とした態度で言い放つ。
「どこまでも、どこまでも、お前を追いかけていってやるぜ」
うんざりするほど、な。
すると、媛子の頬が軽く引きつったのが分かる。ふいに、その口元から、血が滴ったかのようにも見えた。
だが、それは違う。
ああ、夕陽の色と見間違えたのか……。
世界は今、黄昏時である。
春臣も媛子も皆、全てが太陽の色に塗りつぶされていた。顔も足も手も胸も髪も瞳も、赤である。
西の山には、その光を投げかけている太陽がある。
直感的に、春臣は、その太陽が沈み切るまでが勝負だと思った。
彼女をこちらの世界に引き止めるまでのタイムリミットである。
それまでに説得を成功させなければ、きっと彼女は永遠に失われてしまう。彼女の背後にある、聳える大山のような、混沌とした渦潮のような、見えない闇に呑まれて、それで終わりだ。
そんな気がしていた。
相対している媛子は、春臣に対し、もはや、敵対の感情しか有していないようだった。自らが遂行しようとする計画の真ん中に仁王立ちし、前進を妨害する厄介者にしか見えていないようである。
彼女はゆらゆらと低い姿勢を保ちつつ、袋小路に追い詰められた野生動物のような、威嚇の殺気をみなぎらせていた。
「全く、どうしたら諦めてくれるのかのう」
春臣に吐き捨てる言葉がひたすら憎々しげで、厳しい。
つい昨晩、自分と媛子は確かに恋人としての甘美な感情を共有していたのに、この変わりようは何なのだろう。
春臣はその事実に愕然とする。
これではまるで、十年間お互いを憎みつついがみ合いつつ生きてきた宿敵のような対峙である。
しかし、今更仕方がない。
春臣と媛子は、お互いがぎりぎりの綱渡りをして、もう引き返せない場所にまで来てしまったのだから……。
「春臣、言っておこう」
すると、彼女は何かを決意したように重みのある言葉を放った。
「な、なんだ?」
「お前は未だに、わしを引き戻せる、少しでも心に付け入る隙があると思っているのかしれぬが、それは断じて、間違いだ」
厳しい声が春臣の耳の奥に響く。
「わしには、もうすでに覚悟がある」
「覚悟?」
「そうだ、その覚悟を見れば、お前でも、自身の行動が無意味であることを自然と悟るであろう」
一体何をするつもりだ?
春臣は一瞬、戸惑うが、彼女が握ったソレを見て、合点がいった。
彼女がその手に握ったのは、春臣の作ったお守りだったのだ。苦労して作ったあの刺繍、が彼女の手の中で揺れている。
そして、彼女は、そのお守りを繋いでいる、首にかけた紐に、持っていた先の鋭利な石を近づけた。
「これが、どういう意味か分かるであろう?」
そう言って、彼女は悲しい笑みを見せた。
「お、お前……」
「これは、わしをこの世に繋ぎ止める最後の鎖じゃ。これがあるからこそ、わしは存在の力を供給され、姿形をこの世に固定化できている。しかし、この鎖を外せば、わしの存在はたちまち、この上なく不安定なものになる。お主なら、当然その意味が分かるな?」
もちろんだ。
春臣は無言で頷く。
そのお守りは媛子がこの世で生きるための命の糸なのである。それが無くなってしまえば、彼女の命は一気に風前の灯火となって……。
つまり、つまり……。
彼女は、この世から、消えてしまう。
全ての事が、無かった事に、なってしまう。
それは最悪の事態だ。それだけは、何としても防がなくてはならない!
春臣は慄然とした。
それが、彼女の、カクゴ。
と、ふいに、彼女は何の躊躇いもなく、そのお守りの紐をその石の先で引っ張った。長く、ピン、と張る。
「あ!」
春臣は恐怖に顔が引きつった。
あとほんの少し、ほんのちょっと彼女が力を込めれば、その糸は簡単に断ち切られてしまう。キリキリと細かい糸が千切れていく音が聞こえるようだった。
「春臣、わしはもう、引き返せぬのじゃ。わしには、その覚悟がある」
彼女のその表情は本気である。恐ろしいほどに無表情だ。
「止めろ!!」
「馬鹿春臣……」
彼女の頬に、一筋の涙が伝って、
「最初から、わしのことなど、放っておけばよいものを……この、大馬鹿者が」
途端、張り詰めいていた、糸が、するりと緩んだ。
ぽとり、とそれが、地に落ちた。
春臣が作ったあのお守りも、音もなく草むらに落下した。
命の糸は、あっけなく、闇に吸い込まれてしまった。