162 黎明の炎 1
どうも、ヒロユキです。
ようやく今回から最終パートに突入です。果たして、夜叉媛と春臣の関係はどうなるのか? 目が離せない展開、になるといいな。読者の方々、どうか、最後までお付き合いください。
あかい――。
……は思う。
ああ、あかい、あかい、あかい――。
……は自身が燃えていることに気がつく。
ごうごうと火柱が立ち昇る音がする。
足が、腕が、顔が、胸が、焦がされていくのを、感じる。
……は見つめる。
それは、あかるくて、あかるくて、生きるほどに、あかい。
それは、あつくて、あつくて、死ぬほどに、あかい。
ともかく、あかいのだ。
見渡すかぎり、視界を、『あか』が覆っている。
この世の全てをごちゃ混ぜにした、混沌とした、『あか』だ。
……はただ、その『あか』に包まれていた。
為す術も無く、その『あか』を見つめ続け、
そして、
いつしか、
……は流れ、流れて、流されて、
やがて、流れ着いた。
そこがどこかは、……には分からない。
自分がナニモノなのかも分からない。
ただ、……は呼吸し、生きているだけの存在だった。
しかし、やがて、そこに誰かがやってきた。
ただ、息だけをしている……を見て、驚き、拾い上げてくれた。
そして、うっすら微笑んでこう言った。
「お前は、世界の淵から流れてきたのだな」
続けて、
「それも、面白いことに、淵は淵でも、焔ヶ淵だ」
と言う。
「あそこには、消えない炎がある。何が起こっても決して消えることのない炎だ」
誰かは言う。
「ふふ、げに面白き奴。お前は、その炎に焼かれながら生まれてきたのだな。あの、新たな世界を築く、『黎明の炎』の中で……」
その言葉を、……は聞いている。
ただ、その透明な眼を開いて、
ただ、じっと――。
草むらに抱かれるように、体を丸めて眠りについていた夜叉媛は、はっと目を覚ました。
何だ、わしは、夢を見ていたのか。
起き上がって、頭を揺する。
周囲は深い森である。先ほどまで夜叉媛は、あの千両神社の奥の奥を目指してただひたすらに走ってきていたのだ。
そして、誰にも見つけられそうにないこの草むらを見つけて、腰を下ろして……。
「いつの間にか、疲れて眠っていたのか」
それで、今のような夢を。
夜叉媛は眉間に皺を寄せる。
うんと、うんと古い記憶の夢だった気がする。そう、わしがこの世に生をうけた時の記憶だった。
映像が途切れ途切れで、ずいぶん細切れになっているが、しっかりと夜叉媛はそれを覚えていた。その胸に強く刻み込んでいた。
「焔ヶ淵……」
夜叉媛は、小さく口を動かす。
そう神の世で呼ばれている場所だった。
決して、消えることのない炎が出づる、神の世の聖域である。
そうだ、わしは、他者とは異なる場所で生まれたのだ。
ふいに、さらりと、耳に掛かった長髪が、溢れる。それが、夜叉媛の視界の端に映った。
ああ、あかい――。
思わず、ため息が出るほどだった。
その赤々と燃え盛る炎のような髪色は、夜叉媛がそこで生まれたことへの何よりの証拠なのである。
夜叉媛は事実を確認する意味で静かに頷く。
誰も触れたことのない、永遠なる炎。
世界の源泉、黎明の炎の中から生まれた存在。
それこそが夜叉媛である。
世界で唯一の赤髪の自分。
そして、それこそが、他のホカノとは違う、夜叉媛の確固たる意思を形成していた。
ホカノとしての神の世での暮らしは、決して楽しいものではなく、自分を自分として見失うことが多い生活であったが、夜叉媛はその自慢の髪を見るたびに、何度も自分を取り戻してきたのである。
周囲では、神に仕え働くうちに、魂のない抜け殻の人形のようになっていった者も多くあり、そんな者たちを見るたびに夜叉媛は自身が無になる恐怖に怯えたが、その赤髪が夜叉媛の自我を守ってきたのだ。
ああ、あかい、あかい、燃えるほどに真っ赤な、わしの髪……。
夜叉媛はそれを一掬い、手で掴み取り、そっと頬ずりする。自然と、涙が溢れる。その絹のような美しい髪を雫が伝って、消えていく。
嬉しや、嬉しや……。
ここに、自分がある。確かに、自分がある。
しかし、その時だった。
夕方になり、西に沈む太陽から、体が溶けるような熱い光線が届いてきた。
ちょうど木々の間から挿し込むその赤い光が夜叉媛を照らし出していて、その体を全て、赤に染める。
自慢の、赤髪も、赤に染まった。
それが、そのあっけない様が、夜叉媛の絶望を誘った。
涙が、じわじわと溢れ、大粒のそれになって、次から次へと頬に流れ落ちた。
なんじゃ、これは。
はは、なんじゃ、これは……。
この世にはいくらでも、わしと同じような『あか』が満ちているではないか。
これでは、自分がどこにいるのか分からない。自分と他者の区別がつかない。
誰にも、自分を見つけてもらえない!
夜叉媛の最後の砦であったその『あか』はあっという間に、脆くも崩れ去ってしまった。目の前にかろうじて見えていた喜びの光が、ふ、と掻き消える。
いや、それも当然じゃ。
なぜなら、わしは、最初から存在する価値などないのじゃ。他者に害を与えるだけの、毒なのじゃ。
そんなちっぽけな個性があったところで、意味など皆無だったのじゃ。
そう……最初から知っていたことよ。
ただ、夢によって昔を思い出し、懐かしみ、しばし愛すべき小さな細い糸に縋りつきたかっただけ。
夜叉媛はそこでぐっと涙を拭う。
さあ、一切を諦めるのじゃ。今ならこれで心置きなくこの世からいなくなれる。
誰かに迷惑をかけるだけで、紙くずのようなわしの命など、徹頭徹尾無意味でいい。
それで、全て、諦められる。
夜叉媛は意を決して自身の髪を握った。
今度は、先ほどよりも、もっと多く、ばさりと音がするほどの量である。
ざわり、と不吉な黒い風が吹く。
夜叉媛はおもむろに近くに転がっていた石を掴み取った。
もういい、やってしまおう。
「こんな、こんな無意味な髪など、切り取ってやるんじゃ……」
そして、その石を片手に持って、その手を振り上げる。
そうだ、こいつをわしから切り離して、終にしてしまおう。未練を全て、絶ち切ってしまおう。
何が、黎明の炎じゃ。
何が、神の世で唯一の赤髪じゃ。
笑わせる!
「こんな、ただ、赤いだけの、無意味な髪など……」
いらぬ!
媛子はそう叫んで、一気に、手を振り下ろした。
振り下ろした。
振り下ろした……つもりだった。
しかし、
しかし、石はなぜか、振り下ろされていなかった。いつの間にか、夜叉媛の腕が宙で固定されたいたのである。
金縛り?
いや、違う。
夜叉媛の腕は何者かにしっかりと掴まれていたのだ。そしてそれは、まだ自分をこの世に引きとめようとする、少年の手だった。
「待てよ、媛子……」
そこには、一体どれほど夜叉媛を探しまわったのか、全身傷だらけで汗だらけで泥だらけの少年、榊晴臣が、立っていた。
「やっと……やっと見つけたぜ」