160 終わった時代、終わらない渇き 5
次の瞬間、老人は自身が神社へ続く、森の入口に立っていることに気がついた。
真夏だと言うのに、どこか冷たい風が頬を撫ぜるのが分かって、老人ははっと我に帰る。つい、一瞬前まで、光の一切届かない暗闇にいたせいか、太陽の光が妙に眩しい。目がチカチカとして、めまいを感じた。
いや……。
老人は気がつく。
目が眩しいのは太陽だけのせいではない。
老人は目の前に停まった何かに注目する。赤い回転ランプが顔を照らした。白黒の車体のパトカーである。
と、そのパトカーのウインドーが開き、男の顔が覗いた。
「おお、杉下のじいさんだな。やっと見つかったぜ」
どちらかと言えば、若い印象のある精悍な顔つきをしたその男性警官は、老人の顔を確認し、にやりと微笑んで、パトカーから勢い良く飛び降りた。
次いで、反対側のドアも開き、そこからさらに若々しい警官も姿を表した。まだ仕事に慣れていないのか、キョロキョロと周囲を見回し、先に車を降りた先輩警官から指示を待っているように見えた。
老人はその様子をしばし、呆気に取られて見つめていた。
どうやら、この警官たちは自分を探していたようなのだが、それがなぜなのか、事情が分からない。
そもそも、そのことを思考する前に、つい先程まで、老人は神の声とあの真っ暗なだけの空間にいたはずなのに、そこから唐突に抜け出てしまったこの状況も、理解出来ていなかった。
「わ、わしは……」
一体、どうしていたのだ?
どこに、いたのだ?
額を押さえ、倒れないよう、持っていた杖を強く握った。
「おい、じいさん」
と、目の前に立っていた警官が乱暴な口調で老人を呼んだ。
「やっと見つけたぜ。ったく、どこをほっつき歩いているかと思えば、こんなところで何してたんだ?」
警官は、ガムを口の中でクチャクチャと噛みながら、ポケットに手を突っ込み、見るからに横柄な態度だった。
他の同僚からはどんな目で見られているのだろうか。少なくとも仕事に対し、真面目なタイプには見えない。
彼は面倒くさそうに警察手帳を取り出しながら、老人に突き出す。
「ああ、ほら、俺たちこういう者だから。状況は分かるな? あんたに『逮捕状』が出てる」
その言葉に、思考の最下層を漂っていた老人の意識がはっと我に帰った。
「な!?」
「うん? やっと理解できたか?」
「な、な、なんじゃと?」
ありえない。逮捕状、だと。
この、わしに!
予想だにしなかった発言に老人は狼狽し、杖を取り落としそうになった。
「寝言を言うな! だ、誰に向かってそんな口をきいておる! こんなことをしてただで済むと思っておるのか!」
そうだ。老人は自分の中で強く頷く。
自分がこの町でどれほど恐れられている存在であるのか、ある程度の年齢の人間であれば、当然のように知っている事実なのだ。
したがって、こんな自分を逮捕しようなどと、訳の分からない妄言を吐く大人が存在するなど、何らかの手違いが発生したとしか思えなかった。
しかし、その警官は不快そうに眉間にシワを寄せた程度で、ちっとも怖がっている様子も、何かを勘違いしている素振りもない。
「あん? 別にどうとも思ってないって。ったく、いちいち偉そうな顔してんじゃねえっつうの」
などと言い、老人の怒りなど歯牙にもかけない、余裕の態度だ。
老人は慄然とする。これはどういうことだ。まるで、先程の暗闇の空間を越えて、別世界に来てしまったかのようだった。
おかしい。
なぜ、なぜ……こいつはわしを恐れない!
すると、パトカーの背後に控えていた新人警官らしき青年が、慌ててこちらに回りこみ、その先輩警官の肩を叩く。
「あ、あのう、先輩。もっと老人には丁寧な口調で喋ったほうがよろしいかと……」
と、おそるおそるという感じで、注意した。しかし、そんなことなど知ったことかと、その警官は若い警官の方に向いてこう言う。
「うるせえぞ、新人。先輩のやり方にいちいち口出しすんじゃねえよ」
そう言われると、新人警官は「は、ひゃい!」と裏返った声で返事をし、後ろに飛び退く。どうやら、この二人の上下関係はそれなりに厳しいようだ。見る見るうちに新人警官の肩が小さく萎んだ。
「いいから、お前は黙って俺のやり方を見てな」
と、さらに新人警官に対し、そう付け加えてから、悠然とその警官は未だ状況の飲み込めていない老人を見た。ぽりぽりと襟首の辺りを人差し指で掻きながら言う。
「ともかく、ええと、あれ……なんだっけな。あ、そうそう黙秘権がどうのこうのって下り、これって一応やっとくべきだったよな」
「そ、それはもちろんですよ」
後ろから手を挙げて、新人警官が口を出す。
「ああ、しかしなあ、かったるいぜ。もういいや。黙秘権以下略、な」
「い、以下略って。そんないい加減な!」
「馬鹿野郎、これは意義あるショートカットだよ、ショートカット。新人、仕事ってのはよお、一から十まで馬鹿正直にやればいいってもんじゃねえ。必要のないところは適度に省略するもんだ。いいか? 昔の偉人だって言ってるじゃねえか、兵は神速を尊ぶ。物事はスピードが肝心なんだよ」
そうして、くいくいっと指を動かして。
「お前だって、こんな面倒な仕事終わらして、さっさと酒が飲みてえだろう?」
などと意味ありげに眉を動かす。
「はあ、先輩はアルコールがあれば何でもいいんですね……」
完全に呆れたようで、新人警官が小声で呟き、肩をすくめた。そして、すぐに何かに気づいたように顔を上げて、
「ていうか、僕達にはその黙秘権の下りを必ず相手に知らせる義務があると思いますが! それに、そもそも何の罪で逮捕状が出てるかも!」
「おい、貴様ら!」
そこで、完全にその場の状況に置き去りにされていた老人は怒鳴り声を上げた。
「わしを逮捕するじゃと? 冗談も大概にせい。わしが誰なのか、まさか知らぬはずはあるまい。杉下と聞いて、この辺りで震え上がらぬ者はおらぬ。戯言が過ぎると、わしも対処を考えねばならぬ。よいか?」
杖を持ち、その先端を警官の鼻先に向けた。じり、じり、とにじり寄る。
「わしにとって、お前たちを破滅させるなど小指の先でやれること、それくらいに容易なのだ!」
ドスの利いた声で老人は、そうまくし立てる。
老人は、それだけで十分だと思っていた。なぜなら、これだけ言えば、大抵の者はその首を引っ込め、地面にへなへなと座り込んでしまうのが常なのである。
しかし、その二人の警官は違った。少しも臆する様子はなく、老人をじっと見つめて、立っている。
先輩警官の方が小首を傾げて聞く。
「へえ、破滅ねえ。それってどうやってやるんだ?」
その安穏とした態度に驚きつつも、老人はさらに恐怖を煽る文句を重ねた。
「手などいくらでもあるわ。お前の息の根を止めるなど容易い。なんならお前だけではなく、お前のその一族に手を出してもいいのだぞ。お前はわしの権力がどれほどのものか、知っているだろう?」
「権力、ああ、権力ね」
すると、ご立派ご立派、と警官は手を叩く。まるで、徒競走で一等賞を取った子供を褒めているようで、そのあまりに軽々しい口調に、老人はいきり立った。
「き、貴様ぁ!!」
そう叫んで、杖で殴りかかる。しかし、警官はそれを腰を捻って軽くかわした。
「おおっと」
と、なぜか大げさな素振りだ。まるでそれは、老人に自身の無力さを再認識させるためにわざと大きな動きで避けたのかと思わせるほどの白々しい動きにも見えた。
そして、
「っで、一つ聞くんだが……」
と口を開く。
「あんたの権力って、どこにそんなもんがあるんだ?」
「なに?」
「だから、今すぐに目の前に出してみせろよ。あんたの言ってる権力ってさ、どんだけ大層なもんなのか」
「何を馬鹿な事を! 道理の分からぬ低能が! 意味の分からぬことを言うでない! わしを舐めくさりおって、そんなものがおいそれと見せたりできるものか!」
老人の声は怒りに震える。しかし、それはすぐに一転して、狂気じみた笑いに変わった。
「フフフ……しかし、お前が望むのならば良いぞ。わしが一声呼ぶだけで済む。今すぐにでもお前たちの周りを、わしの配下の者たちで包囲させてやる。一歩も身動きが取れないほどにな!!」
「……」
「それがわしの権力だ。支配力だ。全ての者達を従える力だ。いいか、その力の前では、お前のような小男一人、道端を這いつくばる一匹のアリに等しい。いくらでも容易く踏みにじってやるだろう。ハッハッハッ……」
しかし、その笑いはその場であまりにも虚しく響いた。
それがなぜなのか分からないが、老人は自身が笑いながらも冷や汗を掻きつつあることに気がついた。
どうしたことだ。もしや、わしは、この者たちに気後れをしているのか?
その間も、警官は揺るぎない鋭い眼光を老人に向け続けていた。
「そうか、それがじいさんの『力』だよなあ」
と、言葉を噛み締めるように、深々と頷く。
「でもさ、それって、こう思えないか? それをじいさんが自分の力だと『勝手に思い込んでる』って、さ……」
どうも、ヒロユキです。
予定としては、このパートはまだもうちょっとだけ続きそうです。っていうか、正直、僕の中では、じいさんの話とかもうどうでもいい感じです(書くのがすごくしんどい)。早く最後の春臣と媛子の話に移行したいなあ。