157 終わった時代、終わらない渇き 2
気を失っていたのはどれくらいだったのか。
杉下老人は、いつしか自身の体が暗闇の中に横たわっているのに気がついた。
ここは、どこだ?
どこかの部屋の中なのか?
しばらくの間、自分に起こった状況について、ボヤけた意識で分析し、ゆっくり体を起こす。そして、周囲に首を巡らすが、見渡すかぎりに視界は濃密な闇で満たされていた。
闇、闇、闇、闇、闇、隙間のない、そして、逃げ場のない、闇――。
何か明かりになるものはないかと頭上に目を配ってみる。しかし、やはり電灯のスイッチはおろか、天井があるのかさえ、分からない。
「……」
空気が微かに流れているところを考えると、閉じられた空間ではないのだろうか……。
しかし、そう考えても、ここがどこなのか老人は全く検討がつかなかった。
そもそも、自分は今まで、どこで何をしていたのか。
確か、最後の記憶は、頭上に大きな鳥が現れて、目の前が真っ暗になったのは覚えている。
しかし、それからの記憶ははさみでぷっつりと切り取られたかのように、ブラックアウトしていた。
「まさか、この暑さで気絶をしてしまったのか?」
だが、仮にそうだとしても、こんな奇妙な場所に横たわっていた理由にはならない。目覚めるのであれば、あの森の中の小道で目覚めるべきなのだ。
とするならば、他に有り得べき可能性は……。
「わしは、何かの夢を見ているのだろうか?」
ありえない話ではない。
しかし、それにしては鮮明過ぎる夢だ。老人は不思議に思った。体の感覚や意識があまりにもはっきりし過ぎているのである。普通、夢とは、もっとあやふやで、曖昧なものではなかったか?
むう……やはり、分からない。
と、
「恐れし者がやってきた……」
どこかともなく、声がした。
「恐れし者がやってきた、恐れし者がやってきた、今日はほんに、面白き日よ」
まるで、歌うように軽やかに、その声は言う。それは、耳元で囁かれているようで、遠くで微かにたゆたっているような声だった。
「騒がしき者がやってきた、騒がしき者がやってきた。今日はほんに、騒がしき日よ。今日はほんに、面白き日よ」
姿が見えないのをいい事に、その声は老人をからかうように、そこらじゅうを飛んで跳ねた。まるで、透明な子どもがそこらじゅうを走りまわっているようで、不気味だ。
老人の背筋に怖気が走る。思わず、反射的に叫んだ。
「何だ、お前は! 何者だ、姿を見せろ!」
「おうおう、老いてなお威勢のいいことよ」
返事は返ってきたが、その声はまるで四方八方から聞こえてくるようで、掴みどころがない。
「いいからわしの質問に答えろ。貴様は誰だ!」
すると、
ふふふ――。
腹の底をぬるりと冷たい手で撫でるような、そんな薄ら寒い笑いが聞こえたかと思うと、
「……ならば答えよう、わらわはお前が望み、追い求めてきた存在、『神』だ」
その声は言った。
思わぬ答えがぽろりと転がってきたことに、老人は絶句する。体重を預けている杖が揺れた。そのまま倒れて、折れてしまうかもしれない、と思った。
「神、だと?」
ごくり、生唾を飲み込む。
「如何にも」
明瞭な声が答える。
答えは、肯定である。ここで普通の人間ならば、いくらこの不思議な声が超自然的さを醸しだす空気をまとっていたとしても、すぐに真の神の声だと鵜呑みにする者はいないだろう。
だが、老人は信じた。一切を疑わなかった。
そうか、そうか、この者は神なのかと、がっちりと心の鍵穴に答えがはまったのである。
そう、それならば、全て合点が行く。
やはり、わしは選ばれた者であったのだ。全てが、こうなる運命にあったのだ。自分はその素質がある。やはり、わしは、神の力を手にできる存在なのだ。
老人の老獪な瞳が不気味で危うげな輝きをギラギラと見せる。
この声の主は、神に違いない!
では、そうなると、この暗闇は神が見せている幻なのか?
「いや、それは少し違う」
急に言葉が飛んできて、老人は心を読まれた気がし、ぎょっとした。
「な、何が違うのか?」
「これは、幻ではなく、お前の心の中の風景だ」
「わしの、心の中、だと?」
「そうだ、お前にとっては、懐かしいのではないか。お前は昔からここにいた。ずっとここにいた」
老人は驚いて辺りを見回すが、触れられる物も何もなく、空っぽなだけの暗闇が自分の心の中とは、とても思えなかった。
わしの中身は、こんな、がらんどうなはずがない。
わしはもっと、もっと、満たされているはずだ。幸福な気持ちが溢れているはずだ。
そこへ、神の声が続きを話す。
「わらわはお前の心の中にいる。だからお前の心が読めるのだ」
「……なに!」
本当に、ここが、自分の中だと言うのか?
とても、信じられない。
「本当だとも、嘘ではない」
胸中をずばり言い当てられて、老人は言葉を失う。心を読まれていることは間違いないようだ。
「しかし、お前は、いつも何かから逃避しているのだな」
すると、まるで、面白いものを発見したような明るい無邪気な声で神は言った。
「何?」
「恐怖と孤独を常に、感じている。そこから逃げ出そうとしているな。わらわにはそれが手に取るように分かるぞ。お前の中にあるもの、それは――」
恐怖と、孤独だ。
「孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独、恐怖、孤独……」
いきなり、壊れたレコードのように、神の声はキイキイ声で繰り返す。どこまでも終わる気配のないその冷たい言葉の羅列に、堪らず老人は声を荒げた。
「う、うるさい、やめろ!」
止める声が裏返った。知らず、冷や汗が喉を伝っている。
ええい、なんだこれは。
まるで、見えない手が体中をまさぐっている気もした。ぶるぶると背中が震える。
なぜ、わしはこんなに動揺しているのだ。
「分かっているぞ、分かっているぞ、わらわには、全て、な。お前は、この感情から逃れるために、神の力が欲しいのだろう」
「逃れる、だと? 違う。わしは、力を手に入れ、完全になるのだ。他者を圧するために」
そうだ、そして、わしが最強になる。不死身にもなれる。全てがわしの思うがままだ。
老人は叫んだ。
しかし、
「ふふ、完全だと、笑わせるな……」
と今度は神の声がそう言ってあざ笑う。
「お前には無理だな」
「何だと! 神よ、お前はわしに力を与えるために、やってきたのではないのか?」
「馬鹿を言え、どうしてお前に神の力をやる? いや、そもそも、それ以前の問題だ。お前には、神の力は使えない」
「使えない? わしが人だから、か?」
神はその問いには答えなかった。
神は何かを考えているようだった。
しばらくして、暗い闇の向こうから、再び声がした。
「人の子よ、一つ訊ねよう、お前の言う神の力とは何だ?」
「わしが言う、神の力?」
「そうだ、お前は神の力とは何だと答える? わらわに聞かせてみせよ」
「答えたならば、神の力をくれるのか?」
「さあな、それは、お前の答え次第だな」
「ふん、面白い、ならば……」
と、老人は、一つ息を吸って、答えた。
「神の力とは、それは、この地上を圧倒する、完全なる力だ。全てを、我が物にして操るための、唯一無二の道具だ。慈悲など、欠片もない、他者を排するための最強の武器だ!」
それ以外に、何の答えがある?
自信満々に、唾を吐きかけるほどの勢いで、老人は言い切った。
これこそが、自分が長い間追い求めた、神の力に対する真理なのだ。間違っているはずがない。
しかし、神からの返事は無かった。
長い間、沈黙が流れた。
沈黙が、続く、続く、続く――。
まさか、神は居なくなってしまったのだろうか。
痺れを切らした老人は話しかけた。
「どうした、神よ。わしの強き意思に、恐れをなしたか?」
「……」
返事はない。
「何だ、掛かって来い、神よ。先程から姿を見せぬまま、お前は、わしから逃げているのではないか?」
「……」
返事は、ない。
「やはり、わしが怖いのだな、神よ。クヒヒヒヒ……この、鋼の精神を持つわしを、何物にも屈せぬ、不屈の野望を持つわしを……ヒヒヒヒ……」
そう――。
「恐れてているのだろうがあああああああああああああああああああああ!!!!」
「寝言を言うな」
それは、凛然たる神の声だった。
「お前の何が怖いというのか! 尻尾を見せて、ただぷるぷると震えるだけの、小ねずみが……」
「何だと!」
真っ暗な空間に、太鼓の音のように、ずんずんと響く。
「お前の答えは、不正解だ」